56話
天正十二年五月二十一日 長良川 中洲 織田信長
命懸けの川下りの末、見事に誰一人欠けることもなく中洲へ辿り着いた一行は、誰もが涙を流しながら喜びを分かち合っていた。
未だ、戦場の近くに辿り着いただけにすぎない。本番はこれから。浮かれるな。気を緩めすぎだ。声を抑えろ、敵兵に見つかったら全てが水の泡だ。
そんな叱責が脳裏に浮かぶも、余は何も言わずにそのまま昌幸に身体を預けた。
この状況で水を差すのは、あまりにも無粋であろう。あんな博打みたいな危険な賭けに打って出て、見事に乗り越えてみせたのだ。喜んで何が悪い。余とて、もう一度やってみろと言われれば眉を顰めて拒絶する程だぞ?
それに、人間というのはそこまで集中力は持続せん。特に、他人から強要されたモノはな。何事も緩急が大切なのだ。
故に、今はただただ無事に辿り着けたことを喜び、再び戦場へと意識を向けた時に気を引き締めさせれば良かろうて。
肩の力を抜きながら、現在の状況を整理する。
これにより、余の軍勢は敵軍の側面を突くことが出来るようになった。家康すら、有り得ないと切って捨てた道筋。間違いなく、奴の意表を突くことが出来るだろう。余の瞳は、しかと奴の急所を捉えていた。
瞼を閉じて耳を澄ませる。すると、岐阜城の方向から激しい戦闘音が聞こえてきた。未だ、戦は続いている。間に合わなかったという最悪の結末だけは回避出来たようだ。
その事実に、口角が自然と上がっていく。狙いを定めた獰猛な獣のように。
(……良い。良いな。読み通りの展開だ。このまま奴らに気付かれずに側面を突ければ、戦況を一変させる衝撃を両軍へ及ぼすだろう。それこそ、あっという間に決着がついてしまう程の)
熱い。滾るような熱が胸の内に灯っている。
……もし、このたった二百程度の軍勢の働きによって三法師達を勝利に導いたならば、その活躍は比類なき偉業として歴史に刻まれることだろう。彼の源義経公が、僅か七十騎を率いて断崖絶壁を駆け下り、平家の陣営の背後を突いて蹴散らしてみせたように。その栄光は、未来永劫語り継がれることになる。己の名が歴史に刻まれるのだ。
武人として、これ以上の名誉はない。
(その為にも、更なる手勢が必要だ)
「……行くか」
瞳を開く。
見据える先は、こちらへ怯えるような視線を向けてくる者達。彼らの力が、この戦の勝敗を左右する。
そう、確信していた。
***
先に上陸した兵士達が舟を固定し、残された者達は舟の底に積んでいた武器や身に着けていた具足の点検を行う。次第に、兵士達の表情に鋭さが戻ってきた。意識を切り替え、決戦に向けて集中し始めたのだ。
暫くすると上陸の準備が整い、余を先頭に一行は中洲へと降り立った。既に、各々戦支度は整っており、険しい表情を浮かべながら周囲を見渡す。些細な異変も見逃さんばかりに。
そんな一行の下へ、二人の男達が恐る恐る近付いて来た。
「ぁ、あの……」
「止まれっ! 」
『!! 』
兵士達の鋭い声音に、男達はビクリと一度大きく肩を震わせて立ち止まる。その瞳は、強い恐怖の色で染まっており、伸ばしかけていた右手が行き場を失ったように力なく垂れ下がる。そして、諦めたかのように僅かに後退った。
その行動が、兵士を刺激してしまった。
「動くな!! 」
殺気。腰を低く構え、険しい表情で刀に手を添える姿は、今にも斬りかかりそうな雰囲気に満ちている。
「貴様等は、何故こんな所に身を隠しているのだ! 何故、上様に近付こうとする! 所属は? 名は? 目的はなんだ!! 」
「……ぅあ……ぁ……っ」
矢継ぎ早に問いだたされた男達は、分かりやすい程に狼狽えながら後退り、足を踏み外してしりもちをつく。じわりと地面が濡れていく様子から目を逸らすと、兵士達に見られぬように溜め息を吐いた。
