50話
天正十二年五月二十日 岐阜 織田信長
暫く時が経ち、ようやく帰蝶の涙が収まってきた頃、見計らったように工房の扉が軽く叩かれた。ビクリと、帰蝶の肩が震える。その不安を取り除けるように、帰蝶の頭を胸元へ引き寄せて、扉へと視線を向けた。
「誰か! 」
「はっ、トメにございます。先程、大きな物音が聞こえました故、上様と奥方様の安否を確認しに参りました」
「!? 」
その声に、帰蝶は慌てて裾で目元を拭う。
(……トメ。どこかで聞いた名だ。声の感じは高齢の女だな。……帰蝶の様子から察するに、おそらく侍女の一人だろう)
「良い。入れ! 」
「……ははっ、失礼致します」
入室を許可すると、一人の女が顔を伏せながら扉を開けた。真っ白な頭。シワだらけの手。七十歳程の老婆の姿を見た瞬間、記憶の中の人物と一致した。
彼女は、帰蝶が美濃から嫁いで来る前から傍に仕えている腹心中の腹心。時に母のように、時に姉のように、帰蝶をずっと支えてきた者。昔、帰蝶が楽しそうにおトメとの思い出を語っていた。
(あぁ、そうか。お主も此処に来ていたのだな)
思わず、頬を緩ます。当然と言えば当然かもしれん。ただ、その変わらぬ忠義の在り方が、非常に尊く感じられた。
「……トメか。久しいな」
「――っ!? 」
勢いよく顔を上げる。信じられぬ者を見るように、その瞳は大きく見開いていた。
「ま、まさか……記憶が、お戻りに? 」
「あぁ、全て思い出した。帰蝶が、思い出させてくれたのだ」
「――っ、……ぅぅ……つぅ……よくぞ、よくぞお戻りに……っ! ……ぅ、うぇ……様……っ」
はらりはらりと、涙が零れ落ちていく。何とか止めようと口元を抑えるも、その意思に反するように止め処なく涙が溢れていく。
そんなトメの声に導かれるように、三人の男達が工房へ入っていく。
「上様、奥方様! ご無礼致……す? 」
おそらく、護衛役だったのであろう男達は、木刀を腰に差したまま固まった。
泣き崩れる老婆に、目元を隠す女と、もたれかかる女を受け止めながら胡座を組む男。混沌とした状況に、思わず思考が真っ白になってしまったのだろう。余は、三人の男達へ語りかけるように口を開いた。
「大事ない。二人とも、少し感情的になってしまっただけだ。三人共、ご苦労であった」
『……は、ははっ! 』
三人共、余の言葉に戸惑いながらも頷く。何とか理解しようと、半ば無理やり現実を飲み込んでいるかのようだった。
余は、そんな彼らの様子に苦笑しながらも、続く言葉を告げた。
「そして、皆を広間へ集めて欲しい」
「はっ、……広間でございますか? 」
「あぁ、そうだ。……記憶が戻ったのだ」
『――っ!!? は、ははっ!! 承知致しました! 直ぐに、皆へ知らせまする!! 』
三人は、深々と頭を下げると、一斉に立ち上がって出口へと走った。ドタバタと何かが転げるような音を聞きつつ、余は帰蝶を抱き寄せながら天を見上げて宣言する。
「待っておれ、三法師。今、助けに行くぞ」
もう、二度と取りこぼさない。
そう、魂へ刻んだ誓いの言葉を。
***
四半刻後、広間には二十名程の従者達が集まった。その多くが年老いた者達であり、従者達の中でも代表格の者達が集ったようだ。
そんな彼らは、余が襖を開けて姿を現した途端、瞳に大きな雫を浮かべて顔を伏せた。
「皆、急な招集にも関わらず、良くぞ集まってくれた。……既に耳にしている者もいると思うが、改めて余の口から告げよう。……記憶が戻った」
『――っ』
「本能寺で襲撃を受け、安土城にて意識を取り戻すまでは、少々朧気なモノになってしまっておるが、この屋敷に移ってからの二年間はしかと覚えておる。……皆の尽力無くして、余の記憶が戻ることはなかっただろう。故に、お前達全員に褒美を取らせよう。好きなだけ希望を述べるが良い」
『も、勿体なきお言葉……っ! 恐悦至極にございまする!! 』
「……されど、私共よりもどうか奥方様をお褒め下さいませ。この二年間、奥方様以上に上様を支えた者はおりませぬ! 私共は、そのお言葉だけで充分にございます! 」
「左様にございます! 家臣が主君を支えることは至極当然にございましょう。此処に居る者達全て、自ら志願してこの地に集ったのです! ただただ、上様の記憶がお戻りになるまでお支えする為に! 」
「我ら一同、上様が記憶を取り戻される日をずっと待ちわびておりました。その悲願が、今日叶ったのです! これ以上の褒美は、ございませぬ……っ」
「――っ!! 」
目を見開く。
最初、目の前の光景が信じられなかった。皆、余の復活に涙ながらに喜んでいる。【褒美もいらぬ】【自ら志願した】【褒めるなら帰蝶を】そんな言葉を述べながら。
