55話
天正十二年五月二十一日 長良川 織田信長
激しい水飛沫が宙を舞う。
「上様、このまま中洲へ上陸致します! これが、最後の難所にございます! 衝撃に備えて下さいませっ!! 」
「あいわかった! 総員、防御体勢っ!! 」
『おぉっ!! 』
余の号令に、各員手元の取っ手を掴んで姿勢を低くした――刹那、船底を斜めに貫くような衝撃が走る。
『うおおおおおおおぉおぉっ!!! 』
ギャリギャリと、底が削れるような不穏な音が響き渡る。直後、真後ろから衝撃が襲う。無理矢理上陸しようとしたせいで速度が落ちた故、後続の舟が追い付いてしまったのだ。
つまり、この衝撃は後五回は続く。
『――っ!! 』
身体の芯を震わすような衝撃。連鎖的に起こる衝突に、七隻の舟はまるで団子のように繋がっていく。
その様子に、兵士の一人が顔を真っ青にして叫んだ。
「報告! 先程の衝突によって、互いの舟の先端が大きく破損! 折れた木片が側面に突き刺さり、大きなの穴と亀裂が生じてしまいました! 舟が波で揺れる度に水が流れ込んでおります!! 」
『!? 』
動揺が広がる。目まぐるしく切り替わる視界の端で、一人の大柄な男が身を呈して亀裂を塞いでいた。
悪い知らせが続く。
「上様! 衝突の度に、舟の速度が増しております!! このままでは、中洲へ止まるどころではございません!! 」
「亀裂拡大! 水を抑えられません! 」
「前方に人影発見! 前方に人影発見! その数……三百以上!! 敵兵の待ち伏せやもしれませぬ! 上様、どうなされますか!!? 」
『上様っ!!! 』
「…………」
道中、多くの苦難を一丸となって乗り越えてきた一行の前に、最後にして最大の試練が待ち構えていた。
悲鳴。混乱。悲壮。
【やはり、無謀だったのか】
そんな、諦めたような空気が流れる中、余は瞬時に状況を整理して最適解を弾き出す。
「右側の者は、今直ぐに艪を固定具から外して水面に突き刺せぇ! 他の者達も、右側に体重を乗せて舟の重心を傾けるのだ!! 」
「しかし! それでは、舟の速度が急激に落ちることになり、後続の舟からの圧力を一身に受けることになりまする! あっという間に押し潰されまするぞ! 」
「案ずるな!! 後続の舟も同時に減速させれば、そんな事態には陥らん! それに、既にこの舟は中洲の先端に乗りかかっておる。今から減速を開始せねば、このまま中洲を通り過ぎることになるぞ! 」
「そんな上手くいきましょうか!? 無理矢理速度を落とそうと、無理に艪へ負荷をかければ、そのまま折れてしまいますぞ! 」
「問題ない! 真横の水面を見てみよ! 中洲と言っても、所詮は水に濡れた土が積み重なったモノ。陸の地面とは違い、その性質は泥のように柔らかい。川の流れに逆らわず、切るように艪の向きを合わせればそう易々と折れることはない! であれば、突き刺した艪が土を削ることで舟の速度を落とせる筈だ! 」
「!! 」
「最後尾の者は、今直ぐに後ろの舟にも余の指示を伝えよ! 息を合わせねば、この策は成り立たん! 全ての舟が一斉にやらねば、一番最初に減速したこの舟に、後続の船団が次々と衝突することになる! そうなれば、我らの命は無いぞ! 死にたくなければ直ぐに動け!! 」
『御意! 』
大声が飛び交う。止まるな。未だ、何も状況は変わっていない。
「亀裂と穴はどうなさいますか!! 」
「大きさはどの程度広がっておる!? 底まで達しているか!? 」
「大きさは共に拳大程度! 穴は側面に三箇所! 亀裂は、底までは達しておりません! 」
「底に穴は空いていないのだな? であれば、そのまま放置して良い!! 既に、目的地まで目と鼻の先だ。多少速度を落としても、舟が沈む前に辿り着くことが出来る!! 」
「――っ! ははっ、承知致しました! 」
声を張り続けろ。思考を止めるな。楽な道を選べば、瞬く間に皆の命が刈り取られるぞ!
