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53話

 天正十二年五月二十日 岐阜 織田信長



 長良川を下って戦場へ向かう。それも、先日の大雨の影響により水嵩が増した長良川を、昌幸は漕ぎ手を雇わずに素人の兵士達だけで攻略しようとした。

 無論、昌幸とて漕ぎ手の必要性は理解しておるだろう。海戦は経験したことは無いだろうが、少しでも兵法を学んだ者ならば、彼らの存在が自らの生死に直結すると知っているからだ。

 何故、定員や積荷が限られる海戦で、わざわざ非戦闘員を舟に乗り込ませるのか。理由は、至極当然にして単純明快。素人だけでは、全く舟が進まんからだ。

 舟を動かすことは、一見簡単そうに見えるが、そう単純な話ではない。息の入れ方、合わせ方。漕ぐ姿勢に至るまで、本職がやるのとは天と地の差がある。特に、目的地と定めている中洲付近は幅が狭く流れが急になる難所であり、地元の漁師達の協力は必要不可欠と言えた。



 それ故に、この場に集う多くの者達が昌幸の提案に異議を唱えた。

 ……無理もない。ただでさえ、素人が長良川を舟で下るなど無謀もいいところ。それを、大雨によって水嵩が増し、唸るように荒れ狂ってるいる中で決行しようとするのだ。誰も、沈むと分かっている泥舟には乗りたくないだろう。

 彼らが抱く不安は、人であれば至極当然の感情だ。否定する気はない。

(……だが、このまま手をこまねいて議論を重ねていては何も進めぬのだ。時は、刻一刻と流れていく。猶予はない。選択肢も限られておる)

 配られた手札は交換出来ない。どの道を選んでも危険が付きまとう。……おそらく、どんな言葉で彼らを励ましてもその不安を完全に取り除くことは不可能だろう。賭けの対価は、等しく己が命なのだから。



 ――だが、危険のない戦いなどあるはずがない。



(……ふっ、何を馬鹿なことを考えていたのか。初めから、そうだったではないか)

 苦笑する。あぁ、そうだ。いつも、どのような戦いであっても万全な保証など無かった。確実に勝てる保証など無かった。常に、誰が死んでいた。

 もし、そこに盾があったら。もし、そこにもう一人兵がいたら。彼らを失うことはなかった。

 そんなありえたかもしれない未来を、何度も夢に見ては己の不甲斐なさに打ちのめされた。余に尽くしてきてくれた忠臣を失う度に、何度やり直せたらと願ったことか……っ。

 ……されど、余は歩み続けた。立ち止まることを良しとはしなかったのだ。ないものねだりしている暇はない。そんな余計なことを考えている暇があるのであれば、手持ちにある手札の捌き方を常に模索し続けねばならぬ……と。

 もう、二度と後悔しない為に。何かを得ようと、護ろうとする度に、余は己が命を対価に先へと推し進めてきた。家臣達も、当然のように後に続く。皆、分かっておるのだ。この乱世を生きていくには、大切なモノを護りたいと願うのであれば、己の全てを懸ける覚悟がいる。どのような窮地であっても、決して臆することのない覚悟が。

 その一歩を踏み出す勇気は、誰もが手札の中に持ち合わせている。窮地を乗り越える鍵は、最初から己が心の中にあるのだ。



 視線を、声を荒らげながら昌幸へ詰め寄る者達へ向ける。彼らとて、その事実に気付いている。分かっている。だが、死への恐怖がその朧気な希望を覆い隠しているだけ。

(であれば、余が再び思い出させてやろう。奮い立たせよう。そなたらもまた、勇猛な一人の武人であることを思い出させてやろう! )



 ――恐怖とは、己の手で振り払わねば二度と己の足で立ち上がれぬのだから!



