61話
西より、嵐が来たる。
ソレに、誰よりも早く気付いたのは、意外なことに織田信雄その人であった。
「――っ!! 」
ぞわりと、肌を舐めるような感覚に襲われ、信雄は咄嗟に西へ顔を向けた。
朝から変わらぬ空模様。宙を飛び交う無数の矢。義を忘れ、情を捨て、ただただ怒りのままに激しく切り結ぶ兵士達。槍を振るい、太刀を振るい、肉を切り裂き、骨を砕く。怒号。雄叫び。悲鳴。絶叫。
そんな、地獄のような戦場を覆い尽くすかのように、西の空から異様な気配が漂ってきていた。この世の全てを征する覇王の覇気が。
「ちち……う……ぇ? 」
「……殿? どうかなされましたか? 」
その名を口にしただけで、信雄の中で予感が確信へと変わっていく。家臣の声も耳に入らない。
あぁ、そうだ。忘れる筈がない。身が竦むような圧力を。人とは思えぬ気配を。あの、虫けらを見るような冷たい眼差しを忘れる筈がない。
「ぅ……あぁ…………ぅぁ……っ」
身体が小刻みに震え、顔は青ざめ、歯をカタカタと鳴らし、指先は真冬の時のように冷たくなっていく。信雄の脳裏には、五年前の光景が鮮明に思い出されていた。
***
信長は、己と敵対する石山本願寺攻略を大目標と定め、その補給拠点である雑賀衆を滅ぼす為に、天正五年より紀州征伐が始まった。
一度は和睦となって紀州より撤退した織田軍だったが、天正六年に再度侵攻。後世において、第一次天正伊賀の乱と称されるその戦いは、地の利を得る雑賀衆の激しい抵抗に、大軍を率いる織田軍は苦戦を強いられていた。
一年経っても攻略出来ない。その事実に焦りを覚えた信雄は、敵を侮って無理攻めを決行する。それも、無断で。
その結果多くの兵士が帰らぬ者となり、この馬鹿を逃がす為に殿となった柘植保重と植田光次が討ち取られた。信雄は、功を焦って独断専行をしたことで、とんでもない大損害を織田軍に与えたのだ。大失態であった。
それにより、信雄は戦場より敗走した後に安土城へ召集された。信長直々に叱責する為に。
信雄は、着の身着のまま信長の前に連れて来られた。その場には、多くの家臣達が軒を連ねており、皆の視線が信雄へと集中する。
信雄は、己に突き刺さる好奇の眼差しと、この場に集った者達の顔ぶれを見て瞬時に信長の思惑を悟ると、肩を震わせながら顔を伏せた。その顔は、真っ赤に染まっており、強く握り締められた裾には深い皺が出来た。
……無理もない。血と汗、涙、泥で汚れたその姿は、まさに命からがら逃げ延びた敗戦の将。そんな情けない姿を、織田家の中枢を担う家臣達に見られたのだ。一門衆として、信長の息子として、これ以上の恥はない。屈辱である。
「――っ」
怒りに震える。このような仕打ち、一門衆序列第二位の俺が受けて良いものではない……と。
しかし、信雄に口を開く権利は与えられていない。失敗したのだ。己の浅はかな行いで、多くの人命が失われたのだ。であれば、どんな屈辱も甘んじて受け入れねばならない。例え、それが主君の子息だとしても。
だが、信雄が屈辱感に苛まれたのは僅かな時間で済んだ。信雄のその不満そうな態度が、信長の逆鱗に触れてしまったのだ。
「茶筅」
信長が口を開いたその瞬間に、場の空気が一変する。張り詰めた空気。背筋を凍らせる声音。空間を軋ませるような怒気。否が応でも頭を垂れさせる威圧。眉間に皺を寄せて信雄を見下ろすその姿は、誰が見ても苛立っているのが分かってしまう。
その様子に、傍に控えている小姓はぶるりと恐怖に震え、なんの咎も無い家臣達もが顔を青ざめてしまう。皆、一様に信長の怒りがこちらへ飛び火しないように気配を薄くさせた。
信長は偉大な名君ではあるが、己の敵には一切容赦しない冷徹な一面がある。己を侮辱した者、罪を犯した者、織田家に不利益となる者、裏切り者。それ等の末路は悲惨だ。
