100話
その日、一刀斎は初めて恐怖を抱いた。
***
突如襲った衝撃により、視界が白く弾ける。その正体は、無拍子から繰り出されたぶちかまし。一瞬、意識が逸れた瞬間にやられた為、一刀斎はそれをまともに食らってしまった。
「ガ――ッ!? 」
身体が痺れる。指一本動けない。全身が硬直している。偶然か、必然か。それは、一刀斎の脳波の波が最も刺激に対して敏感な時にやられた。その衝撃は凄まじく、どんな達人でも数秒間神経が麻痺して動けなくなる。脳は、筋肉と違って鍛えることは出来ない為、これは防ぎようがなかった。
一刀斎は、最初自分が何をされたのか分からなかった。気付いたら、あれ程苦労して詰めた間合いが元に戻ってしまっていた。一刀斎が、意識を落としたのはコンマ数秒。しかし、それはほんの僅かな油断が生死を分かつ真剣勝負において、あまりにも致命的な隙であった。
「……さて、次はこちらから行かせて貰おうか」
「――っ!! 」
刹那、真っ黒な闘気が爆発する。黒い太陽。常闇。重苦しい空気が周囲を漂い、黒い渦のような引力が放たれる。忠勝は、槍を構えただけ。ただそれだけで、濃厚な死の気配を肌で感じさせた。
一刀斎は、生まれ持っての強者であり、自他共に認める天才である。初めて握った木刀で、盗賊崩れ二十四人を返り討ちにしてしまえる程に。
それ故に、一刀斎は絶望を味わったことがない。理不尽に屈したことがない。どんなに高い壁も、最終的に全て乗り越えて来たからだ。あの師匠ですらも。
だからこそ、これが初めてだ。敵わないと思い知らされたのは……。
「くっ……そったれがぁあぁぁあぁぁあぁーっ!!! 」
恐怖を振り払うかのように雄叫びを上げた一刀斎は、奮然と剣を握り駆け出した。
一度で駄目ならば、二度三度と、それでも駄目なら当たるまで続ければ良い。間合いが開いたからなんだ。死ぬ気で攻撃を仕掛けろ。止まるな! 諦めるな! それは、命を賭してここまで繋げた者達への侮辱にしかならない。最早、一刀斎に止まることなど許されないのだ。
駈ける、駈ける、駈ける。忠勝の間合いに入った瞬間、嵐のような迎撃が一刀斎を襲う。だが、一刀斎は恐怖を振り払って更に一歩踏み込み、爆発的な加速をもって懐へ切り込む。
「はあああああああーっ!!! 」
鋭い剣閃が虚空を斬り裂く。刹那、暴風が舞い上がり甲高い金属音と共に火花が散った。一瞬の空白。されど、直ぐに両者の攻防が再開する。一つ、二つ、三つと続けざまに放たれる斬撃は、徐々に速度を上げていく。身を捻り、腕をしならせ、緩急をつけた刃が縦横無尽に振るわれる。
一刀斎は強い。積み重ねた鍛錬は、見惚れるほどに練磨された体捌きを生み出し、身震いする程に鋭い斬撃が瞬きの間に幾つも繰り出される。それこそ、並の人間であれば十秒も経たずに切り刻まれるであろう。
……だが、それでも忠勝の方が強い。
「――ハッ!! 」
掛け声と共に鋭い刺突が放たれる。狙いは、右目。一刀斎は、反射的に首を傾けて躱そうとするも、一瞬早く穂先が頬を掠めて赤い裂傷が横一線に走った。
焼けるような痛み。しかし、これで終わりではない。続けざまに放たれた六連撃が一刀斎を襲う。
(早い! これは、全てを対処することは出来ん! )
素早く判断した一刀斎は、急所への攻撃のみに集中。短く息を吐き、迫る穂先を刀を振るって捌いていき、躱しきれない攻撃を肩と篭手で受け止める。
「〜〜っ!! 」
苦悶の表情。忠勝の一撃は、一つ一つがとてつもなく重い。攻撃を受ける度に鎧は砕かれ、肉は切り裂かれ、凄まじい衝撃が全身を駆け巡る。それこそ、まともに食らってしまえばタダではすまないだろう。
それでも、一刀斎は果敢に立ち向かう。
「おおおおおおおおおぉっ!!!! 」
大気を震わせる咆哮。死中に活あり。その一心で、刀を振るい続ける。距離を取れば、そもそも一刀斎に勝ちの目は無い。なればこそ、例えそこが死地であろうとも踏み込まねばならないのだ。
袈裟懸け、横薙ぎ、斬り上げ、逆袈裟、刺突。フェイントを混ぜながら、持ち得る全ての技術を駆使して攻めかかる。忠勝は、無敵ではない。人である以上、体力の上限値は決まっている。反応出来ない死角もある。何処かに、攻略の糸口はある筈だと。
しかし、その全てを紙一重で躱される。その度に、強烈なカウンターが一刀斎を襲った。咄嗟に防御しても、衝撃は防御を貫通して身体の芯へと届き、捌ききれなかった斬撃が肌を斬り裂く。気が付ければ、全身の至る所に裂傷が刻まれていた。
(クソッタレ! これでも、届かないのかぁ――)
僅かに溢れた弱音。揺らぐ意思。その一瞬の隙を突かれた。穂先で刀を巻き上げて胴を空けさせ、素早く槍を反転させて鳩尾を石突で穿つ。
