75話
――その一言だけは、決して許すことは出来なかった。
***
天正十二年五月二十一日 岐阜 東の戦場 森 勝蔵長可
腹の奥底から、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。死闘の最中、奴は唐突に矛を収めてこちらを勧誘し始めた。それも、挑発や油断を誘うものではなく、この流れは至極当然だと、お前も俺達の気持ちが分かるだろうと言わんばかりに大真面目に勧誘してきたのだ。
それだけでも、込み上げる怒りによって穂先が震えた。
確かに、直政のような考えを持つ者は一定数いるだろう。なんのしがらみにも囚われることもなく、ただただ、自由気ままに暴れたいと宣った男を見たことがあるからな。血の気の荒い戦闘狂は、己が最も輝ける時に最高の死に場所を求める生き物なのかもしれない。
……だが、某がそのような戯言に惑わされると思ったのか? ただ感情の赴くままに暴れたいからと、この身と心を救って下さった御方を裏切ると思ったのか?
不愉快極まりない。某の忠義は、そのような私情如きで揺らぐモノでは断じてないっ!! 某はあの日、父の墓前で誓ったのだ。父のように、某も織田家の為に身命を賭して働くと。その小さな背にのしかかる重荷を、少しでも支えられるように強くなってみせると。
……だが、それだけであれば、某もあそこまでの激情に駆られることは無かっただろう。某自身への侮辱など、適当に聞き流せば良いだけだ。そもそも、戦闘中に自ら隙を晒すようなことをしたのは向こうであり、耳を傾ける価値も無いくだらぬ戯言だと、その発言諸共直政を斬り捨ててしまっても何ら問題もないのだ。
しかし、直政はあろうことか三法師様を侮辱した。
「戦のない世だぁ? 差別のない世だぁ? ……そんなもん出来る訳がねぇだろうがよっ!! とんだ与太話だ。人の本性ってもんを何も理解出来てねぇよ。戦場だろうが、朝廷だろうが、大名家だろうが関係ねぇ。それこそ、そこらの村に住む農民共も同じ。上も下も、環境なんざ程度の差でしかない。……人は人だ」
「……」
「人間とはなぁ、己の為ならば平気で他者を踏み台に出来る醜い獣だ。そんな輩ばかりのこの日ノ本に、天下泰平の世など築けるものか。お前達の主君はなぁ、そんなどうしようもない現実から目を逸らし、見栄えだけは良い理想を追いかけ続ける愚か者だ。それも、多くの者達を道連れに破滅へ向かう類いのな。……全く、タチが悪いとは思わぬか? 今を見ず、遠い彼方の幻想ばかり見ているからそうなるのだ。どうせこの手の輩は、都合が悪くなると未来の為だからと目の前で苦しむ民を見殺しにする。そんな愚者についていって何になる。道連れにされるだけだぞ? 」
「――ッッ!!! 」
ブチッと、頭の中で何かが切れる音がした。
直政は、三法師様の尊き願いを、血を吐くような苦悩を、胸が張り裂ける程の悲劇を知ろうともせず、口先だけの腑抜けだと侮辱したのだ。嘲笑ったのだ!
――万死に値する。
「……まぁ、それも致し方ないか。己の手を汚そうともせず、ただ後ろから聞こえだけは良い理想を吐かすばかり。そんな、口先だけの真っ白なお飾り人形では到底――」
「黙れっ!! 」
ビリビリと、肌を撫でる衝撃。空気が弾けるような怒号が、辺り一帯へ響き渡る。
もう、これ以上黙っていることは出来ない。そう思った瞬間、視界が真っ赤に染まり、直政の声を遮るように叫んでいた。
「貴様如きが、三法師様を侮辱するなぁああっ!!! 」
「――っ」
湯気のように全身から立ち昇る怒気。
許すな! この男を絶対に許すな!