それを分かっているからこそ、彼らは荒ぶる信長から視線を逸らす。漂う威圧感に圧倒される。怖くて堪らないのだ。信長から放たれる覇気の余波を受けただけで、堪らず逃げ出したくなる。
では、それを真正面から受けた信雄はどうなるか。当然の事ながら、ろくに精神を鍛えていないその身で覇王の圧力に耐えられる筈がなかった。
「――っ」
信雄は、目を見開きながら息が詰まらせた。心拍数は急激に上昇し、呼吸は不規則になっていく。最早、座っているだけで気を失ってしまいそうだ。
信雄は、何とか顔を伏せようとするも、信長がソレを許さない。逃げる事など許す筈がない。そのあまりの剣幕に、信雄は身体が硬直してしまって目を逸らせなかった。苛立ち、怒り。呆れ。上座から伝わってくる威圧感とは裏腹に、信長の瞳は酷く冷え切っており、それがより一層恐怖を引き立てるのだ。
そうこうしているうちに、上座から押し寄せる圧力が刻一刻と増していくのを信雄は肌で感じ取った。信長は、無駄を嫌う。彼の前に限り、沈黙は死である。
その事実を知る信雄の頬を冷や汗が伝う。
(このままではいけない。何か、何か答えねば……っ)
信雄は、迫り来る死神の足音に耐えかね、堪らず口を開いた。
「は、はぃ……」
絞り出すようなか細い声が、微かに謁見の間へ響き渡る。
通常、そんな小さな声が上座まで届くことは無いが、幸いにして誰も彼もが口を閉ざして物音を立てないようにしていた。
ピクリと、信長の眉が動く。どうやら、信雄の声は無事に届いたようだ。
されど、信長の瞳は冷え切ったままであった。
――次はない。
「――っ!! は、ははーっ!! 」
その言葉を聞いた刹那、信雄は反射的に額を畳に擦り付けた。そのたった一言が、信雄の魂へ恐怖を刻み込んだのだ。
次は、本当に殺される。息子とか、一門衆の序列なんて関係ない。兄、信忠がいる以上、信雄など所詮スペアでしかないのだから。
その事実を、信雄はこの一件で痛い程に思い知らされた。自分の価値など、父にとって替えのきく程度でしかないと。必要であれば、父は躊躇いも無くこの首を刎ねるだろうと。
痛い程に、思い知らされた。
***
それ故に、信雄は信長に対して絶対に敵対することは無い。あの一件以来、信雄にとって織田信長とは恐怖の象徴なのだ。此度の挙兵も、信長が記憶喪失になったから動けたのだ。でなければ、自ら旗頭になることは無かっただろう。
……故に――
「ぅ、ぅあ……」
「殿? 」
「ぅ、うあああぁあああぁぁあああッッ!!! 」
『殿っ!? 』
信雄は、脇目も振らず東へと逃げ出した。ただただ、迫り来る信長から逃げ出したい、その一心で。
当然、家臣達はたまったもんじゃない。よりによって大将が逃げ出したのだ。それも、合戦の真っ只中で。そんな姿を見られれば味方の士気は下がり、敵はここぞとばかりに攻め立てるだろう。慌てて、その背を追った。
「殿、お待ちを!! 」
「こんな時に何処へ行かれるおつもりですか!? 」
『殿、殿っ!!! 』
しかし、家臣達の必死の説得も虚しく、信雄はわけも分からない言葉を喚き散らしながら馬に鞭を入れた。当然、鞭を入れれば馬は走り出す。馬体は東を向いていた。
「うわあああはあーっ!! 嫌だぁ、嫌だーっ!! 来るなぁあああああっ!!? 」
『と、殿ぉおおおーっ!? 』
遠ざかるその背へ、家臣達は縋るように伸ばした。後を追う。それしかない。突然の事態に混乱する中、家臣達は一斉に手綱を引いて方向転換し、遠くなっていく背中目掛けて鞭を入れた。
これが、勝敗を決定付ける最悪手となることを、この時は誰も思いもしなかった。