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62話

 

 西より来たる信長の気配を本能的に察知した信雄は、発狂したかのように奇声を上げながら一目散に東へと逃げ出した。兎にも角にも、西から遠ざかりたい。その一心で。

 それが、この戦いの勝敗を決定付けた。



 ***



 大将が戦場から逃げ出すという異常事態に、家臣達は慌ててその背を追いかける。早く連れ戻さねばならない。そんな危機感から、彼らはその場の勢いで馬に跨って鞭を入れた。既に、信雄を乗せた馬は走り出している。今、追わなければ見失ってしまうから。

 しかし、彼らは一つ大きな過ちを冒してしまった。逃げ出した大将を追いかけるのは良い。だが、その場にいた全員で追いかける必要は皆無。寧ろ、大将が逃亡したという事実を隠そうとするのであれば、数人は本陣に残すべきであった。

 突然の事態に混乱していたとはいえ、彼らは、この場において絶対に取ってはならない選択を取ってしまったのだ。

「…………あれは」

 十数名の将が一斉に動けば、目立たぬ筈が無いだろうに。



 綻びは、直ぐに表面上へ浮かび上がった。

「……妙だな、本陣より指示が来ない」

 最初に異変に気付いたのは、新五郎軍の突撃を一身に受け持つ精鋭部隊の将であった。

 戦況は膠着とは言ったものの、実のところ、勢いづく新五郎軍を信雄軍が完璧に抑えられていたのは、兵数の差だけではなく、優れた情報収集によるものが大きい。

 というのも、本陣にいた家臣達は大将である信雄以上に戦況へ貢献していたのだ。正面だけではなく、左右からも押し寄せて来る新五郎軍と渡り合う為に、信雄軍は多くの目を放って新五郎軍の動向をつぶさに監視し、そこで得た情報を即座に最前線へと送っていた。それ故に、新五郎軍の挙動にその都度対応出来ていたのだ。



 そんな彼らが、全員信雄を追いかけて持ち場を離れてしまった。無論、信雄軍の武将は本陣に居た者達だけではない。最前線で戦う各部隊には、それぞれ兵士達に指示を出す武将がいる。自ら槍を振るい、兵士達へ檄を飛ばす者もいる。

 だが、それも全体へ指示を出せる有能な家臣達がいてこそなのだ。彼らが居なくなれば、当然そのしわ寄せが最前線で戦う者達へ回ってくる。

「うおりゃあああー!! 」

「――っ」

 掛け声一閃、僅かに反応が遅れた武将の肩を抉る。鋭い刺突。焼けるような痛みを押し殺し、兵士の腹を蹴飛ばして距離を取る。

「――、――様っ!? 」

「問題ないっ!! 」

 途切れ途切れに聞こえてくる部下の声。時が経つにつれて、次第にこちらへ流れてくる敵兵の数が増えている。応急処置をする暇もない。先程まで、当たり前のようにあったモノがない。対応が遅れる。少しずつ兵士達の損傷が増える。新五郎軍の勢いに、信雄軍が押され始めている証拠である。

(……このままでは――)

 一瞬、脳裏に不安が過ぎる。それは、兵士達とて同じであった。目に見えて、形勢があちらへと傾いていくのを実感してしまう為、否が応でも戦の流れが分かってしまう。この果てにあるのは、己の死だと悟ってしまう。

 ……不安は、心に隙を作る大きな要因。

 それ故に、その声は自然と兵士達の耳へ入ってしまった。



 ―――逃げたー! 大将が、逃げ出したぞーっ!!



『!!? 』

 戦場に激震が走る。

 まさか……。そんな不安が脳裏を過ぎる。兵士達の身体は強ばり、心身共に日々鍛え上げている筈の武将の瞳も、動揺を隠しきれぬのか激しく揺れ動いていた。

 織田信雄とは、この軍の旗頭だ。兵士達の心の支えだ。武将が、躊躇すること無くかつての仲間へ槍を振るうことが出来る大義名分なのだ。

 ……武将達とて分かっている。兵士達の中でも、聡い者は分かっている。自分達は、織田家に弓を引いた謀反人なのだと。

 だが、それでも信雄の主張を信じてついてきた。織田信雄を、我が主君として忠義を誓ったのだ。

 でなければ、織田家当主足る三法師が最前線にまで躍り出て兵士達の眼前にて堂々と名乗り出り、織田信雄と徳川家康が掲げる大義名分の正当性の無さを説いた時点で終わっている。

 例え、その姿を直接見ていなくとも、三法師の登場は隠しきれるモノではないし、三法師が述べた言い分を人伝てに聞かされている筈だから。

 ……そう、この軍は織田信雄がいてこそ動き出す。

 例え、それが約立たずのお飾り人形であろうとも、その身体に脈々と受け継がれてきた織田家の血が流れている限り、武将達は彼を王として担げる。戦える。例え、それが偽りであったとしても。

 彼らにとって、織田信雄とは決して欠けてはならない心臓なのだ。



 そんな織田信雄が、敵を前にして我先に逃げ出した。その声は、彼らの心を激しく揺さぶる。それは、一瞬の判断ミスが命取りになる戦場において、決してやってはいけないモノ。

