91話
紅き闘魂と黒の死神が相対する。
戦は、終盤。織田軍の勝利条件は、三法師の生存と徳川家康・織田信雄の捕縛もしくは殺害。徳川軍の勝利条件は、徳川家康の生存と三法師の殺害。織田軍は、既に織田信雄を討ち取っており、徳川軍本陣を三倍の兵数で囲っている。後は、穴熊の中に引きこもる家康の身柄を確保するだけだ。
形勢は、織田軍の優勢。果たして、このまま織田軍が押し切るのか。それとも、家康が隠していた鬼札が全てをひっくり返すのか。
決着の時は近い。
***
――そして、あれから半刻が経過した。
双方、既に馬から降りて対峙している。早々に馬の体力が尽き、このままでは馬の方が先に潰れてしまうと判断したからだ。
それは、どちらも望んではいない。馬が高価なのもあるが、今後の展望を予測した時にどう転んでも馬の存在は必要不可欠。逃亡、追撃、帰還。城下町一帯へと広がった戦場を駆け抜けるには、人の足ではあまりにも広過ぎた。
故に、両者共に馬を逃がした。もとより、選択肢など無いに等しかった。動きが鈍った馬など、デカい的でしかないのだから。
今頃、戦場の何処かで身体を休めていることだろう。決着がついた後に呼び戻せば良い。何処に居るか分からなくとも、指笛を鳴らせば直ぐに主人の下へ戻って来るように調教されているので問題はなかった。
しかし、問題は別にあった。馬から降り、最初の勢いが削がれてしまったからこそ、個人の技量の差が如実に現れてしまったのだ。
先に膝を着いたのは――源二郎。
「…………ッ」
鈍痛。そして、激しい攻防の中で口の中を切ってしまっていたのか、血液が喉を伝って焼けるような痛みが生じる。これには堪らず、源二郎は苦しげに顔を歪めながら嘔吐いた。
「――ケホッ、ケホッ、ゲホッ!! 」
吐いた唾に僅かな赤みが見える。荒々しい呼吸。霞む視界。砕けた鎧。脇腹の殺傷を左手で押さえる。全身ボロボロ。体力は尽きかけ、輝く紅蓮の闘気は見る影もない。致命傷は、受けてはいない。ギリギリの所で回避が間に合っている。……しかし、満身創痍。それが、現状の源二郎を最も的確に表していた。
対して、本多は未だに有効打を一発も受けていない。甲冑の至る所に傷や汚れが付いてはいるが、疲労らしい疲労を露ほども見せず、冷たい眼差しを源二郎へと向けていた。
冷たい汗が頬を伝う。
「……これが、本多忠勝」
無意識に、槍を掴む右手に力を込めた。
しかし、指先が震えている。力が上手く入らない。今、本多の攻撃を受ければ、源二郎は為す術なく討ち取られてしまうだろう。源二郎自身も、それを自覚していた。自分は今、敵の眼前で致命的な隙を晒してしまっていると。
(動け動け動け動っけぇぇええええーっ!! 心に火を灯せ! 恐怖に呑まれるな! 私は! 必ず勝つと、彼らに誓った筈だ! ならば、最後の瞬間まで諦めるなっ!! )
脳裏に過ぎる同胞の姿。燃え上がる想い。再度、その身に深紅の闘気を纏う。そして、槍を握り直した源二郎は弾かれるように飛びかかった。
「う、うおおおおおおおっ!! 」
「……フンッ」
空中で身を捩り、本多の首元目掛けて鋭い刺突を放つ。それを、本多は当然のように紙一重で躱し、篭手で槍を側面を僅かに弾いて槍の軌道をズラす。重心を外されてつんのめる身体。源二郎は、咄嗟に足を踏み込んで転倒しないようにする。空いた腹。そこへ、本多の膝蹴りが炸裂した。
「――カハッ!? 」
息が溢れる。ミシミシと、骨が軋む音が聞こえたのも束の間、間髪入れずに本多の左ストレートが源二郎の顔面をまともに捉えた。
「――っ」
宙を舞う身体。ちゃぶ台返しのように凄まじい勢いで吹き飛ばされた源二郎は、勢いそのままに向かいにあった家屋の玄関へ衝突した。
轟音と共に舞い上がる土煙。沈黙。槍を構えたまま様子を伺っていた本多の瞳に、額から血の流しながら瓦礫にもたれかかる源二郎の姿を捉えた。
「……終わったか。些か、時間を取られた」
槍を下ろす。白百合隊、そして源二郎と連戦したにも関わらず、本多は息を僅かに乱した程度。未だ、余力を残していた。
……最早、この場に残る理由はない。己の使命を果たす為に踵を返そうとした――が、何故か本多は足を止めてしまった。動かない。否、動けない。目を見開く。本多が源二郎から目を逸らした僅かな時間で、なんと源二郎は意識を取り戻していたのだ。そして、その炎のような眼差しで本多の足を止めてみせた。
虚勢? 否、未だ源二郎の瞳は死んでいなかった。
「……手負いの獣が最も恐ろしい」
呟き、静かに槍を構える。確実に、息の根を止める。このまま放っておいても死ぬかもしれない。そもそも、あの疲労具合では立ち上がることすらままならないだろう。普通に考えれば、この状況から源二郎が逆転する可能性なんて万に一つもない。
だが、そんなもの関係ないのだ。僅かでも可能性があるのであれば、全力でその芽を叩き潰すまで。それが、戦場の作法。本多が、源二郎の心臓を直接その槍で貫く為に足を踏み出した――次の瞬間、ワッと東の方角から勝鬨が上がった。
