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69話

 

 開戦より三時間が経過。


 戦場は、岐阜城城下町を中心に東西南北へと広がっており、それぞれの戦地が血で血を洗う死地と化していた。

 兵士達が、絶叫を上げながら敵兵へ飛びかかる。刀を振るい、槍で突き刺し、矢で射抜く。数多の屍を踏み潰し、己の生死を顧みず、眼前に蔓延る敵兵の息の根が止まるまで、己が生命の灯火が消えるその時まで、彼らは戦い続ける。ただひたすらに、己の信じる正義のままに。

 そう、これが戦争だ。それが戦争だ。どちらかが、正義なのではない。どちらかが、悪なのでもない。ましてや、第三者が正義と悪を定めるのでもない。

 誰もが、正義の為に戦うのだ。主君の為に、國の為に、友の為に、復讐の為に、野望の為に、そして……愛する家族の為に、人は修羅となる。

 故に、人の歴史から戦争はなくならないのだ。戦うことを止めない。己よりも大切な人達は、戦わねば護れないと本能的に悟っているから。



 ***



 そんな中、己が全てを投げ出してまで逃げ出した男がいた。此度の謀反の主犯格にして、織田信長の実の息子。織田家一門衆として、織田家の本領とも言える尾張国を治める者。……そう、織田信雄その人だ。

「はぁ……はぁ……はぁ……っ、死に……とうないっ! まだ……っ、まだ死にとう……ない……っ」

 ズルズルと、細かく震えながら蠢く一つの影。信雄が居るのは、ちょうど北の戦場と西の戦場の狭間。戦地が東西南北へと広がっていったが故に生じた空白地帯。戦場における唯一の安全地帯。そこへ、信雄は命からがら逃げ込んだのだ。

 無論、信雄も最初からその空白地帯へ向かっていた訳ではない。信長の覇気に怯え、新五郎の殺気に怯え、無我夢中で逃げ惑っているうちに、偶然この場所へ迷い込んだのだ。

 よもや、あの状況から逃げ果せるとは。普通に考えれば、信雄の逃走成功率は万に一つもなかった。

 だが、それでも信雄はこうして生きながらえている。……いやはや、これも信長譲りの悪運の賜物と言うべきだろうか。生存能力。その一点に限れば、信雄もまた非凡な存在なのかもしれない。



 しかし、そんな信雄も五体満足で逃げ果せた訳ではなかった。

「……ッ、グゥゥヴ……ヴ、アア……ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛……ッッ!! 」

 この世のモノとは思えぬ唸り声。それは、虫にように全身を泥に塗れながら這いずり回り、時折、全身を駆け回る激痛に悶えるような耳障りな呻き声を上げていた。

 もし、その姿を三法師が見ていれば、まるでゾンビのようだと絶句していただろう。右目に突き刺さった矢は半ばでへし折れ、顔面を汗と涙、鼻血でぐちゃぐちゃに汚し、具足はいたるところが歪んでおり、右足首は折れているのかあさっての方向を向いている。

 本当に、何故まだ生きているのか不思議なくらいだ。おそらく、信雄の異常なまでの生への執着心によるところが大きいだろうが。

「し、死んで……たまるかっ! こんな、ところで。……おれは、おれは……まだ……っ!! 」

 視界が半分暗闇に閉ざされながらも、信雄は必死にナニかへ手を伸ばそうとする。恥も外聞もない。そう言ってしまえばおしまいだが、その姿からはある種の凄みすら感じられる。何としてでも生き延びてやる。そんな執念を。





 だが、そんな信雄の悪あがきもここまで。遂に、己が犯した罪を清算する時が来た。

「はぁ……はぁ……はぁ……っ、ん? な、なんだ……? 」

 地面を這いずるように進んでいた信雄の頭にナニかがぶつかった。生暖かい吐息。鼻の奥へ突き抜ける獣臭。

(まさか、野犬が……)

 そんな嫌な予感が頭を過ぎるも、そのまま微動だにせずに耳をすましてみれば、次第に馬特有の鼻息が聞こえてきた。

(野犬じゃない。……馬? 何故、こんな所に……)

 混乱する信雄。追っ手か。それとも放馬か。その答えは、直ぐに明かされることになる。

「……よもや、戦地から遠く離れたこのような所に居るとはな。……探したぞ、茶筅」

「!? 」

 その声音に、背筋が一瞬にして凍りつく。産毛は逆立ち、歯をカタカタを震わせ、顔色はみるみるうちに青白くなっていく。絶望が、信雄の全てを縛り付けた。

(あぁ、そうだ。何故、今の今まで忘れていたんだ。何故、気が付かなかった。絶対に、西にだけは向かうまいと決めていたというのに……っ)

 全身を痛み付けられて鈍っていた感覚が、今になって正常に戻っていく。刹那、この一帯を覆い尽くす圧倒的な覇気に身体の芯から震え上がった。その正体を察しながらも、信雄は恐る恐る視線を上に向ける。