「――っ! 隙ありっ!! 」

「――カハッッ!? 」

 抉るような刺突が胴を貫き、兵士の一人がその場に崩れ落ちる。目の前で討ち取られた同胞の姿に、隣りで戦っていた兵士が思わず指が震わせながら立ち竦む。その一瞬の隙を突くように、対峙していた者は槍を巻き込むように捻り上げ、意図も容易く兵士から槍を取り上げてみせた。

「ィヤッッ!! 」

「……ぁ」

 呆気にとられたかのように短く呟き、返す刃で喉元を貫かれて絶命する。噴き出す鮮血。刹那、先の二人のように次々と信雄軍の兵士達が討ち取られていった。

『うわああああああああっ!!! 』

 阿鼻叫喚。拮抗していた戦況が、一気に新五郎軍優勢へと傾いていく。信雄軍の武将も、何とかこの混乱を抑えようと奮闘するも、雪崩のように攻め込んで来る新五郎軍によって、あっという間に無惨な姿へと変わり果ててしまった。

 大将の逃亡。それが、張り詰めていた緊張の糸を断ち切ってしまったのだ。



 その隙を、新五郎が見逃す筈がない。

「好機!! 皆の者、ついてまいれっ!! 」

『おおっ!! 』

 手綱を引き、馬の嘶く声と共に最前線へと駆けていく。

 前方に立ち塞がるは信雄軍四千。されど、大将と副官が居なくなってしまったが故に、本陣と最前線を結ぶ指揮系統はめちゃくちゃになり、先程まであった強固な布陣を維持出来ずに歪んだカタチへと変貌していた。

 その急所にいち早く気付いた新五郎は、果敢にも僅か数騎を率いて突撃。布陣の抜け目を縫うように敵陣深くへと切り込むと、そこで新五郎は信雄とそれに付き従う武将が居なくなっていることに気付いた。

「――っ!? まさか、逃げた……のか? 総大将が? 」

 頭が真っ白になる。

(信じたくない。有り得ない。有り得てはならない。今も尚、兵士達は戦っているというのに、自分は我が身可愛さに彼らを見捨てて逃げ出したのか? 兵士達を率いる立場の者が!! )

 刹那、視界が紅蓮に染まる。

「信雄が逃げ出したぞ! 探せ、探せぇえええっ!! 」

『――っ、御意っ!! 』

 兵を掻き分け、斬り分け、辺りを見渡し、逃げた信雄の痕跡を探す。

(何処だ、何処へ行った! )

 湧き上がる怒りに身を焦がしながら、新五郎は僅かに残っていた複数の蹄の跡を辿る。このような狼藉、絶対に許してはならない。これ以上、織田家の威光に泥を塗る行為など許してはならない。



 探して、探して、探して、探して、探して、探して、探して、探して……見つけた。新五郎の瞳が、確かに信雄の背中を捉えた。

「逃げるなァァァッ!! 織田信雄ォオオオッッ!! 」

 瞬間、凄まじい殺気が信雄目掛けて放たれる。それは、戦場一帯に広がっていく信長の覇気を僅かに上回り、信雄の意識がこちらへと向けられる。

 距離の差や対象を一点に絞ったことが要因であり、怒りに任せた故にこの場限りの類いではあったが、効果は絶大だった。

「――っ!? ひ、ヒィッッ!! 」

 堪らず、悲鳴を上げて身体を強ばらせる信雄。普段から安全な場所でぬくぬく育った故に、己を噛み殺さんとする戦場特有の殺気など体験したことも無く、思わず手綱を強く引いてしまった。当然、そんなことをすれば、馬は驚いて大きく嘶きながら足を上げる。

「のわぁっ!? 」

 馬上でバランスを崩せば、下手をすればそのまま落馬してしまう。信雄は、両手と股に力を入れて何とか堪えようとした――刹那、その右目を一本の矢が貫いた。辺りには、信雄を中心に矢の雨が降り注いでおり、その内の数本は馬体にも突き刺さっていた。遠距離射撃だ。

 そう、忘れてはならない。東へ逃げるとは、即ち山へと近付くこと。既に、山は白百合隊の支配地。当然、そこにいる三日月と十傑の者達は弓術を会得している。体力面で男に劣る以上、遠距離攻撃を覚えるのは必須であったから。

「ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!! 」

 絶叫。信雄の身体が地面に叩き付けられる。全身がバラバラに砕けそうだ。視界が半分暗闇に閉ざされ、残った方も落ちた衝撃で歪んで見える。耳が遠い。足元がふらつく。

 分かるのは、こちらへ向けられる恐ろしい殺気のみ。

「待てぇぇぇえええ! 信雄ォオオオオオッッ!!! 」

「ひ、ヒィッッ!? 」

 恐怖に震えながら、地面を這うように移動する。

「……い、嫌だ。死にとうない。死にとうない……っ」

 泥に塗れ、涙で顔を濡らし、鼻水と尿を垂れ流しながら逃げ惑う。

 偶然か、必然か。

 その身体は、西へ向けられていた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 史実の小牧長久手もそうだけど、あんなのを味方につけちゃったのが、家康からすれば運の尽きですね。 まぁ、あんなの”しか”味方につけられなかったんだから、仕方ないと言えば仕方ないですが・・・^^…
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