あれは、どう考えても間者の類いではないな。見たところ、子奴らは此度の戦の為に徴兵された農民。瞳を見れば分かる。戦で死ぬ覚悟も、仲間を失う覚悟も、人を斬る覚悟すら備わっていない。あれは、強者から搾取され続ける弱者の瞳だ。
そんなただの農民が、鞘に手を添えながら殺気を放つ兵士相手にまともに対応出来る訳がない。彼らの反応は、至極当然のものと言えた。
隣りに立つ昌幸へ視線を向けてみれば、余の考えに同意するように頷く。意見が一致した。であれば、そろそろ止めに入るべきか。そう思い視線を戻してみれば、未だに兵士による尋問は続いていた。
「何故、何も答えぬ! やましい事があるから、何も言えぬのではないのか――「もう、良い」
兵士の言葉を遮るように、肩に手を置いて制止する。ソレに対し、バッと勢い良く振り返った兵士は、止めたのが余だと気付くとバツが悪そうに頭を下げた。
「こ、これは、上様……」
「良い。少し、退っておれ」
「……御意」
不承不承ながら引き下がる兵士。その瞳は、未だに警戒深く男達へ向けられていた。
……別段、余は兵士を咎めるつもりはない。その対応が間違っていると思わぬからだ。
確かに、農民相手にやりすぎかもしれん。だが、中洲と言えど、此処は既に戦場と同義である。あの二人の男達は間者では無くとも、その後ろにいる者達の中に紛れ込んでいるやもしれん。そう考えれば、迂闊に近寄らせないように殺気を放つのは至極当然のこと。
(それに、あやつのお陰で余は此奴らの正体を見抜けた。後方にいる者達も、殺気を感じて咄嗟に臨戦態勢を取る者は誰もおらんかった。皆、恐怖するばかり。……如何に気配を惑わそうとも、反射的に出る行動までは隠し通せぬ。大丈夫だ。この中に、間者はおらぬ)
故に、余は恐怖に怯える男達へと足を進めた。
空気が張り詰める。
『――っ!! 』
一歩、足を踏み出しただけで、男達は震える手足を何とか動かして平伏する。それに続くように、後方の者達も一斉に平伏した。視界にも入れたくない。そんな、心の叫びが聞こえてくるようだ。
「……うむ」
改めて、平伏する者達を見渡す。
此奴らは、誰と戦うかも分からずに戦場に連れて来られた者達だな。おそらく、此奴らを徴兵した者は、敵に悟らねぬように当日になってから急遽近隣の村から人手を掻き集めたのだろう。装備に統一性が無い。己の所属を示す旗すら掲げておらん。足軽。烏合の衆。そんな言葉が、此奴らを表すのに最も適しておるだろうな。
(……となれば、自ずと此奴らの所属を導き出せる)
余は、兵農分離を推し進めていた故に、こういった速度を重視した奇襲を仕掛ける際には、常備軍を用いることが出来る。こんな烏合の衆を、失敗の許されない奇襲に使うことはない。万を超える大軍を編成するのであれば話も違うがな。
そして、余の政策を継いだ三法師も、正規兵に比べて著しく練度に劣ると分かりきっている農民達を、わざわざ徴兵までして使うことはないだろう。
つまり、此奴らは茶筅の陣営。尾張の民だと言うことだ。引き込める可能性は十二分にある。
(後は、その瞳に今一度炎を灯してやれば良い)
「お前達は、尾張の民か? 」
「……ぇ」
思いもよらぬ言葉だったのか、男は反射的に顔を上げた。その瞳を逃がさぬように、膝を着いて視線を合わせる。
「余の名は、織田信長。前右府、織田信長である。……尾張国は、父から引き継ぎ、平定し、発展させてきた余の故郷。その民を、蔑ろにすることはない。生きとし生ける全ての者達が、余の愛すべき民なのだからな。……さぁ、余の民よ。答えるが良い。何が、あったのだ? 」
「…………ぁ」
男の目が見開き、大粒の涙を流し始める。
そして、語られるのは開戦から中洲へ逃げ延びるまでの経緯。思わず眉を顰めてしまう程の、凄惨な虐殺の記憶であった。