「セァッ!! 」
「――カハッ!? 」
吹き飛ばされ、地面を無様に転がる。その最中、肺の空気が強制的に吐き出され、一刀斎は激しくむせてしまった。
戦闘開始から、五分二十八秒。
「――っ」
一刀斎は、遂に膝をついた。
***
左手で鳩尾を押さえながら激しく嘔吐く。荒々しい呼吸。視界がぼやける。地面に散乱した鎧の欠片。手足は震え、全身に刻まれた裂傷から血が滲み出る。
ありとあらゆる手段を行使しても届かない。息が上がっているようにも見えない。高々数分間とはいえ、一刀斎達はあんなにも攻撃を仕掛けたと言うのに。……その身体には、未だ傷一つ付いていない。
(…………化け物がっ)
悪態をつきながら、一刀斎は右手を地面に転がる刀へ伸ばす。震える指先。圧倒的な力の差を思い知らされながら、尚も刀を求めるのは剣士の性か、それとも――
(…………忠義の為ってか? )
らしくないと、自嘲する。数年前までは、誰かの為に剣を振るうなんて考えもしなかった。ただただ、己の為に剣を振るっていた。
研鑽の日々の中、気まぐれに弱者を助け、偶に己を慕って付いて来た物好き達へ剣を教える。弟子という感覚もなかった。自ら弱者を助けようだなんて、そんな崇高な考えなど持ち合わせていない。誰かに仕える気も起きなかった。全ては、気まぐれ。何処までいっても、自分は剣を振るだけが取り柄の剣術馬鹿。それが、一刀斎という男の本質だと自認していた。
『本当か? それは、本心か? 』
その、声音は……。
「――っ」
不意に脳裏に響く声。
刹那、在りし日の師匠の言葉を思い出した。もう、随分と昔に決別した師匠の存在を。
鐘捲自斎。力任せに剣を振るしか能が無かった少年に、剣術というモノを教えた存在。
技量は、既に超えたと思っている。事実、鐘巻自斎の下から去る際、一刀斎は引き止める自斎の手を振り払い、真剣勝負にて勝利を収めた。完勝であった。
……それなのに、一刀斎はあの日見た一閃が目に焼き付いて離れない。村人を守る為に、盗賊の前に立ち塞がったあの背を超えられた気がしない。
あの背中を。去り行く弟子の背を、寂しげに見つめるその眼差しを。背中越しにかけられた言葉を。何故か、忘れることが出来なかった。
【お前の剣は独りよがりだ。それでは、真の強さは永遠に手に入れることは無いだろう。……弥五郎。いつか、己の全てを懸けても良いと思える人に出会えると良いな】
あの日、背中越しに言われた言葉。分からない。今でも、その真意が分からない。
一刀斎は、返事が返ってくるか分からずとも、その声に答えを求めてしまった。
「……教えろ、クソジジイ。本当に、そんなことで強くなれんのか。本当の強さを手に入れることが出来んのか」
『出来るとも。人は、己ではない誰かを護りたいと想えた時に、誠の強さを得ることが出来るのだから』
「……それは、弱者の言い訳じゃねぇのか」
『それは、違う。己しか持たぬ者は、真の強者足りえない。誰かを護りたいと願う信念に、誰よりも強くなりたいと願う欲望が勝てる訳がないだろう』
「――っ」
その言葉が、胸に染みた。
「……なれるか? 俺も、あんたと同じように――」
『……馬鹿なことを聞く奴よな。……弥五郎、お主は既に出来ておるよ。ただ、それを見て見ぬふりをしているだけだろうに』
「なにを、言って……」
『……うむ。では、何故彼らを弟子にした。何故、小さな童に頭を垂れた。何故、白き女子に剣を教えた。金の為か? 仕える家を探していたからか? いや、違うな。あの時、お主は金を無心していなかった。仕えるなら、北条家でも良かった筈だ。強さだけを求めていたあの頃のお主であれば、女子に剣を握らせることすら許さなかっただろう』
『お主は、信じたいと思えるようになれたのだ。力になりたいと思えるようになれたのだ。ひたむきに努力する弟子達を、心から民のことを想える童を、そんな童を護りたいと誓った女子を、お主は大切に思えるようになれたのだよ。あの日、儂が願ったようにな』
「――っ! それは……」
魂が震える。
刹那、彼らと過ごした日々が脳裏を駈けた。共に笑いあったあの日を、共に嘆いたあの日を、共に夢を語り合ったあの日を。そんな彼らを害されることを想像しただけで、腹の底から怒りが湧き上がってくる。
『刀を握れ、弥五郎。大切な者達の為に』
その言葉は、ストンと胸の奥へと入っていった。それが、刀を握る理由だと言わんばかりに。
(あぁ、これはもう……誤魔化せぬな)
一度、それを認めると少しだけ身体が楽になった。視界が晴れる。刀へ右手を伸ばす。指先の震えは、いつの間にか収まっていた。