51話
陽は、既に落ちている。これより来るは闇の世界。分厚い雲で覆われた空は、一筋の月明かりすら通さない。
そんな暗闇を切り裂くように、細くも暖かな一筋の光が突如として大地を照らした。
織田家の未来を示すかのように――
***
天正十二年五月二十日 岐阜 織田信長
慌ただしい足音と共に、その一報は突如として舞い込んだ。
「失礼致しますっ! たった今、上様へお目通りを願う者達が訪れました! その者の名は、真田喜兵衛昌幸並びに蘆名源三郎信幸。百五十の手勢を率いて馳せ参じたとのこと! ……上様、援軍にございますっ!!! 」
「――っ!! 」
目を見開きながら立ち上がる。喉から手が出る程に欲していた援軍が訪れた。そんな報告に、その場にいる多くの者達が顔を強ばらせる。
罠ではないのか。家康が放った刺客では? そんな疑念が脳裏を駆けるも、目の前にいる青年の瞳には嘘の色は全く見えない。寧ろ、眩いばかりの希望に満ち溢れていた。
……おそらく、青年は自身の目で真田を見て信用に値すると思ったのだろう。対して、疑念を抱いている者達は全て憶測に過ぎない。
(で、あれば……こやつの目を信じるべきだな)
「良い。通せ」
『――っ!? 』
「ははっ! 承知致しました! 」
「うむ」
退室する青年を見送ると、一度深く息を吐きながら腰を下ろす。沸き立つ熱を放出するように。
あの時、一瞬だが場がザワついた。皆、青年の報告に懐疑的であったのだ。
無理もない。この誰が敵か味方かも分からぬ状況で、百五十の手勢を率いて現れた存在を最初から信用することなど出来ん。敵が放った刺客だと言われた方が、未だすんなりと納得出来るだろう。
事実、それとなく姿勢を変えている者もいる。おそらく、いざという時に動く為に足指を立てているのだろう。身を呈して守る為に。そんな彼らにしてみれば、突然の訪問者を警戒するのは至極当然のことであった。
……だが、余は、不思議とそれは無用な心配だと思っていた。直感的にその可能性を捨てた。
――いや、勿論理性は警戒すべきだと告げている。事実、つい先程青年の報告を疑ったからな。
しかし、その意味合いが他の者達とは少しばかり違う。彼らは、この状況で兵士を率いて現れた存在に警戒している。だが、余は違う。この追い込まれた状況で、最も欲する人材が現れたこの都合の良すぎる展開に疑念を抱いていた。人生、そう甘くはないからな。
されど、あの男ならば……真田昌幸ならば、この局面をひっくり返す為に独自で動いているのではないか。余が、再び立ち上がることを見越して。
そんな期待を抱いてしまうのだ。
(……熱い)
全身が泡立つ。血が沸騰する。獰猛な獅子のように歯を剥き出す。ミシリミシリと、扇が嫌な音を立てながらへし折れそうになった。
(知っている。知っているぞ、お前のことは。真田昌幸。信玄が遺した最高傑作よ!! )
直接、相対したのは二年前の武田征伐以来か。
織田家・徳川家・北条家の三方から攻められ、頼りの上杉家からも見放された武田からは多くの離反者が出た。信玄の下、確固たる絆で結ばれていた家臣団は、扇の要を失ったことで呆気なく分裂してしまったのだ。
されど、それでも武田家を見捨てぬ骨のある漢達がいた。例え、負け戦になると分かっていても、その命が尽きる瞬間まで忠義を貫く武士がいた。真田昌幸は、そんな愛すべき愚か者達の一人。余は、その真っ直ぐな忠義を天晴れに思い、武田信勝に武田家を相続させ、彼を支えたいと願う者はそのまま武田家に残した。
だが、真田昌幸は違う。わざわざ、次男と共に人質としてでも安土へ連れ帰った。
欲しかったからだ、その才能を。
知っていたからだ、その才覚を。
真田昌幸は、山本勘助の、長坂光堅の跡目となる。……いや、その二人をも上回る希代の軍師の器だと確信していたからだ。あの男こそが、日ノ本一の軍師だと。
故に、故に、故にっ!! こんなにも昂るのだ! お前と共に戦う日が来たのだと!!
――ビキッ……!
