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84話

 

 二千の軍勢が、焼け野原と化した城下町を全速力で北上していく。

「――ハァッ!! 」

 気合いの入った掛け声と共に、馬のトモに鋭い鞭が入り、黒い馬体が大地を踏み砕いた。

 先陣を切るのは、石川数正。徳川家康が、駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時から近侍として仕えてきた懐刀。唯一、家康が愚痴や弱い所を見せられる存在であり、主従の関係では表しきれない互いに己の半身のような存在。自他共に認める家康の腹心である。

 そんな石川が目指す場所は、戦場の中央に位置する徳川軍本陣。汗も汚れも拭わず、血相を変えて馬を走らせるのには理由があった。即ち、主君の危機である。

「……はぁ、……はぁ、……はぁ、……はぁ――っ」

 荒い息を繰り返しながら手綱を握り締める。焼け落ちた家屋。荒れ果てた地面。黒ずんだ亡骸。刃こぼれした武器の数々。その全てが、戦の激しさを物語っており、此処を真っ直ぐに通り抜けるのは至難の業と言える。

 だが、そんなことは百も承知。石川は、なんの躊躇いもなく馬を進めた。このような事態を予期出来なかった己の不甲斐なさを恥ながら……。



 そう。石川は、この一分一秒を争う緊迫した状況で、自ら時間を無駄にするという愚行を犯した。危機が迫っている主君と目の前で苦しむ友を秤にかけ、あまつさえ、どちらかを見捨てなければならないという現実から目を逸らすように都合のいい展開を妄想した。

 それだけで、どれ程の時間を無駄にしたことか。……答えなど、最初から決まっていたというのに。

「……すまぬ、すまぬっ! 許せ、小平太っ! 」

 乾いた筈の頬に一筋の涙が伝う。そうだ、主君を見捨てられる訳がない。今、徳川軍本陣には千騎の兵力しか残っていないのだ。織田軍が、どの程度の兵力を割いているのかは石川には分からない。だが、三方向からの攻撃を千の兵力で防げるとは到底思えなかった。

 それ故に、石川は友を……榊原康政を見殺しにした。

「――っ」

 歯を食いしばる。今でも、石川の脳裏にはあの時の光景が鮮明に焼き付いていた。最前線を離れる直前、自分は見捨てられたのだと絶望する榊原の顔が。

 しかし、主君を失っては元も子もない。石川は、心を鬼にして最前線を離れた。断腸の思いであった。当たり前だ。何十年、共に徳川家を支えてきたことか。辛くて辛くて涙が止まらない。



 ……だが、既にその足取りに迷いは見えなかった。腹を括ったのだ。散々時間を無駄にしたが、そのお陰で現状から考えれる数多の先の展望を見通すことが出来た。最善の未来も、最悪の未来も……。

 もう、後戻りは出来ないと悟った。

「だが、ここまで来てしまえば、最早儂らに選択肢は残されておらぬ。全滅か、勝利か。中途半端では、何もかも失うだけだ。……故に、儂らは全てを賭さねばならぬ。文字通り、全てを」

 チラリと、石川は背後に視線を向ける。己に従う家臣達の姿。そこには、此度の戦で初陣を飾った若武者の姿もあった。

「己自身だけではない。全ての兵士達の命を賭さねば、儂らに勝利は有り得ない。……すまぬな、お前達。殿に仕えし武士として、此処で儂と共に死んでくれ」

 その懺悔は、誰に聞かれることもなく宙へと溶けていった。

「……フッ」

 そして、再び鞭を入れて馬に加速を促す。二度、三度。乾いた音が響く。

(悔やむな。今はただ、己が成すべきことだけを考えるのだ。一刻も早く本陣へ辿り着き、殿を御守りすることだけを! 悔やむのは、死んでからで良いっ! )

「殿、どうかご無事で……っ」

 歯を食いしばりながら駆ける。先程、己が無駄にした時間を恥じながら、それでも間に合うことを願って石川は再度馬に鞭を入れた。





 しかし、そう簡単に通すわけには行かないと立ち塞がる影が屋根の上に現れる。白百合隊だ。白百合隊は、石川軍がそれ等の障害物を最短距離で回避しても、その行く手を阻むように妨害行為を仕掛けた。

