97話
徳川家の破滅と、織田家が築く栄華。人と人との想いが大いなる意思を作り出す。
これは、神の気まぐれ。されど、人の願いの結晶。三法師という絶対なる王の器が日ノ本を照らし、天下万民を泰平の世へと誘う。それが、この世界線における運命だった。
しかし、それは認めない者がいた。徳川家康。徳川家の行く末を悟り、運命を呪いし者。抗いし者。復讐を近いし者。その灼熱の如き怨念は、家康本来の気質をも捻じ曲げて一つの鬼謀を生み出してしまった。家康が守りたかった筈の命。大切な家族や家臣達の命をも対価にした鬼謀を。
そして、遂にここまできた。本多忠勝。盤上をひっくり返す最強の駒が、存分に力を発揮出来る展開へと。
絶望が脳裏を過ぎる。
今、織田軍は敵の懐の中にいる。先ず弓兵が馬を狙い、三法師達の機動力を削いた。退路を断ち、忠勝によって殲滅する為に。
その結果、三法師達は三人の剣士を失ってしまった。残り十人。いや、三法師は戦えないのだ。残る戦力は九人。この少人数で、三法師を守りながら弓兵と忠勝を倒さねばならない。
……正直、厳しいと言わざるを得ないだろう。客観的に考えて、三法師は足手まといだ。足手まといを抱えた状態で忠勝に勝てるとは思えない。高丸にでも抱えさせて、五郎左達の居る北へ向かわせるべきだろう。
普通に考えればその手を取る。しかし、三法師は逃げることは出来ない。伏兵が、あれだけとは限らないからだ。この場所に誘い込まれ、挟み撃ちにされた事実がある以上、三法師達は常に最悪の事態を考えねばならない。考え過ぎだと言われようとも……だ。
まさに、絶望的な状況。それでも、一刀斎と雪の二人は不敵な笑みを浮かべながら足を踏み出した。
「問題ない。結局、本多忠勝に勝たねばならぬというだけ。最初から、分かっていたことよなぁ」
「師範。弓兵は、私が片付けます。問題ありません。残数も、伏兵の数も、場所も、おおよその見当は付いております。私ひとりで十分です。……決して、兄弟子達の死は無駄には致しませんっ! 」
力強く頷き、二人は背を預ける。その瞳に、選択に迷いは一切見えない。信じているからだ。己の努力を、互いの実力を、同胞達の心を。……そして、主君の強さを!
(……あぁ、分かったよ。それが、君達の選択なんだね)
二人の眩い姿に、三法師も覚悟を決める。本多忠勝を倒す為に、この窮地を脱する為に、彼らにここで死んでくれと命じる覚悟を。
ゆっくりと、己を抱えていた高丸の腕を解く。
「殿? 」
「――っ」
高丸の声に、自然と皆の視線が集まる。
震える指先。鼓動が高鳴る。正直、未だ慣れない。いや、一生慣れないだろう。人の命を背負う重さは。
だが、それでも三法師は逃げなかった。あの夜、もう逃げないと誓ったから。
「――注目っ!!! 」
声を張り上げる。不安や怯えを見せないように。
「直ちに馬具を外し、余の下へ集めよ! 馬は、五頭を残して他は逃がす。この場に留まらせていても、奴らの格好の的にされるだけだ。それならば、遠くへと逃がした方が良い。そして、残す五頭は全て迎撃の為に使う」
「し、しかし、それでは御身を逃がすことが……」
「余は、逃げぬ。伏兵の存在がある故……な。逃げることは叶わぬ。……案ずるな、勝算はある。矢はこの馬具を盾にすることで防ぎ、その間に別動隊が本多忠勝と伏兵を叩く。それが、最善手だっ!! 」
『――っ!! 』
三法師は、力強く断言する。幸い、三法師が騎乗している馬は大きく豪華絢爛な馬具を装備している。これ一つで、三法師の全身を覆い隠すことが可能だ。一刀斎達の馬にも、同様に傍付きとして相応しい馬具を着けている。十分、盾として使えるだろう。
続けて、三法師は右手を振り払って指示を飛ばす。
「一刀斎並びに、高瀬、三浦、栗山の四名は、東へ向かい本多忠勝を仕留めよ!! 雪は、単身西へ向かい伏兵共を仕留めるのだっ!! そして、残る四名はそれぞれ東西南北を警戒しながら余を死守せよ!! 決して、矢を余の下へ通すな!! 良いな!! 」
声を張り上げる。僅かでも震えが出ないように、矢継ぎ早に指示を飛ばした。あぁ、本当に酷い話だ。きっと、殆ど生き残らない。
だが、それでも……。
「今、この時!! この一戦に、日ノ本の行く末が懸かっている!! ここが、最期の正念場だ。……皆の者、己が命を賭してでも使命を果たせっ!! 」
『御意っ!! 』
震えは、収まっていた。
***
その後、一同は直ぐに行動に移した。
惚けている時間はない。敵は、目前にまで迫っている。急いで馬具を外す者達を尻目に、誰よりも早く一刀斎は高瀬らを連れて出陣する。彼らは、馬具を外す必要はない故……いや、馬具を外す時間など無かったからか。
「行くぞ! 俺に続けっ!! 」
『おおっ!! 』
