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94話

 

 何処か、徳川家康という男の本質を見誤っていたのかもしれない。策謀に長け、他人を信用せず、人を騙し、人を操り、己の本心を胸の内に潜めながら仮面を被る。所謂、タヌキと呼ばれるような男だと。

 事実、家康はその恐るべき策略で三法師達を追い詰めた。織田信雄という役立たずを神輿に担ぎながらも、三法師達に気付かれずに、備後国・加賀国・尾張国と三カ国同時に謀反を起こし、三法師を岐阜へと誘導させるように白百合隊を利用して情報を流すという離れ業をやってのけた。携帯電話もないこの時代に。驚嘆に値する。



 ……だが、それが全てでは無かった。あれほど手間暇をかけた策謀が、よもや前座でしかなかったとは誰も思わないだろう。それも、その本命が己の命のみならず、苦楽を共にしてきた重臣や、故郷に残してきた家族の命すらも対価にする鬼策だったとは。

 まさに神算鬼謀。正しく、常人では考えもつかないだろう。ただ、その一瞬の為だけに全てを費やすなど、神や鬼神にのみ許された智謀だ。誰も救われない。何も得られない。その先に、破滅しかない。そんな選択、人の心を捨てなければ到底選べまい。

 信長は、この時になってようやく家康の異常性に気付いた。

「ま、まさか……お前。わざと、か。兵力差の有利を捨てて兵をバラけさせたのも、愚策と知りながら戦場の中央で穴熊を組んだのも、自らを囮にすることで三法師を孤立させる為か!! 」

「……クククッ、あぁ、そうだ、そうだとも。ようやく、気付いたのか? 織田信長よ」

 瞳が妖しく光る。

「織田軍の勝利条件は、三法師の生存と徳川家康・織田信雄の捕縛もしくは殺害。徳川軍の勝利条件は、徳川家康の生存と三法師の殺害。……だが、ワシの勝利条件は違う。復讐を果たす。あの日、誓った復讐を。織田信長に、報いを受けさせる。大切な人を、理不尽に奪った報いを受けさせる! ただ、それだけだっ!!! 」

「――っ」

 息を呑む。手足を拘束され、まともに動くことなんて出来やしないというのに、信長は家康の身体から滲み出るそのおぞましい怨念を受け、無意識に太刀へ手を伸ばした。

 あぁ、そうだ。最初から、家康は織田軍に勝つつもりが無かった。勝つ必要が無かった。そもそも、前提が違っていたのだ。

 家康は、もうとっくに壊れていた。



 一体、何が家康をここまで突き動かしていたのか。

 それは、強烈な織田信長への怨み。憎悪と言っても良い。大切な人を、妻と息子をこの手にかけた。目の前で失った。何も出来なかった。殺すしかなかった。あれは、踏み絵だ。織田家の敵か否か。それを確かめる為だけに、妻と息子は死ななくてはならなかった。

(……あぁ、本当にふざけた話だ。到底、納得など出来るものか)

 灯りの無い暗闇の中、家康は無意識に両手を伸ばして抱き寄せた。冷たい身体。絶望に染まった瞳。真っ赤に染まった衣服。唇を噛み締める。二人の亡骸に顔を埋めながら、家康は静かに血の涙を流した。


【必ず、復讐してやる】


 あの日、己の魂に刻んだ呪い。

 それが、家康にとって全てになった。本来、国を治める大名は、決して私情を優先してはならない。常に、家の存続と利を第一にすべきだ。

 だからこそ、三法師は交易という利を提示して家康と和を結ぼうとした。そう、狙い自体は良かったのだ。相手が、これから先の未来よりも復讐を優先する破滅主義者でなければ……。

 


 それから、家康は嘘を嘘で覆い隠し、怨みを腹の底へ隠しながら信長と手を結んできた。この計画が悟られぬように笑顔を浮かべながら。

 その間も、憎悪の炎は燃え盛り続けている。ずっと、ずっとだ。もう、止まることなど出来ない。抑えることなど出来やしない。だからこそ、石川数正も止めることが出来なかった。そのあまりにも痛々しい笑顔の裏を知ってしまったから。

 家康の本性は、タヌキなどでは無かった。己すらも騙し続けた蛇だったのだ。信長に対する狂気に満ちた怒りと憎しみを、末代まで祟るであろうそのおぞましい殺意を、誰にも気付かれぬように牙を隠しながら腹の底で蜷局を巻いていた。



