66話
時は満ちた、覚醒の時来たれり。
「今こそ、我らが友の敵を討つ時! 無念を晴らす時だ! 皆の者! 人の道を外れ、外道に堕ちた徳川軍の者達に見せつけてやれ! 人の、想いの強さを!! 」
実の弟を斬り殺し、神仏を焼き払い、長年仕えてくれていた宿老を見限り、その果てに全てを失い、魔に堕ちた。
もう、終わった。誰もが、そう思った。
しかし、運命は反転した。
「これは、正義の為の戦いである! これは、今を生きる者達を守る為の戦いである! これは、日ノ本の未来を切り開く戦いである! ――大義は我らにありっ!!! 」
幾度の傷を背に、王は再び立ち上がる。
「迷うことはない! ただただ、余の背についてまいれ! 道は、余が切り開く! 余の示す道こそが、勝利へと続く活路であるっ!! 」
もう、二度と迷わない。心は、既に満たされた。
「すわっ!! 懸れぇぇぇえええええッッ!!! 」
『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オッッ!! 』
大地を震わす雄叫びが、風に乗って酒井軍へ襲いかかる。
兵士達よ、快哉を上げよ。
酒井忠次よ、敵兵達よ、刮目せよ。
覇王の出陣である。
***
鋭い鞭が飛ぶ。刹那、黒き馬体が大きく嘶きながら大地を躍動する。先陣を切るのは覇王 織田信長。その瞳に映るのは栄光への道か、凄まじい覇気を放ちながらひた走る。
「行くぞ、お前達ぃ! 今こそ、己が武勇を示せ!! 」
『おおっ!! 』
拳を振り上げ、槍を、刀を掲げ、雄叫びを上げながら後に続くのは、森軍千二百と信長が連れて来た七百を足した総勢千九百の兵士達。信長の参戦により活気づいた兵士達は、ここまでの疲れを一切感じさせない猛烈な勢いで酒井軍へ襲いかかる。
対するは、酒井軍の総数二千四百。率いるは、百戦錬磨の名将 酒井忠次。酒井は、勢いづく織田軍に兵士達が怯えていることを察すると、即座に檄を飛ばした。
「案ずるな、お前達! 例え、相手に援軍が加わろうとも、総数ではこちらの方が優っておる! 先程と同じように、堅実に対処すればどうということはない!! 」
『――っ、ははっ!! 』
若干、乱れていた呼吸が整い、前線に立つ武将の指示に従って隊列を組み直す。最早、その瞳に恐れはない。先程まで、織田軍を圧倒していたのが大きかった。
――その直後、両軍が衝突した。
『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッ!!! 』
空間が歪む。凄まじい衝撃波が吹き荒れ、耐えられなかった者から地面へ伏していく。
勢いは織田軍。
しかし、酒井は己の勝利を信じて疑わない。
「歯を食いしばれ! 勢いに押されるな! 最早、奴らに余力など残ってはおらぬ! この一瞬に全てを懸けて突撃してくる! ……ここが正念場だ! 堪えろ! さすれば、必ずや勝機は訪れる! 」
『御意!! 』
酒井の激励に、最前線に立つ者達は歯を食いしばって持ち堪える。皆、信じているのだ。この人の指示に従っていれば、何も問題ないのだと。
その期待に応えるように、酒井は軍配を振るって陣を展開する。すると、まるで鳥が翼を広げるかの如く左右の陣営が織田軍の側面に回る。【鶴翼の陣】だ。
本軍が信長率いる前衛の突撃を真正面から受け止めながらも、じわりじわりと後退しながら引き寄せ、本陣深くにまで入り込んだその隙に、右翼と左翼で包んで三方面から一斉に攻撃する。
兵力の割合は、右翼と左翼に五百ずつ、本軍は千四百を三重の壁のように配置した。万が一にも、総大将の首まで届かぬように。それが、酒井の狙いであった。
無論、そんな簡単に事は進まない。
『――っ!! 』
織田軍を引き付ける最前線の部隊に、凄まじい負荷がかかる。地面は抉れ、馬に轢かれ、槍で貫かれて崩れ落ちていく。最前線には精鋭を集めたとはいえ、そう易々と織田軍を食い止めることは出来なかった。
そもそも、通常であれば鶴翼の陣はこのような急戦には使わない。敵を待ち構えるように、最初から陣を敷いているものだ。
確かに、鶴翼の陣は防御に非常に適した陣形だ。酒井のように、突撃してきた敵軍に対して翼包囲を行い、集中攻撃を加えて自軍の被害を抑える戦術的意図もある。
だが、それは兵力差が大きく開いていなければ中途半端な陣形になってしまい、敵軍の突撃を止めることは困難になる。それで本陣にまで到達されてしまっては本末転倒。此度のような五百程度の兵力差で、ましてやわざわざ自分から本陣深くにまで入り込ませるなど、非常にリスキーだと言わざるを得ない。
されど、酒井の表情に焦りは見えない。酒井は、前線が五分程度であれば持ち堪えられると確信していた。