「…………そうか」
足を止め、視線を向ける。そして、本多は盟友の死を悟った。噛み締めるように呟き、目を伏せて一足先に黄泉の国へと旅立った同胞達の冥福を祈る。
榊原軍は壊滅した。
前田慶次によって、榊原軍総大将 榊原康政が討ち取られた。榊原軍の敗因は、伏兵に側面を突かれたことで動揺し、慶次の単騎特攻を許してしまったこと。
あの時、榊原軍は本多忠勝というこれ以上ない援軍の登場に、兵の士気は最高潮に達していた。絶望的な状況に追い込まれていたからこそ、希望という名の光がひと際輝いて見えたのだろう。源二郎の懸念は正しかった。もし、彼らと慶次達が衝突していたら最悪の結末が待っていたかもしれない。
だが、そうはならなかった。榊原軍は、たった五十騎による奇襲にまんまと出鼻をくじかれた。弥五郎達だ。怒りに震える弥五郎達の勢いは凄まじく、軍の後方に位置していた数多くの武将達が討ち取られた。その結果、兵の士気はもう立て直すことが出来ない程に低下。慶次によって榊原康政が討ち取られたことで、榊原軍はあっという間に壊滅してしまったのだ。
弥五郎達は、勝利に大きく貢献した。源二郎の頼みに、これ以上ない程に応えてみせた。想いを繋いだ。
そして、現在は全速力で源二郎の下へと向かっている。五郎左もだ。源二郎が、今も懸命に戦っていると知らされたから。
(……そうか。やって、くれたんだな……みんな)
ピクリと、指先が僅かに動く。皆が、ここまで繋いでくれた。皆が、勝利を掴む為に己が責務を全うした。皆が、源二郎を信じて想いを託した。
――ならば、こんなところで眠っている場合ではない。
「――っ!? 」
息を呑む。本多は、信じられないモノを見たように目を見開いた。立ち上がっている。満身創痍だった筈の源二郎が、確かに立ち上がっていたのだ。
その瞳を見た瞬間、本多は反射的に槍を構えた。本能が、攻撃に備えろと叫んだ。
刹那、一陣の風が吹き荒れる。
「――ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!! 」
野獣のような咆哮と共に、地を這うような低い弾道から宙を切り裂く足払いを繰り出す。しかし、油断せずに待ち構えていた本多は素早く飛び上がってコレを回避。不発――かと思われたその瞬間、源二郎は強く踏み込んだ左足で斜め上へと跳ね上がった。
「分かっていた! 避けられることくらい、なぁ!! 」
己を一つの弾丸と成し、両者は空中で正面衝突。本多の鼻っ面を、源二郎の兜が思いっきり圧し潰した。恥も外聞もない無様な行為。武士が取るべき行動ではない。
それ故に、本多の虚を衝いた。
「――ガァッ!? 」
鼻血が噴き出す。揺れる視界。鈍痛、思考が鈍る。
その隙を、源二郎は見逃さなかった。
「はぁあああああーっ!! 」
「――っ」
槍を振るう。狙いは、槍を握るその右手。
――真田流槍術 雷光
鋭く踏み込み、高速の三連突きを放つ。超反応で穂先を弾く本多。回り込み、源二郎の背を取る――も、その時には既に源二郎は動いていた。
(油断も慢心も、一切してはいないつもりだった。……だが、ここ数年で多くの戦を経験したことで、私は心の何処かで思っていたのかも知れない。自分は、あの本多忠勝とも渡り合える程強くなっている筈だと――っ)
二連、三連、四連。身を捩りながら槍を振るう。躱されても、躱されても、決して攻撃の手を緩めない。諦めない。流れは来ている。此処で、畳み掛けるんだ!
(速度、力、経験。そして、何よりも圧倒的に技量が足りていない。……そんなことは、今までの攻防で身をもって思い知らされた)
本多の槍が、源二郎の左太腿を貫く。焼けるような痛み。歯を食いしばる。足が動かない。目が痛い。肺が破れそうだ。
だが、だがそれでも――
(本多忠勝。やはり、貴方は強いし巧いよ。私よりも、数段上の実力を持っている。十度戦っても、一度でも勝てるか分からないだろう。……だが、それでも心だけは負けていない! 絶対に、諦めない! 実力が足りてないなら気合いで補え! 刃に想いを乗せろ! )
「絶対に、絶対に――、勝たなければならないんだぁぁああああああーっ!!! 」
「な……っ!?」
槍で貫かれたまま、源二郎は本多の手首を狙って槍を振るう。本多は咄嗟に槍を引き抜こうとするも、そうはさせんと源二郎が筋肉で抑え込む。僅かな拮抗。その直後、源二郎の槍が本多の右手首を切り飛ばした。
「〜〜っ!! 」
滴る鮮血。激痛。仰け反る身体。晒される僅かな隙。
(この一瞬を、ずっと待っていたっ!! )
「うああああああああああーっ!!! 」
身を捩り、源二郎は己が持ち得る最速の技を繰り出す。
――真田流槍術 雷神之槍
空を穿つ一条の軌跡。至近距離での投擲。狙いは、甲冑の隙間から覗く首元。放った直後、源二郎は崩れ落ちるように膝をついた。文字通り、全身全霊の一撃。最早、源二郎は気力だけで意識を保っている。
それでも、源二郎は顔を下げない。この一騎打ちの結末を、しかとこの目で確かめる為に。