92話
これが、最後の攻防になる。
源二郎は、生と死の狭間を駆け抜ける中でソレを悟った。今、天秤は水平線に揺れている。どちらに傾くか、未だ誰にも分からない。いや、気力だけで身体を動かしている分、源二郎の方が分が悪いのかもしれない。
だが、それでも――
(僅かでも勝機がある。それだけで十分だっ! この一瞬に、己の全てを懸ける。必ず、本多忠勝を討ち取る。例え、刺し違えてでも……っ! )
激痛の走る身体を、気合いで無理やり動かして足を一歩踏み出した――刹那、源二郎の視界から色が失われ、時間の流れが緩やかになっていった。
無駄を削ぎ落とす。精神を研ぎ澄ませ、最低限の動きで最大限の力を引き出す。考えてやっていない。無意識に、源二郎はこの満身創痍の身体を動かす最善手を導き出す。
音を、匂いを、痛みを、色を消す。五感から伝わる情報を必要最低限にまで削ぎ、全神経を本多の一挙一動のみに集中する。その結果、源二郎はゾーンへと突入した。
「―――っ!! 」
声にならぬ叫び。無拍子で飛び出した源二郎は、本多の攻撃を全て捌いてその右手首を切り飛ばす。滴る鮮血。激痛。仰け反る身体。晒される隙。
好機。
その一瞬を見逃さず、源二郎は己が持ち得る中で最速の技を繰り出した。
――真田流槍術 雷神之槍
深紅の槍が、稲妻を纏いながら宙を切り裂く。青空を駆ける一条の軌跡。満身創痍の中で繰り出した渾身の一撃は、咄嗟に防御しようとした本多の左手を篭手諸共貫いて、僅かに晒されていた喉輪に突き刺さった。
噴き出す血潮。だらりと垂れる首。確かな手応え。槍を引き抜いた途端、本多の身体が力無く崩れ落ちる。
静寂。
一秒、二秒、三秒。そんなたった数秒が、永遠にも感じる張り詰めた空気。油断すること無く、源二郎は槍を構えたまま鋭い眼差しを向ける。動かない。動かない。動かない。慎重に、本多の身体を槍で反転させて生死を確かめる。生気の感じぬ横顔。息をしていない。……本多は、既に事切れていた。
「……っ」
唾を飲み込む音。逸る気持ちを抑えながら、源二郎は素早く本多の武装を解除して槍や刀を遠くへと蹴り払う。紐を切り、兜を脱がす。無防備に晒された項を前に、源二郎は静かに抜刀した。
――斬ッ!
ゴロリと、転がる生首。傷口から溢れた鮮血が辺り一帯へと広がっていく。だらりと垂れた刀の切っ先から滴る血潮。未だ、勝利の実感が湧かないのか。源二郎は、暫くの間呆然としたまま血の海に佇んでいた。
すると、そんな源二郎の背に声がかけられる。弥五郎達だ。
『源二郎っ!!! 』
「!? 」
驚き、振り向いて彼らの姿を視界に収める。馬上より、満面の笑みを浮かべながら手を振る一同。皆、白百合隊より知らされていた。源二郎の勝利を。
そんな彼らの様子から、源二郎はようやく己の勝利を実感することが出来た。
「〜〜っ! う、うおおおおおっ!! 本多忠勝、討ち取ったりぃいいいいいーっ!!! 」
『わああああああああああっ!!! 』
本多の首を天に掲げ、源二郎は雄叫びを上げる。弥五郎達に見せるように、徳川軍へ見せつけるように、死んでいった仲間達へ捧げるように、源二郎は声の限り叫んだ。
そんな源二郎を称えるように、弥五郎達も両手を広げて喝采を送る。五郎左もまた、ホッとしたように頷きながら源二郎の下へと向かう。
そこには、確かな歓びがあった。
だが、彼らは知らなかった。
ここからが、本当の終わりの始まりであることを。
幸福に満ちた横顔。それを尻目に、絶望の幕開けを告げるかのように、ピシッと本多が着けている仮面に一筋の亀裂が走った。
***
そして、同時刻。
岐阜城城下町、中央。徳川軍が本陣を敷いていたその場所は、織田軍により完全に制圧されていた。
「上様、捕らえた敵将と討ち取った敵将の身分が全て判明致しました。こちらが、その一覧でございます」
「うむ」
頷き、小姓から紙を受け取り内容を確かめる。そこには、徳川軍総大将 徳川家康を筆頭に、数多くの徳川家重臣の名前が記されている。
大方の予想通り、徳川軍は壊滅した。家康を始め、本陣に居た多くの重臣達は捕らえられ、その何百倍もの足軽達が物言わぬ骸と化した。石川康長もまた、槍で喉輪を切り裂かれて死んだ。皆、死んでいった。
静寂。辺り一帯が、真っ赤な血で染まる地獄絵図。その様子は、根切りと言っても過言では無いだろう。それ程までに、壮絶な光景が広がっていた。
そんな中、床几に座る信長の前に一人の男が連れて来られた。家康だ。周囲を織田軍の武将達が囲まれ、全身の武装を解かれて両手を縄で縛られている。首元には、交差した二本の太刀。泥に塗れた薄汚い姿で俯くその様は、正しく敗戦の将と言えよう。
