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54話

 天正十二年五月二十一日 岐阜 織田信長



 翌日、目が覚めると既に外は明るくなっていた。忙しなく動き回る足音。ガチャガチャと、金属同士が擦れる音が耳に入る。皆が、決戦に備えて汗を流しているのが見なくても分かった。

 そう、決戦だ。もう、後戻りは出来ん。生きるか、死ぬか。これから向かう場所は、そういう所なのだ。

「……長い一日になるな」

 そんな呟きは、誰に聞かれることもなく宙へと溶けていった。



 ***



 その後、簡単に身支度を済ませると、準備の進行具合を確かめる為に屋敷中を回った。昨夜は、戦場に向かう者達は体力を回復させる為に早々に床に就き、準備の殆どを世話役達に任せてしまったからな。一応、兵を率いる者として、不備がないか確認せねばならんからな。

 ……まぁ、いらぬ心配ではあったが。

「上様、こちらが二百十人分の兵糧になります。舟での移動ということですので、一人前用に小分けして用意しております。ご確認下さいませ」

「湊には、既に七艘の舟を準備しております。それぞれ、三十人ずつに分ければ重量的に問題は無いと大工の者からお墨付きを得ております」

「こちらは、槍や刀といった武具になります。各々、どれか一つずつになってしまいますが、中央に敷き詰めるとこれが限界でございました」

  「……であるか」

 余は、苦笑しながら応える。完璧だ。何一つ言うこともない程に、完璧に支度が整われていた。外からも、鍛錬に励む声が数多く聞こえてくるあたり、余程昨夜帰蝶が魅せた覚悟に感化されたらしい。その、目の下に出来た色濃い隈が証拠だ。

