58話
天正十二年五月二十一日 長良川 中洲 織田信長
男は、言った。開戦直後、多くの者達が三法師の言葉に従って中洲へと逃げた。その数は、およそ千人であると。しかし、この中洲にいる者達はせいぜい五百程度。先程男が述べた千人には、遠く及ばない数字であった。
数を言い間違えたのか、はたまた誇張だったのか。
そんな疑念は、直ぐに取り払われる。
最悪の形で。
「数が合わないのも無理はありません。多くの者達は、中洲へ辿り着くことは出来なかったのですから。……背後から、矢を打たれることによって」
『――っ!? 』
誰もが言葉を失う。
(ナニを、言って……)
一瞬の思考の空白。脳が、理解することを拒む。そんな中、昌幸は誰よりも早く正気に戻り、その発言の核心を突いた。誰もが、考えたくないと頭の隅へ追いやった答えを。
「……それは、味方から攻撃を受けたということか? 織田信雄と徳川家康は、お前達が戦場を離れることを許さず、敵諸共討ち取らんと、お前達が射程圏内にいるにもかかわらず攻撃を開始したというのか? 」
「……っ」
悲痛な表情を浮かべる男。
やはり、そうだったのか。そんな考えが頭を過ぎるも、直ぐにソレは誤りであったと思い知る。彼らが受けた苦痛は、奴らが犯した罪は、そんな甘っちょろいモノではなかった。
「……いえ、あれはそんなモノではありません。奴らは、逃げ惑う私達を標的に定め、矢を放ってきたのです」
『――なん、だと……っ!! 』
戦意のない者達を標的にする。そんな、武士の風上にも置けぬ卑劣な行いに、兵士達から紅蓮の如き怒気が立ち昇る。その中には、昌幸も含まれていた。
「下衆が……ッ!! 」
強く握り締められた右手からは血が滴り落ちており、顔を真っ赤に染めながら青筋を立てるその姿は、まさに羅刹の如し。常に、冷静沈着な昌幸らしからぬ姿に、息子の信幸も息を呑んでいる。
だが、余はその姿に、昌幸もまた、余と同じ仮説に辿り着いたことを悟った。知略に長けた昌幸だからこそ、彼らが狙われた理由を瞬時に導き出せたのだろう。選ぶかはともかく、その手が最も合理的だと分かってしまったからだ。
視線を男へ戻す。そこには、恐怖に震える身体を必死に抑えようと肩を抱く姿があった。おそらく、話しているうちに、あの時の光景を思い出してしまったのだろう。その姿に、思わず開きかけていた口を閉ざす。これ以上の詮索を躊躇ってしまう程、目の前の男が憐れに思えた。
しかし、確かめねばならない。
「……お前達は、奴らに利用されたのだな。お前達を狙えば、三法師は必ず敵の攻撃からお前達を守ろうとする。例え、そのせいで後手に回ることになろうとも、あの子は助けを求める者を見捨てることは出来ない。……奴らは、それを分かった上で矢を放ったのだ。それが、最も効率的に三法師達の兵力を削れると見切って」
「……おそらく、その通りだと……思います。奴らは、突然の開戦に身体を強ばらせる私達の背を、一切躊躇することもなく槍で突き刺し、刀で斬り裂き、矢で貫いてきて……っ」
ブルりと、大きく身体を震わせる男。その瞳には、強い恐怖と怒り、そして懺悔するかのような感情が、色濃く浮かび上がっていた。
「……正直、あの時の状況は良く覚えていません。目まぐるしく移り変わる景色。奴らの蛮行を止めようと、声を張り上げながらこちらへ向かって来る人影。怒号。悲鳴。絶叫。むせ返るような血の匂いが漂う中、私は、ただただ無我夢中で足を動かすことしか、出来なかった……っ」
「……っ」
唇を噛み締める。言葉の節々から、その時の凄惨な光景が脳裏に浮かんできた。