「今だ、やれっ! 」

『はっ!! 』

 屋根に登っていた司令官が号令をかける。すると、それに合わせて頭上より数多の矢、瓦、石が降り注いだ。

『うわあああああー!? 』

 悲鳴が上がり、何人もの兵士達が地面に崩れ落ちる。だが、それでも未だ終わらない。瓦礫など、この戦場では探せば幾らでもあるのだ。絶え間なく降り注いでいく。

 その様子は、まさに弾幕。石川軍は、少なくない被害を受けた。石川とて、鎧に大きな凹みが出来てしまっているのだから、粗末な装備に身を包んだ足軽達は堪らず悲鳴を上げてしまう。打ち所が悪ければ死んでしまってもおかしくないからだ。



 だが、それでも石川軍は動きを止めなかった。先陣を切る彼らの大将が、未だに足を止めていないから。

「う、うおおおっ!! 小賢しい! この程度で、止められると思うなぁぁぁあああああーっ!!! 」

 左手で頭を隠し、身を低く構えて防御態勢を取る石川。右手一本で巧みに馬を操り、白百合隊の妨害の嵐を懸命に堪えていく。

 無論、白百合隊もこのままでは終われない。彼らの使命は、石川数正の殺害ないしは足止め。せめて、足止めだけでも果たさねば、自身の存在意義を失ってしまう。

「皆の者、準備は良いな」

『……』

 一同、無言で頷く。各々、今一度縄を握り直した。縄が繋がれている先にあるのは、穴の空いた家屋の壁。その先には、予め白百合隊によって切れ込みが加えられ、今にも折れてしまいそうな大黒柱があった。

 そして、遠くから聞こえてくる石川軍の足音。僅かなズレも許されない。汗ばむ額。近付く気配。張り詰めた空気。その全てを力に変える。忍びとしての意地が、彼らに万力の握力を与えた。

「引ぃ、けぇぇえええーっ!!! 」

『――ッッ!!! 』

 響く号令。――刹那、軍勢が通りかかるその瞬間に家屋が凄まじい音を立てながら崩れ落ちた。

『う、うぎゃぁぁぁぁああああーっ!!? 』

 悲鳴。絶叫。突然の崩落に巻き込まれた兵士達は、為す術なく瓦礫の下に生き埋めにされた。

 立ち込める土煙。瓦礫の間から伸びる腕。轟音に驚き嘶く馬達。パニックに陥る兵士達。更に追撃を仕掛ける白百合隊。この一瞬だけで、石川軍は甚大な被害を被った。白百合隊は、十二分に役目を果たすことが出来た。



 しかし、標的である石川数正を仕留めることは出来なかった。奇跡的にも、石川は白百合隊の奇襲を間一髪の所で潜り抜けていたのだ。一切の減速をしなかったからこそ、あの絶体絶命の窮地を乗り切ることが出来たのだろう。

 それ故に、背後から聞こえてくる家臣達の悲鳴は、先陣を切る石川の耳に全て入っていた。助けを求める声も。石川軍は、千九百を下回る所まで削られてしまっていた。

「――っ」

 だが、それでも石川数正は足を止めることはない。家康を助ける。その過程で多くの家臣を失うことは、既に承知のことだったから。

(目的を見誤るな! 殿を御助けする。それだけを、それだけを考えるのだ! )

「このまま突っ切るぞ! もう、本陣は目の前だ!! 」

『おおっ!! 』

 罪悪感を振り払い、石川は兵士達へ檄を飛ばす。

(もう少し。後、あの道を右に曲がれば大通りに出る。そうなれば、本陣まで真っ直ぐ進むだけだ! )

 逸る気持ちを抑えるように、石川は手綱を強く握り締めた。高鳴る鼓動。窮地を乗り切った。間に合った。そんな考えが脳裏を過ぎり、石川は胸が踊るような高揚感に満たされながら角を曲がった。

「殿ーっ!!! 」

 未だ、やり直せる。皆、持ち堪えてくれている。そんな期待を胸に抱いて。



 ――だが、それは極度の疲労が見せた幻想に過ぎなかった。



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