 そこには、【死】が馬上よりこちらを見下ろしていた。

「ち、ちち……う……ぇ」

「……」

 己の責務を全うする為に。



 静寂。誰もが二人の動向を見守る中、信長は静かに口を開いた。

「……よもや、お前がこのようなことを仕出かすとはな。余とて思いもよらなんだ」

「――っ! ち、違う……違うのです! 父上っ!! 」

 抑揚のないその声音に、あの日の光景が脳裏を過ぎった信雄は慌てて弁明をしようと身動ぎをする。無論、指先一つ動かすだけで全身に激痛が走ることは変わっていないが、このまま黙っていても最悪の未来が待っているだけ。それを分かっているが故に、歯を食いしばって激痛に堪えて叫んだ。

「奴です! 家康が、家康が此度の謀反を企んだのでございますっ!! 黒田を抱き込み、佐竹や佐々を脅し、虎視眈々と織田家の隙を伺っていたのです!! 」

「……ほう」

 ピクリと、信長の眉が動く。その様子に脈アリと思ったのか、信雄は情に訴えるかのように悲痛な表情を浮かべながら叫ぶ。信長は身内に甘い。ならば、家康に全ての罪を擦り付ければ命だけは助かるかもしれないと。

「お、俺も、気が付いたら家康の術中にハマってしまっていて……。それでも、何とか家康の策謀を食い止めようとしたのですが、既に家臣達や商人達に至るまで家康の手の者が潜んでおり――」



 ――だが……。



 そんなくだらない言い訳が、あの織田信長に通じる筈がなかった。

「黙れ」

「――っ!? 」

 絶対零度の眼差しに、信雄は目を見開きながら押し黙る。これ以上、戯れ言をほざくなと言わんばかりに、信長が発する圧力が強まったからだ。

「……織田尾張守信雄。此度の謀反の首謀者。尾張国小牧山城にて、四大老の傀儡と成り果てた三法師の救出を大義名分に五千の兵を率いて挙兵。その後、徳川家康の助力を得た反逆軍は、その数を一万五千にまで膨れ上がらせ、その勢いのままに安土城を結ぶ織田家の重要拠点である岐阜城攻略へ進軍を開始した。……ここまでしておいて、今更無関係などとよく言えたものよな。既に、お前への沙汰は斬首刑と決めておるわ」

 淡々と告げる信長の様子に、信雄は慌てふためきながら立ち上がろうとする。

「お、お待ちください! どうか! どうか、温情を! 未だ、死にとぅございませぬ!! 」

「ならん。信賞必罰。裏切り者には死を。それが、余が定めた織田家の掟よ。……せめてもの情けだ。余の手で、黄泉の国へ送ってやろう」

 そう言い放つと、信長はひらりと馬から降りて太刀に手を添える。その姿に、後ろで成り行きを見守っていた信幸が何かを言いかけるも、昌幸がソレを手で制した。

「父上……」

「言いたいことは分かる。だが、これはこの先の未来を見据えた上で避けては通れぬ道。例え、織田家の血を継ぐ者であろうとも、……いや、血を継ぐ者だからこそ厳しい沙汰を下さねばならぬのだ」

「……道理、ですね」

 そんな二人の会話が聞こえたのだろうか。信雄は、泣き喚きながら必死に許しを乞う。

「い、嫌だ! 嫌だ! 嫌だー!! こんな、こんなところで死にたくない!! 俺は、俺は未だ何も成せていない! 俺は、ただ他の者達に認めて貰いたかっただけなんだ! 父上の子としてではなく、一人の男として認めて貰いたかっただけだったんだぁッッ!!! 」

「……」

 血を吐くような叫び。だが、信長はそれに一切応えることはなく、太刀を鞘から抜いて構える。最早、その瞳に躊躇の二文字はない。

「――っ、子を! 実の息子を殺すつもりですか!! 父上ぇぇえええーッッ!!? 」

「最早、お前を子とは思わぬ。……謀反人、織田信雄よ。その罪、自らの命をもって償うが良い」

「まっ――」



 ――斬ッッ!!!



 鋭い太刀筋が、真っ直ぐに信雄の首筋目掛けて振り落とされる。血飛沫が舞い、ごとりと信雄の首が地面に転がる。驚愕と嘆きに満ちた瞳。絶望に染まった表情。溢れ出した血液が大地を真っ赤に染めた。

「…………大馬鹿者がっ」

 静まり返る戦場に、悲しみに満ちた想いが零れる。

 此度の謀反の主犯格の一人である織田信雄は、彼が最も敬愛した父親の手で討ち取られた。

 享年、二十七歳。その生涯を、織田信長の息子として扱われてきた男である。




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― 新着の感想 ―
[一言] 信長は「表には出さず、心で泣いて」でしょうか 弟、そして息子もその手で斬らねばならなかったとは、戦国はいえ辛いですね
[一言] 信長様、信雄を遂に処断ですか。それでも悲しい表情を為さる点は、やはり人ですね。 後は、狸の処断を残すのみとなりました。最終的には、三法師様が決着をつけるべきですが。
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