その答えは自惚れから来たモノではない。緻密な計算によって弾き出された事実である。
(敵の前衛は、織田信長と可児才蔵が率いている。……だが、その主な兵士達の大半を占めているのは森軍の者達。既に、先程までの戦いによって疲弊した兵士達だ)
そう、酒井は敵の正体を見破っていた。これまでの戦闘によって、大凡の森軍の兵士達の力量を見切っていた。
それ故に、確信したのだ。五分あれば、左右の陣形は完成する。五分ならば持つ。そして、気力で疲労を誤魔化している兵士は、一度その勢いが止まってしまえば忽ち元の状態へ戻ってしまうことを読み切っていた。
(そうなれば、我々の勝利は確実だ! )
時間は、酒井軍の味方であった。
己の勝利を確信し、不敵に笑う酒井忠次。
だが、酒井は知らなかった。
この世には、理不尽というモノが存在することを。目の前にいる男が、世界に祝福された時代の寵児だということを。酒井は、何も分かっていなかったのだ。
その誤算は、直ぐに身をもって思い知ることになる。何故なら、戦場において相手の力量を見誤ることは死を意味するのだから。
『うぉおおおおぉぉぉっ!!! 』
「――っ!? ほ、報告! 敵軍の勢いに陰り無し! いや、先程よりも更に勢いが増しております! 一向に止まる気配を見せません!! 」
「……何? 」
家臣の報告に、ここで初めて酒井の表情に焦りが見える。見てみれば、確かに先程よりも勢いが増しているのが分かる。まるで、大蛇のように兵士達を飲み干しながらこの本陣へと向かって来ていた。
「伝令! 第一陣崩壊! 第二陣、もう持ちそうにありません! 」
「右翼半壊! 左翼との連絡が途絶えました! 」
「兵士達の混乱が収まりませぬ! 逃亡者多数! 」
「――っ! 後詰めを全て前線に送らせろ! 盾だ! 大盾を持って来い! 敵を殺すよりも、先ずはこの勢いを止めることを優先せよ! さもなくば、あっという間に飲み込まれるぞ!! 」
『ぎょ、御意っ!! 』
この流れを止めようと必死に指示を出す酒井。家臣達も、慌てて動き始めた。もう、目の前の勢力は先程のモノとは別。こちらの驚異になり得ると、ここにきてようやく認めたのだ。
――だが、止まらない。止まらない。織田信長が先陣を切り、可児才蔵が露払いを勤め、真田昌幸がつぶさに戦況を見極め、真田信幸が弓で全体のフォローをする。
そんな隙の無い完璧な布陣を前に、酒井軍が後手後手に回り続ける。
「第二陣崩壊! 敵軍は、もう目と鼻の先ですっ!? 」
「……チッ! 俺も出る! 槍を持て!! 」
情けない悲鳴と共に押し寄せる驚異。これには堪らず、酒井は横に控えている小姓へ指示を出した。この状況を立て直すには、最早自分自身の手でやるしかないと。
……しかし、それはあまりにも遅かった。
――残念だったな。それは、一手遅い。
「――っ!? 」
背筋を凍らせる冷たい声音に、酒井は思わず顔を強ばらせながら槍を構えた――刹那、遂に最後の防壁が目の前で崩れ落ちた。
「だ、第三陣崩壊! との、お逃げぇ――」
『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ッッ!!! 』
兵士の言葉は掻き消され、崩壊した穴から織田軍の兵士達が雪崩込む。その先陣を切る信長の姿を見た瞬間、酒井はこの世の不条理を嘆いた。
織田信長は、武力、財力、軍略、謀略、政治力の全てにおいて最高峰の素質を持っている。
だが、信長には、上杉謙信のような軍神の如き武力は無く、軍略の天才にして、神懸ったその手腕で甲斐の国に繁栄を築いた武田信玄のような政治力も無く、謀神と謳われた毛利元就のような敵を己の意のままに操る謀略も出来ない。
されど、信長はこの三人の英傑に並ぶ存在だ。神と謳われた三人の。
「な、なんだ……あれは? まるで、一つの生き物のようではないか」
呆然と呟く酒井の視界には、一糸乱れぬ動きでこちらの兵士達を攻め立てる織田軍の姿があった。
そう、これこそが織田信長が力の本質。人の資質を見抜く瞳はオマケに過ぎない。その真髄は、どのような集団でも一つの個体のように意のままに操る統率力。それは、神懸ったカリスマ性が無ければ決して真似することは出来ない絶技。
では、その織田信長に、軍略の鬼才 真田昌幸と一騎当千 可児才蔵、更には器用万能 真田信幸を配下に加え、二千近くの兵士を預けたらどうなるか。
……答えなど、分かりきっている。
「さらば、酒井忠次よ」
―――斬ッッ!!
鮮血と共に首が宙へ舞い上がる。
絶望しながら織田軍に飲み込まれていく兵士達。それが、酒井忠次が最期に見た景色であった。