 それ故に、家康は最後には己をも喰らって破滅する未来しかないのだ。

「織田軍は、兵力で徳川軍に劣る以上、戦地が分散すれば守りを薄くしてでも兵を分けねばなるまい。各個撃破しか選択肢は無い。敵を目の前にして、助けを求める味方を目の前にして退くことは許されないからな。……その結果、自らの手で己の首を絞めることになるのだからな。つくづく愚かな偽善者よ」

 全ては、家康の手のひらの上。

「守りを薄くし、後方へと下がっていた三法師。その近くに本多忠勝が現れたとなれば、後詰めに残しておいた最後の手札を切るしかない。それが、偽者とも知らずにな」

 三法師の行動は、完全に読まれていた。

「……そして、己を味方が時間を稼いでいる間に、更に後方へと下がって行くのだ。物理的に距離を置く。それしか、選択肢がないからなぁ」



 ――さて、果たして残された僅かな手勢の中に、平八郎を相手取れる強者はおるかな?



「――まさかっ!? 」

 その言葉に、慌てて三法師が居る方角へ顔を向ける信長。その無様な背中を、家康は嘲笑う。

「フハハハハハッ! 今更、もう遅い。ここからでは、早馬を飛ばした所で到底間に合わぬわ! この場に居ない兵士達も、小平太と彦八郎の下へ引き寄せられ、幻の勝利に浮かれて気が緩んでおる。その隙を、平八郎ほどの武将が見逃すものか!! 」

「家康、貴様――っ!! 」

 苦渋に満ちた表情を浮かべる信長。最悪の想像が脳裏を過ぎった。三法師が、無惨にも本多忠勝の槍に貫かれる。そんな、最悪の結末が。

 その表情を見た瞬間、家康は恍惚とした表情を浮かべながら呟いた。ようやく、この呪いが解かれる日が来たことを幸せに思いながら――

「…………あぁ、そうだ。その顔が、見たかったぁ」

 鬼が、嗤った。血の涙を流しながら。



 家康の心を達成感が満たす。

 家康の根源にあったものは、恐怖。理解出来ない信長への恐怖。三法師の瞳の奥に宿る信長の影。その全てが恐ろしく、奴らがいる限り徳川家に安泰は無いと確信していた。話し合いなど初めから応じる気も無かった。

 それ故に、目的を達成した家康にとって、その行動は至極当然の選択だった。

(……ならば、最早結果を見るまでもない)

 家康は、首筋に添えられていた太刀に体重をかけると、躊躇うこともなく自ら首筋を切り裂いた。公開処刑などやらせない。最後まで、信長の思うようにはさせないと。

「!? 」

『と、殿ーっ!!! 』

「布だ! 布を持って来い! 決して死なせるな!! 」

 噴き出す血潮。生々しい感触に、思わず太刀から手を離す二人。絶叫せる徳川家の重臣達。直ぐに止血しなくては命に関わる。小姓達は、信長の指示に弾かれたように動き出す。

 だが、ここは戦場だ。それも、信長達は必要最低限の物資しか持ち合わせていない。崩れ落ちる家康の首筋から溢れた血潮が、地面を真っ赤に染め上げる。頸動脈が切れたことによる大出血。致命傷だ。



 家康が、僅かに身動ぎ視線を信長の下へと向ける。霞む視界に捉えたその顔は、予想だにしない展開に焦りを浮かべるモノであった。

「……クハッ、ワシの……かち……だ」

「――っ」

 後は、地獄で見届けよう。この戦の終わりを。

「…………ころせ、すべて……こわせっ! や……れぇぇぇ、へい、はち……ろぉオォおオオおおオオオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッッ!!! 」

 気力を振り絞り、家康は呪詛を吐きながら息絶える。最期まで、織田信長を怨みながら



 ***



 そして、呪詛が風に乗って彼の耳へ届いた。

「…………御意」

 遂に、最強が動く。

 五郎左が本多忠勝の影武者に気付いた同時刻、三法師の東側三百メートル先の茂みから一人の男が飛び出した。その手には、天下三名槍の一つ蜻蛉切。

 蜻蛉切の使い手など、この世に一人しか存在しない。徳川家最強の武人、本多平八郎忠勝。



 悪夢は、始まったばかり。




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