95話
ここは、誰かが望んだIFの世界線。
もし、本能寺の変が起こった時、織田信長に皆が認める後継者がいたのなら。そんな願いが積み重なり、数百年先の未来で死んだ魂が、時を越えて三法師の身体に転生した。
……だからこそ、そんなことが許されてしまったからこそ、特異点が生まれてしまった。
徳川家康。
史実における天下人。日ノ本に、約二百六十年の長きにわたる平和を築いた誰もが知る英雄。そんな、苦難の日々を耐え忍び、最後に天下を掴んだ英雄が復讐鬼へと堕ちてしまった事件が起きた。
天正七年八月、築山殿が佐鳴湖の畔で、徳川家家臣 岡本時仲、野中重政により殺害。更に九月、二俣城に幽閉されていた松平信康が切腹。織田信長に命により、家康は最愛の妻と嫡男を失った。
……その時、家康の中でナニかが壊れた。そこが、運命を分かつ分岐点となったのだ。
史実では、この事件の後も家康は耐え忍ぶ道を選ぶ。御家の存続を第一に考え、織田家と共に歩みながら地道に勢力を拡大していった。私情を優先しなかった。
しかし、この世界線では違った。
許さなかった。許せなかった。辛く、悲しく、惨めな思いを散々に味わった男は、己の全てを対価に復讐を誓った。悟ったのだ。織田家が存在する限り、徳川家は永遠に虐げられる運命なのだと。同盟など、形だけのものでしかないことを。
なればこそ、この最期は必然だったのだろう。家康は、僅かに身動いで刃に首筋を当てると、一切躊躇することもなく首を振って己の肉を斬り裂いた。
噴き出す血潮。慌てふためく織田軍。泣き叫ぶ大久保ら重臣達。必死に止血しようとするも、頸動脈を傷付けたのか一向に出血が止まらない。致命傷。一同茫然とする中、家康は己が流した鮮血の海に溺れながら呪詛を吐き続けた。殺せと、全て壊せと。
家康は、最期まで信長を怨み続けた。二人が分かり合うことは、最後までなかった。
***
そして、家康が最期に残した呪詛は言霊となり、遠く離れた忠勝の耳へ届いた。
「……逝かれましたか、殿」
ひとり、物陰にて溜め息を吐く。
これで、どう足掻いても徳川家の滅亡は決まった。当主が自決し、嫡男は織田家の下に居るのだ。女児を寺に預けることで血は残せても、もうその子らは二度と徳川の名は名乗れまい。そのことを憂い、もう一度溜め息を吐く。忠勝は、正確に徳川家の今後の行く末を見通していた。
気付いていた。大義名分など名ばかりで、最初から復讐を成す為なら何を犠牲にしても良いと考えていることを。家康から直接聞かされた訳ではないが、その瞳の奥に潜んだ黒い炎から十分に察することが出来た。
過去、幾人もの武将達が同じような瞳をしながら、周りの人達を巻き込みながら破滅していったから。
……本来、家康が抱いたソレは褒められたものではない。私情を優先し、多くの人々を己の復讐に巻き込んだ。国を治める大名として落第点。家康の思惑に気付いた時点で、忠勝には本多家の当主として家康を見限る権利があった。
だが、忠勝は知っている。人間とは、そんな簡単な生き物ではないことを。道理で感情を制御出来るのであれば、戦など最初から起こらないことを。
それに、家康の復讐には正当性がある。あの一件で、織田信長に対して怒りを覚えたのは家康だけではない。主君の奥方と嫡男を失ったのだ。皆、憤りを感じていた。
なればこそ、迷わない。女子供を殺すのは不本意ではあるが、それが敵軍の総大将であるならば致し方ない。その槍が鈍ることはない。
「――いざ、参る」
最強が動く。本多平八郎忠勝。当代随一の強者が、蜻蛉切をその手に戦場へと躍り出た。
***
最初に、ソレに気付いたのは一刀斎だった。
その時、三法師の居る本陣では源二郎が本多との一騎打ちに勝利したとの一報が入っており、これで織田軍の勝利が決まったも同然だと沸き立っていた。
「本多忠勝が死んだ! 」
「もう、家康の手札は無い」
「大金星だ! 」
皆、笑顔を浮かべながら口々に源二郎を褒め称える。 当然だ。現在、本陣には三法師を除いて十三名しかいない。無論、少数故に敗走する際の身軽さという利点はあるが、それ以上に敵軍による奇襲のリスクが高い。もし、一個小隊でも前線が抜かれてしまえば、忽ち窮地に立たされてしまうだろう。三法師が選択した策は、この場における最善手ではあるが、それと同時に己を無防備にする諸刃の剣でもあった。
それ故に、一刀斎達は常に周囲へ気を張っていた。敵が奇襲を仕掛けてきた際、即座に対応出来るように。それも、開戦当初からずっとだ。
……だからこそ、源二郎の勝利に心から安堵してしまった。彼らも、限界ギリギリだったのだ。つい、気が緩んでしまった。多くの徳川家重臣達を倒し、残す敵は本多忠勝だけだと思っていたから。
その考え自体は正しかった。本多忠勝を倒せば終わり。……だが、源二郎が相手をしていたのは本多忠次。影武者だったのだ。最初から、奴らはずっとこの時を待っていたのだ。三法師が少数を率いて後方へ下がり、勝利に沸き立って気が緩むこの瞬間を!
