64話
【織田信長、復活】
その一報は、真田昌幸が放った忍びによって瞬く間に戦場中に広まっていき、多くの者達がそれを聞いて目を見開かせた。
激震が走る。
信長の復活を信じる者、信じぬ者、歓喜する者、絶望する者多々あれど、信長の参戦によって戦の流れが大きく変わったことに間違いはない。
それを、肌で感じ取った者達がいる。
両軍の総大将、三法師と家康の二人だ。
***
三法師軍 本陣。
最後方にて戦場を見守る三法師の下へ、一人の忍びが駆け寄る。彼女は、白百合隊の一員であり、三法師が伝令役に残した者達の一人。
「であるか。よもや、じい様が来て下さるとは……っ」
「はっ、真偽は定かではございませんが、そのような噂が広まっていることは確かにございます」
「いや、分かるとも。この気配は、正真正銘じい様のモノだ。織田家の危機に、もう一度立ち上がってくれたんだよ……っ」
顔を俯かせ、肩を震わせる三法師。キラリと目尻に光るモノが見えるも、彼女はそれに触れることはなく、平伏したまま三法師の指示を待つ。三法師の様子が、ただ感動しているだけに思えなかったからだ。
そして、その疑念は正しかった。
「……源二郎へ伝令を。敵の動きに注意せよと」
「御意」
音もなく、彼女は三法師の前から姿を消す。その気配を辿るように、三法師は不安げな眼差しを戦場へ向ける。胸の内でざわめく嫌な予感を感じて。
突然、そのような姿を見せれば、一連のやり取りを見ていた雪と高丸から疑問の声が上がる。
「殿、何か気がかりな点がございましたか? 」
「私には、これ以上ない吉報と存じますが……」
「……そうだね。じい様の参戦は、余ですら想定していなかった事態。当然、家康とて同じだと思う。まさか、記憶喪失になって隠居していた人物が、こんな所に現れるだなんて誰も思わない。間違いなく、流れを変える大きな切っ掛けになると思うよ」
「では――」
「でも、それが良い方向に転がるかは分からない」
息を呑む。雪は、慌てて口を閉ざした。三法師が、何を言いたいのか察したから。
「良くも悪くも膠着状態だった戦況は、これを機に大きく動き出す。その流れは早く、誰もが矢継ぎ早に選択肢を突き付けられる。一手間違えただけで死に直結するような……ね。となれば、余力を残した徳川軍はこちらより心理的に有利であり、その攻め時を見過ごさないのが徳川家康という男さ」
淡々と、これから起こりうる未来を語る三法師。
いっそ、悲観的とも言える言葉の数々。されど、その瞳は依然として力強く輝いており、その表情は勝利を諦めた者のソレではない。勝つ為に、この現状を受け入れた者の瞳だ。薄氷の上で成り立つ、この現状を。
故に、彼の心は折れない。
「勝つよ、絶対に。相手が、あの徳川家康だとしても、戦に絶対はないのだとしても、余は絶対に勝たねばならない。……この一戦に、今後数百年の日ノ本の未来が懸かっているからね」
『殿……』
強く、強く頷く。絶対。その二文字に込められた熱量は、思わず二人も息を呑んでしまう程であった。
瞳の奥で紅蓮が渦巻く。それは、普段温厚な姿からは全く想像も出来ない熾烈なモノ。
覚悟。
そう、覚悟だ。三法師からは、この日ノ本の未来を背負う覚悟が感じられた。
その姿に、雪は一人決意を固めた。
(この御方は、どこまで背負うおつもりなのか……っ)
手綱を握る両手に力を込める。三法師は、その小さな身体に不釣り合いな程の重圧を背負っている。日ノ本の未来。そんな、大の大人ですら到底背負いきれないモノを。
(……きっと、殿は最後まで一人だ)
それ故に、この幼子の未来を案ずる。
織田信長は回復した。その覇道を支える、頼もしき家臣団もいる。織田家への反発の声もだいぶ静かになった。朝廷は、近衛家が抑えている。北条家を筆頭に、歴史と実力のある名家が臣従した。泰平の世を築く下地は、十分に整っていると言えよう。
