59話
天正十二年五月二十一日 長良川 織田信長
向こう岸へ渡る。それも、この中洲へと逃げ込んで来た四郎達も連れて。そう、余が決定を下すと、兵士達は直ちに支度へ取り掛かった。
舟の数は七隻。定員は約二百名。それに対し、この場には約七百名が集っており、その内訳は戦闘員二百名に対し、非戦闘員五百名である。
そして、何よりも忘れてはいけないことは、この場所は戦場からほど近く、最初に向こう岸の安全を確保する必要があるということである。
それ故に、乗組員の選抜は定石通りのものとなった。
最初に、周囲の安全を確保する為に兵士を半数混ぜた二百名が出発。その後、第二陣、第三陣と非戦闘員二百名ずつを振り分け、最後に余を含めた百余名が出発する。
都合、四往復。定数。舟の状態。時間。それ等を加味した結果、これが限界ギリギリだと昌幸は判断した。
それから半刻程度過ぎた頃、滞りなく四郎達を全員向こう岸へ渡らせることが出来た。半ば無理やり事を進めたにも関わらず、暴動や混乱といった問題も特に起こることもなく終わった。
それも、誰も余の指示に異を唱える者はいなかったからだ。まるで、これから奴隷として売られていく者達のように、ただただ光を灯さない瞳で舟へと誘導されて行った。
……正直、思うところはある。だが、彼らが経験した地獄を知らぬ身で、どうしてその心を理解出来ようか。
偽善に塗り固められた同情など、彼らにとって侮辱にしかならぬ。故に、今はただ待つことしか出来ないのだ。再び、彼らが立ち上がるその時を。
(余は、その後押しをするだけだ)
今一度、彼らの背を見ながら誓いを立てた。
必ず、お前達に選択肢を与えてやる。このまま、家康の策略に泣き寝入りする。そんな、最悪な未来を変える選択肢を。
***
そして、遂に百余名を乗せた最終便が出発する時が来た。
「上様! 出発の準備が整いました! 」
「うむ。では……往くぞ、お前達! 」
『ははっ!! 』
威勢の良い掛け声と共に中洲を発つ。屋敷からの距離を考えれば、向こう岸へ渡るくらい他愛もないもの。特に問題が起こることもなく、舟は川を横断して向こう岸へと辿り着いた。
「各員、上陸準備を整えよ」
『御意っ!! 』
短く指示を出すと、兵士達は素早い動きで支度に取り掛かった。
それを尻目に、そっと舟の縁を撫でる。舟の状態は決して良いとは言えなかったが、なんとか最後まで持たせることが出来た。最後まで、沈むことなく目的地まで辿り着いてくれた。
(ありがとう。良く、ここまで働いてくれた。お前がいなければ、余はここまで辿り着けなかっただろう。……大儀である)
何度も、何度も労わるように縁を撫でる。道具相手に何をと笑われるやも知れぬが、余は、このたった一度の戦友に敬意を表し、全て片付いた後に舟の一部を切り取って劔神社へ奉納しようと決めていた。最大限の感謝を込めて。
暫くすると、一人の兵士がこちらへ歩み寄ってきた。
「上様、上陸準備整いましてござる」
「で、あるか。……行くぞ」
「はっ」
陸に固定された舟から飛び降りて上陸を果たす。ただ、それだけで空気が変わる気配を感じた。
此処は、既に戦場である。
そう、気を引き締め直して先に上陸していた者達と合流する。皆、余を待つように一塊となって佇んでいた。
(どうやら、何処に伏兵が忍んでいるやも分からぬ戦場近辺で、短絡的に単独行動を取る愚か者はいなかったようだな)
