60話
天正十二年五月二十一日 岐阜城 城下町跡。
開戦から二時間半が経過。
北。
白百合隊の活躍により、迂回して森を抜けた新五郎達が信雄軍の側面と正面を同時に襲いかかるも、単純な兵力差という壁に阻まれ、中々、織田信雄の首へ届かない。危機察知能力に秀でた信雄は、すんでのところでひらりと躱してしまうのだ。
後、一手足りない。
膠着状態。
南。
名将 榊原康政の前に、完全に前田慶次が抑え込まれてしまう。勝負して貰えないのだ。盾を構え、槍で距離を取り、安全な場所から弓矢と鉄砲で少しずつ前衛を削る。そんな、定石通りの兵法を用いる榊原軍に隙は見当たらない。
だが、慶次のその圧倒的な武力は健在だ。相手になる者など、徳川軍では本多忠勝くらいであろう。もし、その力を発揮出来る状況になれば、一気に流れを変えることも可能である。
しかし、それは今では無い。
膠着状態。
東。
井伊直政と森 勝蔵の一騎打ちは、両者の実力が拮抗している為に未だ決着はついていない。一合、二合と槍をぶつけ合う度に、周囲一帯に凄まじい衝撃波が吹き荒れる。最早、人の形をした災害であった。
他の者達は、二人の一騎打ちの邪魔をしない為に、……いや、巻き込まれないように距離を取っていた。下手に横槍を入れれば、瞬く間に己が八つ裂きにされる未来が鮮明に見えたからだ。
自分から、災害に近付く馬鹿はいない。
膠着状態。
西。
三十分前の時点で既に大勢が決まっていた西の戦場では、遂に冷酷なる大将 酒井忠次が森軍殲滅に向けて動き出していた。
「全軍、前へ」
『御意!! 』
ゆっくりとゆっくりと、翼を広げるように隊列を変えて行く手を阻み、弓矢と槍の牽制を混じえて動きを阻害し、状況の変化に対応出来ずに孤立した者から殺していく。慎重に、丁寧に、少しずつ、すり潰すように。
そんな、一部の隙もない進撃を開始する酒井軍に対し、森軍は完全に後手に回っていた。酒井忠次の策略により、軍としての動きを完全に封殺されていたからだ。
「前に出過ぎるなぁ!! 隣りの者と息を合わせるのだ! 腰を低くし、槍を構えよ! 距離を保てぇ! 」
「し、しかし、これでは……」
「……っ」
徐々に、徐々に押されていく現状に、森 力丸は己の不甲斐なさに歯噛みした。
開戦から僅か二時間半で、千五百の手勢は千二百にまで削られた。三百、全体の二割の損害。それに対し、現在の酒井軍の総数は二千四百。百程度しか削れていない。損害は一割未満。兵力差は二倍にまで離され、戦の主導権は完全に酒井忠次に握られている。
兵の質では、決して森軍は負けてはいない。士気も高く、日々の鍛錬で培われた軍の練度は非常に高い。何よりも、一騎当千の武将 可児才蔵がいる。彼の力を有効的に使うことが出来れば、もっと酒井軍の兵力を減らせたかもしれない。例え、逃げ惑う民を守る為に後手に回ってしまったとしても、力丸の指揮次第では未だ挽回出来たのだ。
つまり、酒井忠次と森 力丸の将としての力量差。それが、各軍の現状を如実に物語っていた。
***
進撃を開始してから二十分が経過。本陣にて指揮を執る酒井忠次の下へ、次々と前線の情報が押し寄せる。そのどれもが、酒井軍の優勢を知らせるモノであった。
そんな酒井の隣りには、前線から送られてくる何十通にも及ぶ報告書を精査し、的確に現状を酒井へと伝える軍師の姿があった。
「左翼、自軍の負傷者は三人、死亡者は無し。敵兵は、六人討ち取りました」
「中央、負傷者七人、死亡者一人。敵兵は、十人討ち取ったとのこと」
「右翼、負傷者十人、死亡者二人。敵兵は、一人を討ち取り、十数名が負傷して後方へと退っている様子。両軍合わせた負傷者は三十にも及び、乱戦となっているとのこと」
「……右翼に被害が集中しておるな? やはり、可児才蔵は手に負えぬか? 」