……だが、この状況に陥っても尚、家康は常に余裕を持っていた。まるで、喜び騒ぐ源二郎達の様子が見えているかのように、家康がニヤリとほくそ笑んだ。
「クックックッ……。未だ、戦は終わっておらぬというのに、よくもまぁあのように騒げるものよ。うつけ者程周りが見えぬ。そうは思わぬか? 信長よ」
「黙れ!! 」
そんな家康の不遜な言い回しに、逆上した力丸は更に深く家康の首元へ太刀を食い込ませる。流れる一筋の血。されど、家康は荒ぶる力丸を嘲笑うように含み笑いを浮かべるのみ。
「斬りたければ斬れば良い。それで、貴様が満足するのであればなぁ? 」
「――っ!! 」
「よせ、力丸」
「しかし! 」
「良い。捨て置け」
「…………ははっ」
信長の命令に、力丸は不承不承ながら頷いて太刀を戻す。しかし、その眼差しは鋭さを保ったまま家康へと向けられていた。不審な動きをしたら最後、即座に切り捨ててやると言わんばかりに。
しかし、そんな力丸とは対照的に、信長の瞳には怒りの色は見えなかった。寧ろ、虚勢を張る家康を哀れんでいるようにも見える。
「終わりだ。家康よ」
「……ハッ、聞こえなかったのか? 戦は、未だ終わってはおら――「否、もう終わりだ。終わったのだ、お前は」
家康の言葉を遮り、信長は静かに首を横に振った。
家康は生きている。徳川家重臣達も生きている。だが、それは彼らを謀反人として公開処刑する為に生かしているだけ。もう、彼らに助かる道など皆無なのだ。
「もう、お前の手元には何一つ残されていない。石川数正、酒井忠次、榊原康政、井伊直政。いずれも、死亡が確認されている。そこに居る大久保ら重臣共も、縄で縛られて身動きは取れぬ。足軽も、大半が逃げ出した。残って戦った者達は、物言わぬ骸と化して転がっておる。……そして、本多忠勝は――」
視線を南へ向ける。そこには、二本の狼煙が上がっていた。白百合隊からの伝達だ。
「――本多忠勝は、半刻前から真田の倅が相手をしている。決着がついた時には、狼煙にて速やかに報告するように予め忍びを配置していた。……そして、その結果が今出たぞ。狼煙は二本。真田の勝利だ」
『――おおっ!! 』
場が、一気に活気づく。当然だ。源二郎と本多の一騎打ちを知らされた時から、ここが最後の正念場だと思っていたから。
沸き立つ織田軍。それとは対照的に、大久保達は信じられないと肩を震わせて俯く。本多忠勝の敗北という報告に、誰もが織田軍の勝利を悟っていた。
「頼みの綱の本多忠勝は死んだ。勝負は決した。降伏せよ、徳川家康。最早、お前には何も出来まい」
「…………」
――この男以外には。
「…………クククッ、クハハハハハハハハーッ!! 手元には、何一つ手札は残されていない? 最早、何も出来ない? 本多忠勝が死んだだと? ……おいおい、随分と笑わせてくれるではないか、織田信長よ。全く見当違いも甚だしい。やはり、貴様の目は節穴のようだなぁ? クックックッ、クハッハッハッハッハッハーッ!! 」
『――っ!? 』
突如として、狂ったように笑い声を上げる家康。その異様な姿に、誰もが声を失い後退る。
「家康。お前、何を……」
「全く、つくづく愚かな男よな。確かに、貴様の言う通りこの状況から次の手を打つことは出来ない。手足を拘束され、手駒を失い、敵兵に完全に包囲されてるからなぁ。物理的に不可能だ。…………だが、既に手を打っている場合は関係ない。そうであろう? 」
ピシリと、仮面の亀裂が大きくなる。
歪んだ笑み。泥のような人。粘ついた視線。落ち武者同然の姿から滲み出す真っ黒いモヤのような怨念。気配が、人ならざるモノへと変質していく。
「そして、貴様らは一つ大きな勘違いをしている。平八郎が、ワシの最後の手札であるという推測は正しい。平八郎は、徳川軍の最大戦力。本当の勝負所で、最も勝率の高い手札を切らぬなど二流以下の下策だからな。……だが――」
――いつから、アレを本多忠勝だと錯覚していた?
家康の声に合わせるように、バキンッと一際大きな音を立てながら亀裂が走り、遂に仮面が完全に両断されて地面へと落下した。晒された顔が、ちょうど正面に来ていた五郎左の視界に入る。その瞬間、五郎左は目を見開きながらその顔を指差した。
「……違う」
「ぇ? 」
「それは――その男は、本多忠勝では無いっ!!? 」
『!? 』
その叫びが、最後の戦いを告げる狼煙となった。