「喝ッッッッ!!! 」

『――っ!? 』

 雷鳴の如き一喝が空間を軋ませる。痺れるような濃密な覇気が一瞬にして場を支配し、彼らから死への恐怖を薄れさせる。

「無理無茶無謀、大いに結構! 忘れたか! 我らは、既に敵の罠に嵌められて窮地に追い込まれておるのだ! それを覆さんとするのであれば、自ら死地に飛び込まずして何かを得られるものかっ!! 」

『……っ』

 皆、一様に顔を伏せた。死への恐怖が薄れたことで、今まで目を逸らし続けてきた現実を思い出させられたからだ。自分達は、ただ死ぬのが怖くて昌幸の策に反論しただけだと。

「確かに、真田昌幸が述べた策は無謀だと誰もが思うだろう。全員、無事に辿り着ける保証もない。この中の誰かが、川に放り出されて死ぬ可能性の方が余程高いだろう。……だが、それでも人には退けぬ時がある。危険を承知で、一歩足を踏み出す勇気を持たねばならぬ時がある。……敵から、己の大切なモノを護らねばならぬ時だ」

「――っ!! 」

 一同、ハッと顔を上げる。

 あぁ、そうだ。もし、この戦いに負けたらこの国は徳川家によって蹂躙される。尾張も、美濃も、近江も、一つの例外もなく蹂躙される。慈悲などありはしない。それが、勝者の特権だからだ。

 そして、その中には彼らの家族も含まれる。

 ……酷い話だ。情に訴えて戦わせようとしているのだからな。大切なモノを護りたいなら、自らの手で勝ち取ってみせよと。

 そんな余に追従するように、動向を見守っていた昌幸も口を開く。

「……儂とて、この策が尋常ならざる奇策だと自覚しておる。もし、別の戦でこれと似たような策を提示したとしても、誰もが鼻で笑って一蹴するだろう」

「父上……」

 昌幸を案ずるような、か細い声音。されど、昌幸は瞳に宿る焔は一切衰えず光り続けていた。

「――故に! 誰もが否定するが故に、徳川家康の裏をかくことが出来るのだ! 一度死んだ駒だからこそ、奴の謀略の手が届かぬ盤外から一手を放つことが出来る。その首を切り裂く必至の寄せが! 今だからこそ、一見悪手と思われる一手が好手へと化けるのだ! ……その為にも、貴殿達の力を貸して欲しい。一人でも多くの力が必要なのだ。……頼む」

 深々と下げられた頭。武士が、一国の王に等しい立場を持つ者が、ただの使用人と剣士達に対して頭を下げた。力を貸して欲しいと。

 その意味は大きい。昌幸の頭は、そんな軽いモノではない。気安く頭を垂れる男だと思われれば、昌幸が築き上げてきた名声は一夜にして崩れ去るだろう。武士の名声とは、それ即ち領土と一族の繁栄と平和に直結するのだから。

 そんな危険な賭けに打って出ているとは思えぬ程に、頭を下げる昌幸の姿は凛々しくも、悠然とした態度を保っていた。昌幸の覚悟が痛い程に伝わってきた。

 ――しかし。

『…………』

 彼らからの返答は無かった。



(駄目……か)

 落胆はすまい。

 余は、それを責めるつもりはない。彼らの多くが、戦を経験したことがない世話役と一刀斎門下の者達。そもそも、戦場で命を取り合う心構えなどしていないのだ。無謀極まりない策を提示し、有無を言わさず務めを果たせと言われても頷きはしないだろう。

 それ故に、情に訴え、昌幸自ら策の狙いを説明したのだが……それでも、彼らの心を動かすには後一歩足らなかった。

 武士ならば、代々受け継がれてきた領土に愛する家族、一族の存亡、そして名誉を敵に汚されると言えば、一も二もなく頷いてくれただろう。

 たが、彼らは武士ではない。物事の認識の違いを思い知らされた。これ以上は、彼らと同じ戦を生業にしていない者でなければ動かせぬだろうて。

 瞳を閉じる。

(やむを得ん。此度は、昌幸が連れてきた百五十の兵士達だけで戦おう。彼らには留守を任せ、帰蝶の護衛に着かせることにする)