「……はっ、恐れ多くも進言させていただきまする。アレは、最早人のカタチをした災害。下手に触って被害を受けるよりも、幾人かの犠牲を加味して動きを阻害させた方が宜しいかと。……酒井様、戦況はこちらの優勢となっております。次第に負傷者が増加しておりますが、数の差からこのまま押し切れると思われます。如何致しましょうか? 」
「……うむ」
酒井は、軍師の進言を受けて戦況を今一度見直した。
左翼、中央共に自分が思い描いた展開通りに進んでいる。少々、右翼側にて被害が出ているものの、未だ想定内ではある。
その瞳には、既に終局図が見えていた。
(このまま、押し切ってしまえばよかろう)
「構わぬ。このまま進めよ」
「はっ」
「あぁ、それと……可児才蔵には三人一組となって当たるように指示を出せ。どうせ、奴を討ち取ろうとすれば、こちらにも少なくない犠牲が出る。十や二十では足りぬだろう。であれば、無理に攻める必要はない。適当に、槍で距離を取ってやり過ごせ」
「……宜しいので? 」
「あぁ、奴の生死は大勢に影響を与えぬ。討ち取ろうと躍起になる必要は皆無。無駄に犠牲が出るだけだ。相手にする必要はない。…………それに、奴はたった一人で戦況を覆すような化け物ではないしな」
「……は? 今、何か……? 」
最後、顔を伏せながらボソリと呟いた酒井に対し、軍師の男は首を傾げながら聞き返す。
しかし、酒井はなんでもないと首を横に振った。
「いや、なんでもない。気にするな」
「はぁ? ……では、私はこれにて失礼致しまする」
「うむ。頼んだぞ」
「ははっ! 」
軍師の男は、一度深く頭を下げてから立ち上がると、前線へ伝令を出す為に足早に立ち去って行った。
酒井は、その背を一瞥した後に己の右手へ視線を落とした。既に、震えは収まっている。しかし、未だにあの時受けた衝撃を鮮明に覚えていた。
「可児……才蔵」
呟いたのは、一人の男の名。開戦直後、数多の矢を文字通り薙ぎ払い、たった一騎で敵陣深くまで切り込んできた豪傑。才蔵の槍は、後少しで酒井の首へ届いていたのだ。
「――っ」
ヒヤリと、冷たい汗が首筋を伝い、思わず酒井は左手を首筋に添えた。まるで、繋がっていることを確認するかのように。
脳裏に思い浮かぶのは、馬上より飛び上がりながら槍を振るう羅刹の姿。あの瞬間、酒井の周囲には多くの武将がいた。だが、誰も止められなかった。誰も、才蔵の動きについていけなかったのだ。
もし、あとほんの少しでも防御が遅れていたら、酒井の首は宙を舞っていたに違いない。……いや、そのまま二の太刀で切り殺されていた。何せ、防御と言っても受け止めるのが精々で、そのまま落馬してしまったのだから。直ぐに家臣達が駆け付けた為に助かったが、あと少しでも遅れていたら、あと少しでも尾張の民を標的にした追加の狙撃が遅れていたら、酒井はそのまま討ち取られていただろう。まさに、九死に一生を得た。
……しかし、それでも――
「本多には、届かない。……届かない、筈だ」
自分に対して言い聞かせるように、何度も呟いた。
本多忠勝。幾たびの戦場を越えて尚、その身体にはかすり傷一つ付いていない。まさに、徳川家の守護神。最強の矛。生きる伝説。……そして、怪物。
酒井忠次は、本多忠勝を畏れていた。それこそ、徳川家康や織田信長よりも。共に戦場を駆けたが故に、その鬼神の如き大立ち回りを近くで見ていたが故に、その異常性に誰よりも畏れを抱いていた。
それ故に、酒井忠次は断言出来る。
酒井軍、優勢。……いや、勝勢と言っても過言ではないこの状況を覆せるのは、本多忠勝のような怪物のみ。そして、そんな怪物は森軍にいない。可児才蔵も、最初は本多忠勝と同格かと思われたが、こうも容易く動きを封じられている以上、それは杞憂だったのだと酒井は判断した。
故に、後はこのまま押し切るだけだ。そう、馬上にて酒井忠次が確信した――次の瞬間、戦場に一陣の風が吹き荒れた。
嵐は、西より来たる。