まぁ、それも当然かと思いながら声をかける。
「すまない。待たせたな、お前達」
『…………』
しかし、返事が返って来ない。静寂。まるで、石像のように一点を見詰めながら微動だにしない一同。冷たい汗が背中を伝う。何かあったのか、そんな焦燥感に駆られながら一人の兵士の肩を掴んだ。
「おい! どうした! 何があった! 」
「……ぇ、……ぁ、う、上様? 」
ぼんやりとしていた瞳に光が戻る。照準の定まっていなかった視線が、ゆらゆらと揺れながら余の顔を捉えた――刹那、我に返って兵士は勢いよく先程の無礼を詫びた。
「――っ、し、失礼致しました!! 声をかけれるまで、上様のご到着に気付かぬとは……っ。……大変、ご無礼を致しました。どうか、お許しくださいませっ」
「良い、許す。して、状況はどうなっておる」
「はっ! 現在、周囲一帯に敵影は見当たらず、先の川渡りで怪我をした者もおりませぬ」
「……そなたも、何も怪我をしておらぬのだな? 」
「はっ! 」
「……である、か」
頷く。兵士の様子に嘘は見当たらない。他の者達も、余の声に段々と正気に戻っていくのが気配で分かった。どうやら、ただ放心してしまっていただけのようだ。
(……では、一体何が原因なのだ? 怪我をしていないのであれば……何かを見てしまったが故……か? )
「……通るぞ」
『う、上様! お待ちを! 』
余は、皆の視線の先に答えがあると確信し、集団を掻き分けるようにして前に出る。後ろからは、慌てて追いかけてくる者達の気配を感じた。制止する声も聞こえた。
だが、それでも余は足を止めなかった。上手く言い表せないが、酷く嫌な予感がしたから。
その理由が、今、余の目の前に広がっていた。
「これ……は――っ」
息を呑む。余の後をついて来た者達も、皆、呆然とした表情で周囲を見渡していた。
地獄絵図。
そんな、言葉がこの状況を示すのに最も適しているだろう。真っ赤に染まった大地。辺り一面に突き刺さる刀、槍、矢の数々。砕けた鎧の装飾。折れた馬印。無造作に転がる骸、骸、骸。
(……道理で、静かな筈だっ)
その、あまりにも惨たらしい光景に、一度黙祷を捧げてから足を踏み出した。辺りを見渡す。死んでいる者達の多くが、中洲にいた者達と同じ農民達だろう。似た格好をしている。
しかし、その中には甲冑に身を包んだ姿も十数名程見かけられた。皆、地面にうつ伏せになっている為に顔を確認することは出来ないが、彼らが背負った家紋から森家の者達だと悟る。
その内の一人の傍に寄り、膝を着いて状態を確認する。鮮血に濡れた鎧。おびただしい数の刺し傷。固く、握り締められた太刀。
既に、彼は事切れていた。
見開かれた瞳は、一体最期に何を見ていたのか。その時の状況を知らぬ余には、想像することしか出来ない。
……だが、一つだけ確かなことがある。
それは、彼らが最後まで戦い抜いたこと。その瞳には、恐れも、嘆きも、後悔すら感じ取れなかった。ただただ、目の前の敵へ向かっていく闘志だけが宿っていた。
それだけで、何故森家の兵士がこの場で死んでいたのかを察する。彼らは、逃げ惑う尾張の民を守る為に最後まで戦ったのだ。中洲へと逃げ込める時間を稼ぐ為に、追撃してきた敵と戦ったのだ!
その証拠に、彼らは全員うつ伏せになって死んでいた。誰一人として、その背に逃げ傷を残さなかった! それは、最後まで誇り高く戦った者の証だっ!!