「上様! 前方に見える人影は、どうなさるおつもりですか!? 」
「構わぬ、捨て置け! 」
「――っ!? し、しかし、敵兵の可能性もございますぞ! 目測でも、あの人影はこちらよりも多勢。無闇矢鱈近付いては、御身に危険が……」
「たわけ! もし、あれが家康が用意していた刺客であれば、既にこの身は弓矢で射抜かれておるわ! 十分射程圏内であるからな! 」
「な、成程。……では、奴らは一体何者なのでしょうか? 」
「……凡そ見当はつく。所属は分からんが、おそらく戦場から逃げてきた者達だろう。薄暗い森に逃げるより、視界の明るい川の方へと逃げ込んだのだろう。遠目に見ても戦意が感じられん。故に、脅威ではないから捨て置けと言うたのだ。……疑問が解けたのであれば手を動かせ! 奴らにかまけている余裕など無いぞ!! 」
「は、ははっ!! 」
皆、大慌てで動き出す。今が、生死を分ける瀬戸際。一瞬足りとも気は抜けぬと、本能的に察しておるのだ。
そして、全ての支度が整った。
「上様! 後続の舟全てに、上様の指示が回り終わりました! 何時でもいけまする! 」
「あいわかったァっ!! 」
それを合図に、一気に肺に空気を送り込み、七隻に乗り込む全ての兵士達に届くように声を張り上げた。
「静まれぇぇぇええええええええっ!!! 」
『…………』
静寂。皆の視線を一身に集める。右腕を上げれば、それに続くようにそれぞれ艪を掲げた。
「三拍子で呼吸を合わせ、余の合図と共に艪を水面に突き刺すのだ!! 」
『おうっ!!! 』
「行くぞ……っ」
――ひとーつ!
――ふたーつ!
――みーつ!
「……やれぇええええええッッ!!! 」
『おおおおぉおおおおぉッッ!!! 』
余の号令と共に、身体の芯を震わすような雄叫びが辺り一帯に響き渡る。
――刹那、凄まじい衝撃が襲いかかった。
『〜〜っ!! 』
歯を食いしばって衝撃を堪える。
……が、しかし、それは余の想定を遥かに超えるモノであった。数秒待たずに訪れる握力の限界。嵐のように全身に打ち付ける水飛沫。水面へと突き刺した艪は、今にも折れてしまいそうな程に軋み、そこから伝わってくる予想以上の泥の重さに兵士達は苦悶の表情を浮かべる。
だが、それでも彼らは力を緩めたりはしない。
『――ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッ!! 』
気合一閃。二百十名全ての息が完璧に合わさり、一気に体重を片寄った舟は転覆するギリギリまで水面へと傾いていく。
そんな、一歩間違えたらそのまま川に投げ出されかねない危険な賭けを、誰もが一切躊躇せずに選んだ。信じているからだ。己が選んだ主君は、このようなところで死ぬ男ではないと。
(ならば、その期待に応えねば男が廃る! )
「このまま突き進む! ここが、最後の正念場と心せよ!! 」
『おぉッッ!! 』
段々と近付いていく目的地。百を超える人影。移りゆく景色。衝撃。後方からの圧が高まる。舟が、今にもバラバラに分解してしまいそうだ。
だが、それでも……それでも――
――突き進むのだ。奇跡を信じて。
『行っけぇぇぇえええええええええッッ!! 』
ギョリギョリギョリッと、舟の底から凄まじい摩擦音が衝撃と共に伝わってくる。何処からか、罅の入る不穏な音さえも聞こえた。
一瞬の出来事が、何倍にも引き伸ばされていく。世界から色が、音が、人が失われていく中、余は確かに感じ取った。
人の想いの力を。
***
水飛沫が頬にかかる。今も尚、隣りでは荒れ狂った長良川が猛威を奮っている。
だが、もう舟が波に揺られることはない。
「――欠員無し。怪我人十数名。しかし、重傷者は一人もおりません。……長良川、攻略にございますっ!! 」
『――っ!! う、うおおおおおぉおっ!!! 』
昌幸の報告に、歓喜の声が爆発する。
誰も失わずに目的地へ辿り着いたのだ。誰もが、無謀だと青ざめる川下りによって。
この偉業は、余や昌幸一人の功績ではない。この場にいる二百十名全ての力だ。誰一人欠けても成し得なかった。その事実に、誰もが涙を流して喜びを分かち合っていた。
「…………ふぅ」
「……っ!? 上様、気を確かに! 」
「あぁ、すまぬ」
力が抜ける。慌てて肩を支えてくれた昌幸に、そのまま体を預けた。
瞼を閉じる。荒れ狂う長良川の様子に、余は何度も死を覚悟した。目的地寸前で立て続けに襲った苦難に、顔には出さなかったが首筋に添えられた死神の鎌を感じていた。
それ故に、今、ようやく生きていることを実感する。やりきったのだと、自然と胸の内に達成感が溢れていった。
――だが、未だ終わっていない。寧ろ、ここからが本番なのだ。
「……行くか」
瞳を開く。
見据える先は、こちらへ怯えるような視線を向けてくる者達。彼らの力が、この戦の勝敗を左右する。
そう、確信していた。