……だが、最後には一人になる。隣りに並ぶ者はいない。王は、孤独でなければならない。支えることは出来ても、寄り添うことは許されない。
「私は……無力、だ……っ」
その覇道を支えたい。いつまでも、いつまでも。許されるのであれば、この命が尽きるその時まで貴方に仕えたい。命を救ってくれた。こんな化け物に、生きる理由を与えてくれた。恩義を、返したいのだ。
だが、剣しかない自分に出来ることは少ない。泰平の世になれば、ソレは更に深く己の心臓に食い込むだろう。おそらく、この戦いが最後の御奉仕になる。そんな予感を、雪は感じ取っていた。
であれば、自分が取るべき選択は一つ。
「……殿が理想に殉ずるのであれば、私は殿の為に殉ずるまで」
鈴の音が鳴る。
どこまでも涼やかな、鈴の音が。
***
一方、徳川軍 本陣。
三法師の下へ白百合隊の者が駆け寄った同時刻、この男の耳にも織田信長復活の一報が入った。
「……ほう。それは、誠か? 」
「はっ! 情報の出処は不明であり、真偽の程は定かではございません。されど、そのような噂が流れた頃より、北と西の戦線にて動きがあったとのこと! 現在、多くの人員を導入して調査中にございます! 」
「……うむ。そうか」
短く呟き、腕を組んだまま瞼を閉じた。そんな家康の様子に、家臣達もソレがただの噂話では無いことを悟る。
「よ、よもや、このようなことが……」
「誠……なのか? 」
「あまりにも出来過ぎておる」
「……だが、あの織田信長ならば」
『…………』
沈黙。本陣には、張り詰めた重い空気が流れていた。
……無理もない。徳川家は、もう何十年の月日を織田家と共に歩んできた。多くの合戦を共にしてきた。それ故に、嫌になる程に知っているのだ。織田信長という男の非常識さを。
――このままでは、危ういのではないか……。
そんな考えが一同の脳裏を過ぎる中、小さな笑い声が聞こえてきた。
「…………っ、くっ………ぅは……っ」
「……殿? 」
笑い声を上げたのは、徳川家康。もう堪えきれぬとばかりに、笑い声が漏れ始めていた。その背中から異様な雰囲気を感じ取った家臣達は、思わず目を見開きながら固唾を呑む。
三法師が、その死をこの目で確認するまでは油断出来ないと称した男は――
「ふっふっふっ……そうか、信長が蘇ったか。く……くく、くはっ……くははははははっ!! あぁ、そうであろうな。そうであろうよ。あの男ならば、必ず戦場まで駆け付けると信じておったわ!! くっくっく……くっはっはっはっはっはっはっはー!!! 」
『!? 』
笑っていた。泥のような瞳をしたまま。
そして、突然笑い声を止めて真顔になると、後方に控えていた石川数正を呼び寄せる。
「…………与七郎。三千を率いて前線へ上がれ。蹂躙せよ。派手にな」
「御意」
三千。家康は、後詰めに残していた四千の半数以上を使って勝負手を繰り出す。
これにより、本陣の守りが千人だけと手薄になるが、家康はそれでも勝てると見切ったのか。石川数正、家康の懐刀と呼ばれし男を前線へ送り出した。
「さぁ、役者は出揃った。これからが、本当の戦い。地獄の幕開けだぁあああっ!! ハハ、アハハハハハハハハッッ!!! 」
悪意が蠢く。
憎悪に満ちた笑い声が、戦場へ響き渡った。
***
家康は、もしかすればこの状況を予知していたのかもしれない。
「ば、馬鹿な……。こんなことが……っ」
弱々しい声音。膝から崩れ落ちる。
「有り得ん。認めんぞ! こんな結末など……っ! 」
血を吐くような叫び。
されど、これは現実だ。
「これで、終わりだ。酒井忠次よ」
「あ、あぁ……、うあああああああっ!!? 」
悲鳴が木霊する。
その日、酒井忠次は理不尽という言葉の意味を、身をもって味わうことになる。