瞼を閉ざし、顔の泥を拭う。
「……良く、頑張ったな。安心して眠るが良い。お前達の献身は、決して無駄にはさせぬ」
「…………ぁ」
手向けの言葉を呟いて先へ進む。後ろから、小さな声が聞こえた。面識があったのか。いや、おそらく彼に救われた者だろう。振り向いて確かめたその瞳に、小さな火が灯っていたのだから。絶望に染まっていた筈の死んだ瞳に。
何か声をかけようか、そう思った矢先、小さな呟きは悲鳴へと変わった。
「キ、キャーッ!! 」
反射的に背後を振り向く。そこには、正気を失った一頭の馬が土煙を上げながらこちらへ向かって来る姿が見えた。主を失ったのか、その背には誰も乗せていない。真っ赤な血で染まった馬具が、主の末路を物語っていた。
「はぐれか!? 」
「真っ直ぐにこちらへ向かって来ておるぞ! 」
「上様、早くお逃げ下さい!! 」
慌ててこちらへ駆け寄る者達。
だが、余は真っ直ぐに馬の方へと足を踏み出した。
後ろから聞こえてくる悲鳴が一際高くなる。確かに、あれ程の速度が出た馬に轢かれればひとたまりもない。彼らに脳裏には、余が吹き飛ばされる姿が鮮明に思い浮かんでいるに違いない。悲鳴の一つや二つ、上げたくもなるだろう。
されど、余は何一つとして不安など感じておらぬ。
「……ふぅ」
死臭が肌を撫でる。この胸の奥で渦巻く激情と連動するように、固く握り締められた右手が激しく震える。
これは、怒りだ。
確かに、戦に犠牲はつきものだ。奪い、奪われ、傷付き、殺し合う。戦とは、そういうものだ。どんな綺麗事で着飾ろうが、その本質を変えることは出来ない。
だが、だがそれでも――
「武士として、守らねばならぬ最低限の仁義があるだろうがぁ!! 」
ただ、己の快楽を得る為に逃げ惑う者達を殺戮するなど、最早武士に非ず。賊と同義である。許すことなど、到底出来るものではない。その命をもって、自らが犯した罪を償わさせる!
「上様、危な――」
その為にも、此処で死ぬ訳にはいかぬ。
――止まれ。
《――ッ!? 》
瞬間、全力の覇気を放つ。すると、目の前にまで迫っていた馬が、突然怯えるように慌てて速度を落とし始め、あわやぶつかる寸前で右手で馬の頭を抑えると、一度大きく震えてから大人しくなっていった。
その様子に、背後から感嘆の声が上がる。余は、そんな彼らに投げかけた。嘘偽りのない、本心を。
「悔しく……ないのか? 」
『――っ』
静寂。されど、その本質は先程とは異なる。絶望故でも、困惑故でもない。彼らの瞳には、確かに怒りが宿っていた。
「あぁ、そうだ。それで、良いのだ。己が心の叫びから目を背けるな。誤魔化すな。隠すな。我慢するな。泣き寝入りなんて、する必要は無い。……お前達は、悔しがって良いのだ! 怒りを覚えて良いのだ! 恨みを叫んで良いのだ! 騙された挙句、命まで狙われたのだぞ!! 多くの命が奪われたのだぞ!! 逃げ惑うお前達を殺したところで、戦況には何ら影響を与えぬだろう。だと言うのに、奴らはお前達を襲った! ただ、殺戮を行う為だけに! ここまでされて、お前達は悔しくないのかっ!? ……余は、悔しくて堪らないっ!! 」
声が震える。
すると、俯いていた者達から想いが溢れた。
「……悔しいっ」
「許さない……っ」
一人、また一人と秘めていた想いが溢れていく。そうなれば、連鎖的に広がっていった。そして、自然と皆の意思が一つへと収束されていくのだ。
【敵を討つ】
そこに、兵士も農民もない。今、この瞬間、二百十名の手勢に五百名の戦士が加わった。
馬に跨り、太刀を掲げて手綱を引く。
「ならば、ついてこい! 道は、余が切り開く! 己が手で、敵を討つのだっ!! 死んでいった者達の、誰かの命を守る為に死んでいった者達の無念を晴らせ!! 今こそ、立ち上がる時ぞっ!!! 」
『おおおおおおおおぉぉぉっ!!! 』
全軍、全速力で戦場へとひた走る。
全てに、決着をつける為に。