「……そして、命からがらようやく川へ辿り着いた時には、同郷の者達のその殆どが行方知らずになっていて。あの時、ほんのすぐ側にいたはずなのに、周囲を見渡しても全然見付からなくって……っ。さ、探そうとしたんだ! 嘘じゃない。本当だ! でも、皆の安否を確かめようにも、もうそれどころじゃ……なかったんだっ! 」
言葉が荒々しくなっていく。全てを吐露するように。
「……うぅ……っ、矢を打たれた。その直後、隣りからナニかが倒れる音がして、慌てて後ろを振り返れば、鬼のような形相をした敵兵が武器を片手にこちらへ迫って来るのが見えた。……その恐ろしさに、足が全く動かなくなって。そんな俺の背を誰かが強く押した。早く逃げろと叫ぶ声が聞こえてきて、皆、反射的に川へ飛び込んだ。ただただ、中洲へ向かって泳いだんだ。生きたい。その一心で。……それでも、多くの者達が、此処へ辿り着くことは、出来なかった……っ」
男の視線が、一瞬だけ川の下流へと向けられた。
自然と、余もそちら側へと顔を向ける。視線の先には、相も変わらず濁流のように荒れ狂った長良川が見え、周囲一帯には薄気味悪い空気広がり、岐阜城の方角からは激しく争う物音が聞こえてくる。
そんな、着いた当初と変わらぬ光景ではあったが、妙な違和感を感じて下流の方へ視線を向けた。そして、良く確かめるように目を細めてみると、ようやく男が見ていたモノに気付くことが出来た。
「――っ、あれ……は」
声が震える。視線の先にあったモノ。それは、川の流れを二つに分ける黒い塊であった。
初め、あれはただの岩だと思っていた。川の中央に岩がある。何一つ、不自然なことではない。それ故に、余は記憶の縁からその情報を消した。記憶に留めておく必要のない、些事であると。
……だが、それは誤りであった。もしかしたら、無意識にソレから目を背けていたのかもしれん。
黒い影から伸びる突起物。
――それは、人間の腕であった。
刹那、後方から凄まじい殺気が溢れる。皆、余の視線からアレを見付けてしまったのだろう。茶筅と家康が起こした虐殺の成れの果てを。
(余も、同じ思いだ)
一度、瞬きをして足を踏み出す。
「……であるか」
ぽつりと呟き、男の頭に右手を乗せる。
「――っ!! うぅ……ぅあ……っ、俺は……俺は、なんにも出来なかった。誰も、救うことも出来なかった! 口先ばかりで、なんにも出来なかったっ! 俺が、俺がバカだったばかりに、皆死なせちまった! ……あいつは、別に戦に乗り気じゃなかったのに、俺が無理やり誘ったせいで死んじまった……っ。未だ、息子にも会えていないのに……っ!! 俺の、せいで――っ!! 」
震える肩。弱々しい命の鼓動。余には、この男が裁かれるその時を待ち望んでいるのがハッキリと分かった。それ程までに、男の魂を強い後悔の念が蝕んでいた。ぐるぐると、渦巻くように。
このままでは、遅かれ早かれ男は死を迎えるだろう。精神的にせよ、肉体的にせよ。
……ここで、首を斬り落として楽にしてやるのも一つの救いだろう。そうすれば、もう二度と苦しまずに済む。悪夢に苛まれることもない。……だが――
(だが、それでは此奴らがあまりにも不憫過ぎる)
死ぬか、生きるか。どちらを選んでも地獄が待っている。そんな、救いようのない結末を、余自身が認めたくはなかった。
それ故に、もう一つの道を示すことにした。
深く息を吐き、真っ直ぐに男を見詰める。
「顔を上げよ。貴様、名をなんと言う? 」
「……し、四郎っ」
「うむ。そうか、四郎だな。……では、四郎よ。直ちに支度を整えよ。こちらの舟を使って向こう岸へ渡る。このまま中洲に居たところで、なんにもならんならな。四往復もすれば全員渡りきれるであろう。四郎の口から、皆に伝えてくれ」
運命に抗う。そんな、第三の選択肢を。