「ありがとう、お前達。未だ、出発まで時間がある。それまで、少し休むが良い」

『ははっ……』

 少しフラつきながら去っていく三人を尻目に、余は自室へと足を運ぶ。そろそろ出発の時間だ。戦支度をせねばならぬからな。



 だが、その前に……。

「……」

 立ち止まり、後ろを振り返る。視線の先には、次第に遠くなっていくフラフラとした三つの影。積まれた荷物を運ぶ者達。その光景が、何故だかとても尊く感じた。

 この感情は、弱さだと切り捨てるべきなのだろう。今までも、そうやって余計なことを考えないようにしてきた。果てなき野望を叶える為に。

 ……だが、何故か今日だけは絶対に忘れぬように、彼らの献身を目に焼き付けた。それが、土壇場で力を振り絞ることが出来る鍵だと思ったからだ。

 右手を握りしめる。

 これが、吉と出るか凶と出るかは分からぬ。

 だが、きっと悪いようにはならんだろう。そんな、根拠のないことを思い描きながら、余は、再び自室へと足を踏み出した。



 ***



 道中、すれ違う者達に声をかけながら歩いていると、いつの間にか自室の前に辿り着いていた。中から複数人の気配を感じたが、特に気にすることもなく襖を開ける。

「今、戻った」

『おかえりなさいませ、上様。既に、具足の準備は整っております。どうぞ、こちらへおかけになって下さいませ』

「うむ」

 頷き、部屋の中央に置かれていた椅子へ腰掛けると、侍女達は慣れた手付きで具足を着けていった。その様子を、帰蝶は静かに見守っていた。

 暫く経つと、侍女達は無言で三歩後ろへ退く。立ち上がり、身体の節々の動きを確認してみれば、カチリと軽い金属音が鳴るも、特に動きが阻害される感覚は無い。

 急所を守るだけの最低限の装備ではあるが、どんなに堅強な装備で身を固めても、死ぬ時はあっさりと死ぬのだ。

 もし、これから向かう戦場で流れ矢に打たれて死ぬようなことになったのであれば、所詮、余はその程度の男だっただけのこと。

 であれば、この程度の軽装でも特に問題はないだろうて。

「……うむ、こんなものか。……問題ない、これで良かろう」

『……』

 侍女達の表情が緩む。どうやら、昨夜からずっと気を張っていたらしい。無理は禁物とは言うが、これが彼女達なりの戦いなのだと思えば可愛く思える。

 後は、信じて待つのみ。

 そんな心境なのだろう。



 そんな中、一人、先程から変わらず無言で佇む者がいた。……帰蝶だ。

「……お前達、もう退って良いぞ。そして、人払いを。暫し、帰蝶と二人にして貰いたい」

「――っ」

『御意に』

 スっと、頭を下げて退出する侍女達。僅かに眉を動かす帰蝶。段々と周囲から音が消えていく中、帰蝶は太刀を手に取って余の前に歩み寄った。

 後は、太刀を腰に差せば準備は完了だ。

「上様、こちら……を――」

 しかし、余は太刀を受け取らなかった。太刀が、僅かに震えていたからだ。胸の内に潜めていた不安が溢れ出すように。

「……案ずるな。誰も聞いておらん」

「……っ」

 途端、瞳から溢れた涙が鞘を濡らす。すると、自分が泣いていることに気付いたのか、帰蝶は慌てて顔を伏せた。

「も、申し訳ございません、上様。これは――」

「良い、分かっておる。長良川は、帰蝶にとって忘れぬことの出来ない場所だ。思うことの一つや二つあるだろう」

「――っ、……ぅぅ……っ」

 帰蝶の言葉を遮り、その小さな身体を抱き寄せる。肩を震わせながら必死に涙を堪えるその姿は、酷く痛ましく思えた。



 長良川は、帰蝶が愛する大切な家族を失った地だ。それも、実の兄の手によって。家族同士が殺し合ったのだ。

 そんな場所で、再び戦いが起きようとしている。余と三法師に茶筅、同じ一族同士による殺し合いだ。どちらが勝とうとも、必ず誰かが死ぬことになる。そうでなければ、最早この戦いを終わらせることは不可能だからな。

 そんなあの戦いにあまりにも酷似した背景が、帰蝶に思い出したくもない凄惨な父の死に際を甦らせるのだろう。こうして、夫の出陣の直前に涙を零してしまう程に。

 そんな経験をしていれば、不安に駆られてしまうのも無理はない。

 寧ろ、余は帰蝶を誇らしく思えた。こんなにも心が弱っている中で、帰蝶はそれを周囲に悟らせぬように、毅然とした態度で皆を鼓舞した。最も力を持たぬ弱者が、あの場に集う誰よりも勇敢だったのだ。



 そんな帰蝶を誰が笑うものか。皆を不安にさせぬようにと、今の今までたった一人で耐え続けてきた人を誰が笑うものか。

 帰蝶の肩に手を置き、身体から離す。帰蝶は、俯いたまま顔を上げない。縋るように太刀を胸元に抱き寄せている。

 肩にかけた指先に力を込める。

「……戦に絶対はない。元より兵力差のある戦いだ。荒れ狂う長良川を攻略出来る保証もない。常識的に考えれば、生きて帰らぬ方が確率は高いだろう」

「……っ」

「だが、そんな常識など知ったことではない! 兵力差がどうした! 危険極まりない川下りがどうした! 例え、家康が余の首を討ち取る策を用意していようとも! 余は、そんなもの全てぶち壊してみせる! 如何なる苦難も乗り越えてみせる! 今までも、これからもだ!! 」

「――っ、さぶ……ろう? 」

 帰蝶が顔を上げる。潤んだ瞳に余の顔が映り込んだ。何一つとして根拠などないというのに、己の勝利を信じて疑わない、そんな自信に満ち溢れた男の笑顔が。

 あぁ、そうだ。

 笑え。余は、常に勝利してきた。運命を、己の思うがままに切り開いてきた。時代を切り開いてきた。偲び草に語られるような、輝かしい生き様を貫いてきたではないか!

「何を恐れることがある? 何を憂う必要がある? 案ずるな、帰蝶。絶対に、余はこの戦いに勝利して帰ってくる。三法師も、新五郎も、皆、誰も欠けることもなく、無事に帰ってきてみせよう! 」

「出来る……のですか? そんな、夢物語のような結末を……」

「大丈夫だ!! 何故なら、余は――」



 ――余は、この時代を象徴する英雄だっ!!!