先陣を切る一刀斎に、高瀬らが続く。短い指示。されど、それで十分。彼らは、自身の役目をこれ以上なく理解していた。
視線の先、人馬一体と化した黒い死神が大地を疾走している。当初、三百メートル離れていた筈なのに、もう残り百メートルを切っている。一分も経たずに矛を交えることになるだろう。
『――っ』
息を呑む。本多忠勝が放つ凄まじい闘気は、まるでそこだけ別次元の空間が広がっているかのような錯覚をもたらす。空気が違うのだ、明らかに。矛を交えるまでもなく、高瀬らは己の末路を悟った。
だが、それが何だというのか。
(命を落とすのが怖くて戦場に立てるものか! )
「ハッ! 」
一度、二度、三度、鞭がしなり馬が加速する。飛び出す三人、一足飛びに距離を詰める。忠勝の視線が、先行する三人へ集中する。
(……狙い通りっ)
高瀬は、冷や汗を流しながらも笑みを浮かべた。
(俺は、本多忠勝に勝てない。単純に弱いからだ。気持ち一つで覆せるなんて思ってやいない。……だがな――)
「弱者には、弱者なりの戦いがあるんだよっ!! 」
抜刀。忠勝目掛けて突撃する。
「勝つんだ、俺たちで! 本多忠勝にっ!! 」
『おおおおおっ!!! 』
闘気が漲る。瞳に焔が灯る。彼らは、己の役目を果たす為に命を燃やす覚悟を決めていた。
***
一方その頃、雪もまた己の使命を全うする為に大地を駆けていた。
揺れる黒鹿毛。馬具は置いてきた。ここからはスピード勝負、少しでも身軽な方が良いから。弓兵への対策は、兄弟子達が教えてくれた。
前方で何かが僅かに光る。
「――フッ」
来た。雪は、冷静に手綱を操作して僅かに右へ移動する。刹那、矢が雪の真横を通過。避けられたことに動揺したのか、視線の先にある茂みが僅かに揺れた。
やはり、か。雪は確信を得る。鞭を打ち、急加速。茂み目掛けて一直線に突き進む。その行く手を阻むように、続け様に放たれる矢。だが、当たらない。当たらない。雪は、その全て回避する。
そう、これこそが最適解。毒矢も仕込み矢も、回避してしまえば問題ない。だからこそ、誘った。馬鹿正直に真っ直ぐ突き進み、攻撃を誘発させて伏兵の潜む場所を暴いた。
(右に一人、その先斜め向かいに二人、左に一人、最奥に一人。……よし、これで全員ね)
右手を懐に入れると、左手で手綱を握りながら器用に中腰でバランスを取る。大きく揺れる馬体が、ジグザグにステップを刻み、数多の矢を回避しながら加速し続ける。
その奇想天外な動きに、弓兵達は思わず目を見開く。正しく、曲芸。これは、体重の軽い女性にしか出来ないだろう。雪は、その体勢を維持したまま、右側に潜む弓兵目掛けて石を投擲する。
「ヒィギッ!? 」
『!? 』
鈍い音と共に、短い悲鳴が聞こえる。まともに脳天を揺らされた弓兵は、人体から出してはいけない音を響かせながら、泡を吹いて地面へと崩れ落ちた。
目の前で同胞が殺られる。その決定的な場面を目の当たりにすれば、どんな人間でさえも動揺する。息を呑み、隠密に徹していた気配が顕になる。
その瞬間、雪の右腕が再度唸りを上げた。
「――シッ! 」
「グゥ! 」
「メキョッ!? 」
「ゴフッ!! 」
三度、崩れ落ちる音。その直後、最奥の気配が西へと動く。彼は、一も二もなく弓矢を捨てて逃走を選んだ。己が生きていれば、それだけで三法師の動きを阻害する要因足り得ると判断したからだ。
――だが、そんなことを雪がみすみす許す筈がない。最奥に一人居ると分かった時点で、逃走する可能性は折り込み済みである。
「行け! 」
《ヒヒンッ!! 》
鞭を叩き、馬の背から飛び降りる。ちょうど一人目の真横に着地した雪は、そのまま刀を振り抜いて弓兵の首を斬り裂くと、草木を掻き分けて推し進む愛馬の背を見た。迷いのない足取り。雪は、力強く頷いて残りを仕留めにかかる。
「て、敵だ……っ! 構ぁ――」
「遅い」
『ヒッ』
すれ違いざまに喉輪を斬り裂く。悲鳴。狩人の眼差しが、残す獲物を捉えた。ふらついた足取り。軽い脳震盪の影響だろうか。手元の小太刀も、どこか心許ない。そのような状態で雪の相手が出来るものか。
……いや、そもそも距離を詰められた弓兵が剣士に勝てる筈がなかった。七分。それが、隠れ潜んでいた弓兵を掃討するのにかかった時間。逃げた男も、あっという間に馬に追い付かれて轢き殺された。今は、首が折れた状態で木にもたれかかっている。
雪は、使命を果たした。
「……ふぅ」
短く息を吐き、再度馬の背に跨る。未だ、戦いは終わっていない。本多忠勝を倒すその時までは。雪は、一刀斎達の助力をすべく東へと駆け出した。
***
しかし、既に事態は動いていた。
血の海に沈む三人の死体。十八秒。それが、忠勝が高瀬らを惨殺するまでにかかった時間である。
「……次は、貴様だ」
「――っ」
その身体には、かすり傷一つ見当たらない。
神話は、未だ破られない。