「……では――」

 説得を諦め、彼らに指示を出そうとした刹那、誰もが予想だにしない人物が動いた。

「上様、お待ちを。一つ、真田殿に聞きたいことがございます」

 涼やかな声音が響き渡る。今まで口を閉ざしていた者の声に、皆の視線が一身に集まる。

 突如、余の言葉を遮るように声を上げた人物。

 それは、帰蝶であった。



 余は、戸惑いながらも帰蝶の申し出を黙認すると、帰蝶は一度目礼をした後に昌幸へ視線を移した。昌幸も、それに応じるように姿勢を正す。

「此度の戦に勝利する為には、一人でも多くの人手が必要。……そうですね? 」

「はっ、左様にございます」

「であれば、伊藤一刀斎門下六十名も連れて行きなさい。私に護衛など不要。この屋敷に残るのは、戦えぬ使用人だけでよろしい」

『――なっ!? 』

 突然のことに激しい動揺が一同を襲う。その中でも、特に狼狽えていたのは新五郎が遣わせた使者の男であった。

「お、お待ちを、奥方様! 敵の軍勢が迫る中、こんな堀の一つも無い防御の薄い場所に、護衛も無しで留まるなど危険過ぎます! 近隣に住まう民とて、いつ暴徒と化すかも分からぬのですぞ! ここは、逃げの一手が最上。奥方様とて、先程了承なされたではありませんか!? 」

「先程とは状況が異なります。夫が戦場で戦っている時に、妻だけが安全な場所へ逃げるなど言語道断。夫の勝利を信じて待つ。ただ、それだけです」

「……っ」

 帰蝶の覚悟を肌で感じた男は、泣きそうな顔になりながらも、帰蝶の想いを尊重するようにグッと堪えた。

 その様子に誰もが息を呑む中、帰蝶は上座へと向き直り懐から短刀を取り出す。

 それは、余の下へ嫁ぐ際に、道三から直々に渡され、今の今までずっと大切に手入れをしてきた思い出の品。それを、ギュッと力強く胸元へ抱き寄せると、帰蝶は余の目を見ながらハッキリと告げた。

「これで、真田殿が連れてきた兵士達と合わせて二百にはなりましょう。多少は、上様が取れる選択肢が増えるかと」

「しかし、それでは帰蝶の……」

「ご心配なく。もし、私の名誉が汚される事態に陥れば、すかさずこの短刀で首を切り裂いて自害致します故。上様は、己の戦いに集中して下さいませ」

『――っ!!? 』

「で、ですが、奥方様ぁ!? 」

「お黙りなさい! 今後の日ノ本の命運を分ける戦に勝とうとするのであれば、女の心配をする余地などあるものか!! 」

『――っ』

 雷鳴のような鋭い叱責が飛び、今まで縮こまっていた者達の心を貫く。

「この身は、自分自身の手で守る! 上様の勝利を信じ、それまで帰る場所を守り通す! それが、私の戦いです! 誰もが、戦っているのです! 勝利を、この手に収める為に! 誰もが、逃げずに戦っている! 戦う場所は違えど、その心は勝ちたいというただ一つの信念で繋がっているのです! 私達は、決して一人ではない!! 」



 ――貴方達は、どうするのですかっ!!!



『――っ!! 』

 魂を震わすような声音。

 ……熱い。熱い! 熱いっ!!

 その想いが、死の恐怖に怯えていた心を動かした。

「おれ……は、戦うぞ」

「あぁ、そうだ」

「奥方様が、ここまで言って下さったんだ! ここで立たなきゃ男じゃねぇ!! 」

「……我々使用人も、出来る手伝いをしよう。飯や武具を準備。そして、明日使う舟を湊の倉庫から取り出さねばならぬな」

「えぇ、やることがいっぱいですね」

 一人、また一人と立ち上がる。何の力も持たない、この中で誰よりも弱く、されど誰よりも勇敢な女性に続くように。

「皆、織田家の勝利の為に尽力せよ! 皆で、勝利を掴むのだ!! 」

『ぉぉおおおおおおおおっ!!! 』

 力強い掛け声に、皆の想いが重なり合う。誰もが、勝利を掴む為に動き出した。真の意味で、皆の意思は統一されたのだ。これならば、間違いなく勝てるだろうと確信する程に。



 しかし、余は見逃さなかった。その最大の功労者の右手が、僅かに震えていることを。




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