――その瞬間、本陣より東側三百メートル先の茂みから一人の男が飛び出した。
刹那、戦場一帯を強烈なプレッシャーが支配する。
まるで、水中にいるかのような重圧。身体が重い。息苦しい。感覚が狂う。信長が放つソレとは似て非なるモノ。強制的に場を支配する死の気配。
(……こんな芸当が出来る人間など、この世に三人もいないだろう)
息を呑む。誰が、なんて聞くまでもない。
ゆっくりと、一刀斎が気配のする方へ振り向く。すると、そこには一つの影が大地を疾走する姿があった。移動速度と隠密性を重視した軽装。右手には、天下三名槍の一つ蜻蛉切が握られ、身体から滲み出る圧倒的な闘気が空間を歪ませる。
(……あぁ、成程な。どうやら、嵌められたらしい)
ひとり、納得して舌打ちをする。そして、流れるように兜を脱ぎ捨てると、思いっきり自身の頬を叩いた。乾いた音。皆の緊張が強制的に解かれる。説明する時間もない。一刀斎は、手綱を引きながら声を張り上げた。
「東より敵襲ーっ!!! 敵は、本多忠勝! 源二郎が相手をしたのは偽物だ! これより、俺が殿を務める! 高瀬と三浦、栗山も残れ! それ以外は、予定通り殿を連れて西へ逃げろ!! 」
『…………ぇ? 』
「いいから走れ!! 惚けている場合か、敵襲だと言ってるだろうが! 考えるより先に動け! 殿を殺されてぇのか、てめぇらっ!! 」
『――っ!! 』
その言葉に、ようやく剣士達は正気に戻る。そして、東から迫る威圧感に気が付くと、反射的に顔を引き締めて手綱を握った。もう、そこには緩んだ空気は流れていなかった。
その様子を見ながら及第点だと判断すると、一刀斎はそのまま三法師へと視線を向ける。傍には、高丸と雪。三法師は、既に高丸の馬へと移動しており、二人とも今すぐにでも出発出来る準備が整っていた。
(……まぁ、お前らは大丈夫だわな)
本当に、頼もしくなった。あの小さかった子供達が。
(――って、アホか。感傷に浸る暇はねぇってのに)
首を振り、雑念を飛ばす。
「高丸、雪。予定通り、大垣城を目指せ。雪は、五人程引き連れて先導。なるべく、茂みや森は迂回しろ。あのクソ狸のことだ。逃げ道に伏兵を忍ばせているかもしれねぇからなぁ――」
その瞬間、バッと弾かれたように一刀斎が振り向いた。宙を切り裂く音。七本の矢を視界に捉える。
「――伏せろっ!! 」
『!? 』
三法師を、抱きかかえるように伏せる高丸。抜刀する雪。手を伸ばす一刀斎。身を呈して三法師を守ろうとする剣士達。
伏兵は、既に忍んでいた。三法師達は、最初からこの場所まで誘導されていたのだ。
未だ、家康の手のひらの上から抜け出せない。