そんなどす黒い感情が止め処なく溢れ出し、胸の奥底に黒い炎が灯った。今までにない殺意が心を満たす。心臓を中心に燃え盛る炎が急速に全身を駆け回り、加速度的に心拍数が跳ね上がっていく。怒りのままに掴んだ槍の柄からは、悲鳴のような軋む音が聞こえてきた。
(……堪忍袋の緒が切れた。その言葉だけは、絶対に許すことは出来ん! )
一歩、足を踏み込む。憎悪に満ちた瞳が敵を捉える。
「――今を見ず、遠い彼方の幻想ばかり見ている……だと? 都合が悪くなれば、未来の為だからと目の前で苦しむ民を見殺しにする……だと? 己の手を汚そうともしない……だと? …………ふざけるな。貴様如きが、三法師様を語るなぁああああああっ!! 」
咆哮。揺れる大地。迸る赤雷。瞳に鬼が宿る。
思考が怒りによって真っ赤に染まる中、脳裏にはあの日の光景が流れていた。三法師様の真意に触れた、あの日の光景が……。
***
あれは、今から三年前。三法師様が、相模国の箱根に滞在しておられた時のこと。
三法師は、その地でとある兄妹に出会った。今は、三法師様の為に剣を振るっている高丸と雪の二人だ。
彼らは、北の国から流れてきた者だった。
妹の雪が忌み子と疎まれていたせいで故郷を追い出され、各地を転々としていたという。真っ白な肌と赤く染まった瞳。どこか、他の人とは違う浮き世離れした雰囲気を纏っていた少女は、この世の全てに絶望したかのような澱んだ瞳をしていたのをよく覚えている。
それと同時に、この変わった風貌では忌み嫌われるだろうなとも思っていた。忌み子は、災いの前触れとも言われていたからな。
……正直言うと、某はこの兄妹が虐げられていると聞いても積極的に助けようとは思わなかった。この相模国は、北条家が治める国であり、この箱根は北条幻庵殿が管理している土地。忌み子への迫害は、部外者である織田家が介入してもいい問題ではなく、最悪の場合北条家との仲が拗れる恐れもある。そうなれば、此度の遠征は大失敗に終わってしまう。それだけは、避けたかった。
しかし、三法師様はあの兄妹を救うと即決された。兄妹を取り囲む怒り狂った民衆を見た瞬間、誰よりも早く駆け出して兄妹の下へ向かわれた。そして、兄妹の前に立って両手を大きく広げられたのだ。身を呈して二人を庇ったのだ。
その背に、某は上様の御姿を重ねてしまった。震えたのだ。誰もが、その異様な光景に固唾を呑む中、あの中で誰よりも非力な筈の三法師様が、誰よりも早く駆け出した事実に。
故に、某は三法師様に問うた。何故、貴方はあの時誰よりも早く動くことが出来たのか……と。北条家との関係が悪化する可能性は考えなかったのか……と。
今にして思えば、不敬極まりない問いかけだった。しかし、あの時の某は純粋に三法師様の考えが知りたかった。あれこそが、某が目指すべき正義の在り方だと思ったから。
そんな某の問いかけに、三法師様は苦笑いしながら答えて下さった。まるで、遠い昔のことを思い浮かべるかのように視線を夜空に向けながら……。
『……ここからずっと遠い場所で戦争が起き、多くの罪なき人々が犠牲になったと聞いても、私は何処か他人顔でその惨状を眺めていた。可哀想だと思っても、それをどうにかしようとは思わなかった。どうせ、自分には何も出来ないと決めつけて目を逸らしていたんだ』
『ごめんね、何を言っているのかよく分からないよね? ……でもね、今回のことでようやく分かったんだ。全てを投げ出してでも、誰かを救う為に動ける人の気持ちが』
『あの二人を救えるのは……今なんだ。今、動かなければ二人は殺されてしまう。今、目の前で二つの命が両手から零れ落ちようとしている。それに気付いたと同時に、私は駆け出していたよ。助ける。ただ、それだけしか考えていなかった。それだけで良かったんだよ』
『確かに、北条家との今後の関係を考えれば軽率な行動だったのかもしれない。……だけどね。あの二人には、そんな猶予なんてなかった。今、苦しんでいるんだ。後先考えて二の足を踏んでいたら、あの二人は民衆によって殺されていた。それだけが、確かな事実だ。それ以外は、予測でしかないんだよ』
『私は、もう二度と間違えない。天下泰平を目指すばかりに、今、目の前で苦しむ民の声を聞き漏らすことだけはしたくない。してはならない。……きっと、それが一番大事なことなんだ。人として、絶対に忘れてはいけない大切なこと。……勝蔵も、覚えていて欲しい。そして、私が間違えそうになったら教えて欲しいんだ』
『…………ははっ、承知致しました』
その瞳の輝きを、優しき王の器の輝きを、某は生涯忘れることはないだろう。三法師様から賜った教えは、今もこの胸に刻まれている。
***
目を開く。
「あぁ、そうだ。貴様の言い分は全て間違っている」
「……なに? 」