「――っ!! 」

 胸の内に熱い炎が灯る。誰にも止められない、誰も抑えることが出来ない灼熱の炎が。

「だから、帰蝶の英雄を信じて欲しい。英雄は、こんなところでは死なん! 全てを救い、全て守り抜く! 結末は、いつだって大団円で終わるものだ! 昔、帰蝶が好きだった物語の英雄とは、そういうものだっただろう? 」

「……ぁ」

 零れる吐息。絡み合う視線。帰蝶は、困ったような、呆れたような……されど、どこか嬉しそうに笑った。

「……ふふっ、本当に三郎は変わらぬのぅ? 根拠もないのに自信満々で、無鉄砲なようで計算高くて、冷酷なようで情に厚く、敵に畏れを抱かれるも庇護下の者達には愛される。三郎と出会ってからの生活は、伝え聞く古の英雄のような鮮烈な物語で埋め尽くされておる。今も、この胸の内に残っておる。……まぁ、そうさなぁ。振り回されるこちらは、気苦労も多かったがのぅ? 」

「ふっ、嫌だったか? 」

「まさか、心の踊る日々じゃったとも」

 揺らいでいた瞳が定まる。その姿に、もう大丈夫だと確信して肩から手を離せば、帰蝶は覚悟を決めたように太刀を余の前に差し出した。

「全てを救い、全てを守り抜いてくれ。信じておるぞ……私の英雄さま? 」

「あぁ、任せよ」

 帰蝶の心には、もう何一つとして不安は残っていなかった。

 太刀を受け取り、腰に差す。

家族(三法師)の為に戦い、家族(帰蝶)の為に帰ってこよう】

 そう、決意した。



 ***



 その後、戦支度を終えた二百の軍勢は、いよいよ湊に向けて屋敷を出発した。

 その際、使用人達が勝利を掴めるようにと握り飯を用意してくれた。その中に、一際大きく不格好な握り飯が二つ置かれていた。

 ……誰が作ったのかは、言うまでもない。塩辛く、硬い握り飯だったが、今まで食べてきたどの握り飯よりも美味かった。心にきた。

 それは、他の者達とて例外ではない。誰もが、彼らの献身に応えようと気を引き締め直していた。必ず、また帰ってこよう……と。



 それから、暫く山道を歩いて近隣の村に立ち寄り、舟の整備をしてくれていた者達と合流して湊へ向かう。

 その先に待っていたのは、濁流と化した長良川に浮かぶ七隻の舟。丈夫な縄で陸に繋がれているものの、今にも縄が千切れてしまいそうだ。

『……っ』

 そんな想像を超える光景に、兵士達は思わず息を呑んだ。潜在的な動物としての本能が叫んでいるのだ。乗れば最後、とてもではないが生きては帰れぬと。

 そんな彼らの不安を振り払うように、余と昌幸が前に出た。

「昌幸よ。余に求めるモノを言うが良い」

「はっ。この濁流では、目的地に着く前に十中八九川に投げ出されて死ぬことになりましょう。ですので、上様にはその一と二を出していただきたい」

『!? 』

 さも当然のように語る昌幸に、兵士達は唖然とした表情を向ける。あまりにも無礼すぎる。めちゃくちゃだと。

 だが、余はそんな馬鹿馬鹿しくも面白い答えに腹を抱えて笑った。昌幸は、こう言っているのだ。【織田信長ならば、この程度造作もない】と。

 ならば、その期待に応えねばならぬ!

「クックックッ……クッハハハハハハッ!! 良いだろう。やってやろうではないか!! 」

 舟の縁に足をかけて一気に乗り込む。その際、慌てて余に駆け寄る者達がいたが、皆が皆、目を見開きながら立ち止まった。

 余が乗り込んだ途端、先程までの大揺れが嘘みたいに消え去ったのだ。

 鞘から太刀を抜き、皆に魅せるように天に掲げる。

「神も御仏も当てにするな!! 目で見えぬモノに縋るな! ただ、余の背中だけを見てついて来い! お前達は、この織田信長が導くっ!! いざ、出陣っ!!! 」

『――っ!! ぅぅううおおおおぉおおおぉぉぉぉおぉおおおおぉっ!!! 』

 雄叫びが木霊する。

 我先にと舟へ飛び乗った彼らの瞳には、既に闘志のみが宿っていた。

 縄を切り飛ばし、一気に川を突き進む。その先に待つ、決戦の場を目指して――







 ***



 そして、遂に辿り着いたのだ。

 決戦の地へと。




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