34話
天正九年 八月 小田原城 北条氏政
三法師様一行が箱根に向かわれてから七日が過ぎ去ろうとしている。そろそろお着きになられただろうか。
先日までの盛り上がりも鳴りを潜め、元の日常に戻りつつある今日。
ようやく来客の対応が一区切り付き、久方振りに新九郎と月見酒を楽しんでいた。
先日の宴でも酒は飲んだが、我ら親子はさして強い訳では無いし、こうして静かに嗜むのが丁度良いのだ。
「父上、三法師様はもうお着きになられたでしょうか? 」
不意に問われたソレは、先程考えていた事と同じで、あぁやはり親子なのだなぁと実感してしまい思わず笑ってしまった。
そんな俺の様子を心配そうに眺める新九郎に、何でもないと首を振りながら盃を覗く。
そこには、酒に月が写りこんでおり何とも雅な雰囲気を醸し出していた。
「あぁ今頃温泉に浸かっていることだろう。また、兄弟で浸かりに行くのも良いかもしれんな」
ふと、幼き頃の日々を思い出す。あの頃は、未だ兄は健全で、北条家の家督を継ぐのは兄だと思っていた。
兄弟達と共に兄を支えよう、そう笑いあっていた日々は俺にとって、金色よりも価値のあるかけがえのない大切なモノだった。
そんな思い出の中でも、兄弟皆で入った露天風呂は格別であり、己の胸の内をさらけ出す良い機会でもあった。
……しかし、もうあの日には戻れない。
温泉に浸かろうとすると、どうしても亡くした兄弟を思い出してしまい、足が遠のいてしまっていたが……そろそろ、ちゃんと向き合わなければいけないのかもしれないな。
そんな風に思えるようになったのも、ひとえに三法師様のおかげだろう。
三法師様は、北条家の意志を継いでくださった。そして、未だ新九郎は若く先がある。新たな世代が訪れようとしておるのだ。
あぁこれで北条家は安泰だ……そう思うと、何やら心が軽くなったように思えた。
きっと肩の荷がおりたのだろう。後を継いでくれる人がいる、そう思うだけでなんと心強いことか。
父上の真似をして、新九郎に家督を譲った後もでしゃばっていたが、ふふっ本格的に隠居しても良いかもしれんな。
クイッと盃を飲み干すと、新九郎がすぐさま酒を注いでくれる。最近は、こうして親子二人で飲むことも無かったから、何かいじらしく感じる。
「父上、余程昨夜のことが堪えているのですね」
そう言って微笑む新九郎に、思わず視線を逸らす。その姿は図星をつかれたことを物語っており、内心冷や汗をかいていた。
「……なんのことだ」
「ふふっ惚けなくても良いですよ。父上が月見酒をする時は、決まって面倒な案件が転がり込んで来た時です」
そう言われると、もう降参するしかない。思えば、嫌なことがあった日にはこうして月を見ていた気がする。
「はぁ……新九郎に隠すことでも無いか」
俺はおもむろに懐から一通の文を取り出すと、新九郎の前に広げた。
これは、昨夜武田から届いた物だ。差出人は長坂釣閑斎光堅、武田家譜代の家老であり現当主勝頼の懐刀。それだけで厄介事の匂いが漂ってくるようで思わず顔を顰めてしまう。
「やはりそれでしたか。しかし、武田から和睦を求めてくるとは……何故、今になって我等北条家にこのような文を? 」
新九郎も顔を顰めながら、武田の意図を探る。そんな様子を傍目に見ながら、俺も思案に没頭する。
何故今になって送ってきたか、それは間違いなく三法師様が狙いであろう。伊達などの奥州勢でさえ知っていたのだ、まず間違いなく武田も三法師様が我が北条家に出向いていることを知っていただろう。
そこで道中に三法師様へ危害を加えなかったことから、武田の狙いが読めてくる。
「おそらく、武田は三法師様を通して織田家と和睦を進めようとしているのだ。そして、北条家も武田討伐に加担することは明白。故に、我が妹の誼を辿って和睦を求めてきたのだろう」
「……やはり、そうでしたか。武田の者が、三法師様が居ないことを知るやいなや動揺を隠しきれておりませんでしたし。風魔の者に探らせたところ、三法師様の行方を嗅ぎ回っているようです」
どうやら、新九郎も不審に思っていたようでちゃんと裏を取っていたようだな。この子も、ようやく当主としての自覚が目覚めたようで、とても嬉しく思う。
所詮、政は腹の探り合いが主だ。いかに民の心を掴み、敵の弱味を握れるかにかかっておる。
三法師様は将来有望だが、些か純粋なきらいがある。まるで、戦の無い世から来たかのようだ。
幻庵殿であれば、裏を読む力を身に付けさせることが出来る。そう思い、託したのだ。
かの御方は長らく北条家を支えてきた御方、当然裏のことも良くご存知の筈だからな。
しかし、三法師様に文が届かなかったことは、実に幸いなことだ。箱根に湯治に行かれたことは、それこそ重臣達しか知らない機密情報だからな。
まさにツキを持っていると言えよう。故にこうして、時を稼いでいる間に策を練られるのだからな。
盃を飲み干し一息つく、色々思案してみたがやはり最終的には上様の御判断次第だな。
「上様が武田討伐を進めておるのだ。臣下たる我らが武田と和睦する訳にはいくまい」
「左様ですな、徳川とも同盟を結んでおりますし上様の御判断を仰ぐ他ありませんでしょう。……して、父上にお尋ねしたい……この和睦成り得るとお思いですかな? 」
新九郎にしては、中々踏み込んだ問いかけ。うむ、ならば父として前当主として応えねばならない、故にこれから話す内容は他言無用。
ゆっくりと目を閉じて耳をすまし、周囲の気配を探る。小太郎以外の気配が無いことを確認すると、俺は静かに口を開く。
「無理だな。ここまで来て和睦は成り立たん」
チラッと新九郎を見ると、胸を撫で下ろしていて、どうやらここまでは想定内らしい……だが。
「だが、降伏なら分からんな」
続けられた言葉は予想外だったのか、目を見開き呆然としている。全く、こう顔に出やすいのは新九郎の悪い癖だな。
数瞬で立ち直ったのか、慌てて詰め寄ってくるのを手で制す。
「まぁ落ち着け」
「これが落ち着いていられますかっ! 上様は武田を滅ぼすに決まっていましょう!? あれ程、攻め立てているのですぞ! まさか、情でもわいたのではありますまいな? 」
確かに上様は武田を大敵と定め、後継者であらせられる岐阜中将様に攻略を任せている。長篠の一件以降も、勝頼のことを警戒しておるようだし武田の生き残る道は無いように思える。
「新九郎、武田は大敵ではあるが怨敵では無いのだ。そこに武田の活路はある」
「な、なんとっ! 」
怨敵とは本願寺のことを言うのだ。奴らには上様も手をやかれた、どの大名も僧侶共に一つや二つ思うところがあろう。
奴らは政に手を伸ばしてきた。だから、上様に滅ぼされたのだ。僧侶は僧侶らしく説法を説いていれば良いものを……愚かなことだ。
織田家が天下を統べる時、残った宗派共がどう対応するかが肝になるやもしれんな。
「ふっ……どちらにしろ、各々の役割が重要なのだ。後は新九郎で考えよ」
「えっ? ちょ、ちょっと父上!? 」
新九郎が喚いているが、まぁこれから先は課題だな。頑張りなさい。
クイッと盃を飲み干し、月を眺める。
三法師様、貴方様が鍵となりましょう。