息を深く吐き捨て、呼吸を整える。
三法師様の荘厳さは、それ以降も変わることはなかった。あれから三年。三法師様は、多くの血と涙をその瞳に焼き付けてきた。天下一統を推し進める度に、多くの大名家を滅ぼしてきた。多くの民が戦火に呑まれてきた。泰平の世を築きたい。もう、戦を起こしたくない。ただ、それだけだったのに。
「確かに、天下泰平の夢は実現困難なモノなのかもしれない。この一年で、その道は茨の道なのだと三法師様が一番思い知らされただろう。天下泰平の為に、多くの血を流さねばならなかったのだから……」
「では――」
「――だが! だがな!! 三法師様は、一度だってその悲劇から目を逸らしたことはないっ!! きっと、その現実は三法師様の心をいたく傷付けたことだろう。日々、矛盾や葛藤を抱えて苦しんでおられただろう……っ」
脳裏に、一人暗がりで膝を抱える幼子の姿が浮かび上がる。
……あぁ、そうだ。あの御方は、本当はただの人なんだ。優しく、泣き虫で、無垢な幼子だ。……ただ、時代が無垢な幼子のままでいることを許さなかった。多くの家臣達の拠り所にならなくてはいけなかった。早く、大人にならなくてはならなかった。
普通の幼子のように両親に甘えることが出来ていたら、そんな未来があればどんなに良かっただろうか。
「――それでも、三法師様は己が責務から、己の罪からただの一度も逃げ出すことはなかった!! 全てを背負い込み、苦しみ、嘆き、人知れず涙を流しても尚、三法師様は前を向いて歩み続けた! 戦場に立たずとも、兵士達と共に戦い続けた! それも、ひとえに今を苦しむ者達を助ける為だっ!! 三法師様が動く時は、常に目の前で苦しむ誰かを助ける為だ! 貴様如きに、その気高き献身を否定する権利などないっ!!! 」
胸元を強く握り締めながら叫ぶ。今の今まで抱えていた熱を吐露するように。
「……」
沈黙。
そして、初めて直政は真剣な眼差しをこちらへ向けた。
「では、俺を討ち取り、己が主君の正しさを証明してみせよ。その想いの丈を槍に込めて」
「――あぁ、望むところだ! 」
啖呵を切り、即座に槍を構える。これが、最後の一撃になる。勝つか負けるかは分からなくとも、それだけは互いに確信していた。
両者、共に必殺の構え。闘気を限界まで練り上げる。この胸に宿る想いの丈を、その矛先に乗せた。選んだ技は、最も速度と力を発揮出来る上段振り下ろし。……奇しくも、直政が選んだ技もまた、上段振り下ろしであった。
(考えることは同じ……か)
零れる苦笑――刹那、両者同時に間合いを詰めた。
『ウォォォオオオオオオオオオオッッ!!! 』
――井伊流槍術 撃砕
――森流槍術 奥義 雷霆万鈞
両者の間で、激しい火花が散る。力、速度、技量。その全てがほぼ互角。
(……だな、某の方が僅かに速いっ! )
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アッッ!!! 」
「――っ!? 」
打点が僅かにズレれば、その力の本領は発揮されない。いち早く最高速度に達した某の槍は、凄まじい唸りを上げながら直政の槍と重なり合い、その穂先を完全に粉砕する。そして、その勢いのままに直政の身体を斜めに斬り裂いた。
「……ヵ……ガァ……ッ」
膝から崩れ落ちる直政。傷口から内蔵が零れ落ち、溢れる血潮が大地を真っ赤に染める。致命傷。もう、まもなく死ぬだろう。最早、助かる術はない。
「……」
直政の瞳が、僅かに揺れながらこちらへ向けられた。何かを問うように。
……あの一撃は、先程まで繰り出されていた技よりも若干キレがなかった。穂先に迷いが見えた。まるで、某の言葉で心が揺れたかのように。
故に、某は直政へ最後の言葉をかけた。
「確かに、家康の言うように法と恐怖によって民を縛る方が、効率的に日ノ本を治められるかもしれない。その方が現実的なのかもしれない。――だが……な、家康はその先に何を考えている? 日ノ本の民に何をもたらしてくれる? どんな世の中にしたいと言っている? 」
「……聞いた……こと……ねぇな……」
「であろうな。あの男からは、未来への展望が全く見えてこなかった。…………なぁ、井伊直政よ。夢すら語れぬ者に民を導く資格などあると思うか? 」
「――っ、あぁ……道理……だな……ぁ……っ」
直政は、納得したかのように目を瞑り、ブルりと一度大きく身体を震わせた。
「逝くのか」
「……あぁ。…………我が君は……お前達……の、想像以上に……執念深い……ぞ。……だから、気に入っ……ぇた……。気ぃつける……こっ……た……ぁ……」
「あぁ、心得た。もう、休め。井伊直政よ」
「―――」
***
東の戦場、終幕。
徳川軍 東軍団長 井伊直政、死亡。享年二十四歳。
徳川の若き鬼が、戦場に散った。