扇がへし折れ、持ち手が無残にも砕け散る。場に漂う空気が一変させる。皆が抱いていた突然の訪問者に対する疑念を、上から塗り潰すように全力の覇気を放った。
『――っ』
空間が軋む音。平伏している者達全てが、息苦しそうに喘ぐ。最早、そこに不安や不満はない。無理やり取り払ったからだ。
その様子を隣りで見ていた帰蝶が、これみよがしにジト目を向けてきた。それを頬を掻きながら逸らすと、帰蝶は肩を落としながら深い溜め息を吐く。全く、やり過ぎだと言わんばかりに。
(……クククッ。すまんな、許せ。悪気は無かったのだ。だが、この方が手っ取り早く済んで合理的だと思ってな。奴に、余の無事を伝えるのに)
……そして――
――これが、お前達を歓迎する証だと。
刹那、それに応えるように襖の向こうから覇気が放たれる。それも、余だけに向けて。
「……ふっ」
思わず頬が緩む。あぁ、何たる練度か。やはり、余の目に狂いはなかった。
「上様、失礼致します。真田喜兵衛昌幸様並びに蘆名源三郎信幸様をお連れしました! 」
「良い、通せ」
「ははっ! 」
ゆっくりと襖が開かれる。先ず現れたのは、三十後半と思しき男。日々鍛えられた肉体。深い知性を感じさせる穏やかな瞳。全身から満ち溢れる覇気は自信の表れか。一目で逸材と分かるその立ち振る舞いは、まさに余が惚れ込んだ真田昌幸の姿そのもの。
その後ろを歩くのは、十代後半の青年。こちらは、長男の信幸だろう。何故、蘆名を名乗っているのかは未だ聞いておらぬが……まぁ、此度の戦には関係ないので置いておこう。
そんな信幸は、父 昌幸と比べれば肉体も精神もまだまだ未熟ではあるが、その瞳に秘めた輝きは一級品のソレと遜色ない。実に、将来有望な青年だ。
二人は、真っ直ぐに胸を張って歩く。好奇の視線に晒されながらも、その歩みが乱れることは一切ない。既に、二人の精神は極まっていた。
(あぁ、やはり……か)
一人、心の中で納得する。
二人を一目見た瞬間、何よりもその仕上がりに驚嘆した。昌幸も信幸も、己を形成する核となる心・技・体、その全てが最高潮に達していたのだ。この非常時にも関わらず……だ。
昌幸は、堂々とした立ち振る舞いを見せながら余の前で立ち止まると、腰を下ろして深く平伏する。信幸も、それに続いた。
「――お久しゅうございます、上様。真田喜兵衛昌幸。織田家の一大事と聞きつけ、愚息と共に馳せ参じた次第。どうぞ、上様が操る駒として、この命、存分にお使いくださいませ」
「……」
信幸は喋らない。全て、父の判断に委ねているのだろう。
(……ならば、こちらから切り出すとしよう)
余は、まるで答え合わせをするかのように、高揚感を胸に秘めながら昌幸へ語りかけた。
「……あぁ、久しいな。息災であったか」
「ははっ。三法師様のお陰で、胸が踊るような戦を経験させていただきました。……いやはや、あれは実に良い戦でした」
「そうか。ならば、良い。お前を武田家から引き抜いた甲斐があった。……して、いつから余の記憶が戻っていると気付いたのだ? 」
「!? 」
その言葉に、信幸の鉄仮面が剥がれる。どうやら、気付いていなかったらしい。
「……ふっ、これはご冗談を。あれ程の覇気を放てる時点で、記憶は完全に戻っているでしょうに」
「……ククッ。である、な」
互いに笑みが零れた。
もう、前置きは構わぬだろう。
「援軍、感謝する。……だが、こちらの戦力を合わせても二百程度だろう。敵は、一万五千程の大軍。兵力差では話にならぬ……何か、策はあるのか? 」
「えぇ、既に手は打っております」
『!? 』
一同、目を見開く。
(早い。……だが、こういった場合は、得てして縛りがあるものだ。時間や気候などな)
「ほう、流石だな。……して、条件は」
「はっ。大前提として、三法師様が軍勢を率いて出陣されなければなりません。敵の大義名分が三法師様であられる以上、あの御方が姿を現すだけで戦意を削ぐことが出来ましょう。……そして、何よりも上様の記憶がお戻りになられていること。上様の存在は、一気に場の流れを左右する起爆剤になりましょう。もし、記憶を失ったままでしたら、我々の目的地は越後国になっていたでしょうな」
「――っ」
昌幸の言葉に、使者の男が動揺する。情報が漏れていたと暗に示されたな。
「……うむ。道理だな」
「そして、次に――失礼」
『――っ!? 』
昌幸が断りを入れた――刹那、音も無く黒い影が昌幸の隣りに現れる。……驚いたな。これ程までに存在が希薄な者は初めて見た。
昌幸は、一通り文を読み終わると一度深く頷いてから懐へ入れた。先程の者は、いつの間にかいなくなっておった。まるで、最初からいなかったかのように。
「……どうやら、最後の条件が整ったようで」
「……して、それは? 」
「最後の条件は、明日まで岐阜城が落とされぬこと。この文には、稲葉殿率いる三百の兵士達の奮闘により、見事敵軍の侵攻を食い止めた……とありまする。どうやら、わざと城下町を燃やして日没までの時間を稼いだようですな。岐阜城には、未だ二千以上をの兵士がいるとも」
「……であるか」
その三百の兵士達がどうなったかなど、言うまでもないか。……稲葉め。よもや、万の軍勢を相手にたった三百の兵士だけで相対するとはな。全く、大した男よ……なぁ。
「……誠に、稲葉殿には救われました。状況は、儂が想定した中でも最良。二千の兵力は、実に大きいですな。十分、戦力として策に組み込めましょう。家康にとって、最悪の展開でしょうな。背後を脅かされる可能性がある以上、岐阜城を落とさぬ限り西へは進めませぬ。今日は、もう城攻めはしないでしょう。奴は、慎重な男ですから」
「うむ。だろうな」
「これにより、一日時間を稼ぐことが出来ました。……この一日は、非常に大きい……っ! 」
右腕が小刻みに震える。それが、歓喜から来るものだと直ぐに察せた。
「……では」
「えぇ、これで全ての条件が整いました。この好機、逃す訳にはいきませぬぞ! さぁさぁ、この絶望的な状況をひっくり返しましょうか、上様っ!! 」
――我に策あり。
そう告げた昌幸の瞳は、勝利を確信するように力強く輝いていた。