……驚いたことに、その言葉と態度からは何一つ嘘偽りが見えなかった。これでも、人を見る目には自信がある。特に、上っ面だけの取り繕った言葉など百発百中で見抜けるだろう。
そんな余から見ても、彼らの言葉に嘘は無かった。心から祝福してくれたのだ。特に、深い親交があった訳ではないというのに。
その事実に、世界が変わったような衝撃を受けた。
(何故、彼らはこんなにも……)
瞳が揺れる。
今まで、血の繋がりと恐怖によって他者を従えてきた。それが最も効率が良く、最も裏切られないと確信していたからだ。
……情など、何の信用にもならない。実の母と弟に命を狙われ、飛躍的に成長を遂げた織田家を護ろうとしていくうちに、余の視界には敵か否か、しか映らなくなった。人の言葉を信用しなくなった。どうせ、打算込みの上っ面なモノだと思っていたからだ。
だが、どうやら間違っていたのは、余の方だったらしい。
(……今まで、余は何を見ていたのだろうな)
苦笑混じりに姿勢を正す。
全て、見えている気になっていた。過去の経験から人の本性を分かった気になって、勝手に視野を狭めていたのだ。……きっと、今まで気付かなかっただけで、彼らのように寄り添ってくれる存在もいたのだろう。
……本当に、余は愚かだった。
(もう一度……もう一度、人を信じてみよう。昔のように、心に寄り添って生きてみよう。……これが、その一歩目だ)
「ありがとう、お前達」
軽く頭を下げながら感謝を告げる。何故か、いつもより心が軽くなったような気がした――
その後、新五郎からの使者を交えて、余が記憶を失っていた二年間に起きたことを尋ねた。
先ずは、二年前のあの日に何が起きたのか。
本能寺を襲撃した者の正体。動機。その裏にいた者。……そして、誰が死んだのかを。詳細を知る帰蝶が時折補正しながら、奇妙が死に、三法師へと代替わりするまでを聞かされた。
「――その後、柴田様・丹羽様・滝川様・羽柴様の四名が大老として三法師様を支え、上様から受け継がれてきた意志を叶えんと、天下一統を推し進めておりました。……あの一件により、織田家は多くのモノを失いましたが、誰もが涙を振り払って足を進め続けました。足を止める者は、誰一人としていなかった。……何故なら、誰よりも辛いはずの幼子が、誰よりも真っ先に立ち上がって先頭を行ったのですもの。立ち止まってなどいられませぬ。……あの子は、本当に立派に育ちましたよ」
「……で、あるか――っ」
裾を握る手に力が籠る。
あまりにも遅すぎた……っ。そんな、後悔の念が津波のように押し寄せるも、今は過去を悔やむ時ではないと、自らを叱責してグッと堪える。
「……織田家は、どこまで押さえた? 」
「毛利家、長宗我部家は降伏。足利義昭は、将軍職を返上。上杉家は滅亡し、関東と奥州も順調に掌握。残すは、九州の大友家と龍造寺家のみとなり、二ヶ月程前に三七を総大将とした総勢十万を超える大軍で遠征中です」
「その隙を突かれた……か」
「……えぇ、左様にございます」
苦々しく答える帰蝶を尻目に、脳裏にそれぞれの勢力図を描く。
三法師が、僅か二年程でここまで制圧出来るとは思わなかった。あの子は、あまりにも優し過ぎるからな。……おそらく、父と祖父を同時に失ったことで、自分が何とかせねばと天下一統を推し進めたのだろう。織田家の力を考えれば、一枚岩になってさえいれば、二年は十分可能な範囲である。
(……だが、焦り過ぎたな)
後、一年……いや、二年は待っても良かった。そうすれば、家康を戦場まで引き摺りだせた。背後を突かれることも無かっただろう。
やはり、まだまだ未熟。実戦経験の少なさが焦りを生み、結果として隙を作ってしまった。
(その原因である余が、言うことではないがな)
三法師は、未だ十にも満たない幼子。失態を責めてはならぬだろう。ましてや、余がもっと朝廷の動向に目を光らせておけば、こうはならなかったのだから。
思考を切り替える。
「して、現在の状況は」
「はっ! 織田信雄・徳川家康連合軍は、一万三千から一万五千程の軍勢を率いて進軍を開始。目標は、安土城に居られる近江守様。周辺諸国の大名家には、このような文がばらまかれております」
「……うむ」
使者の男から文を受け取る。おそらく、新五郎が用意させていた写しだろう。そこに記されたモノを見れば、茶筅が家康にいいように言いくるめられているのが手に取るように分かった。
(あの、大馬鹿者が……っ! )
「これに対して、岐阜城城代 斎藤新五郎は徹底抗戦を表明。最後まで、織田家に忠義を貫くと評定にて家臣一同へ申し付けられました。……されど、岐阜城に居る兵士は三千。敵方との兵力差は如何ともし難く、上様と奥方様の安全が確保出来るまで時間を稼ぐのが精一杯でしょう……っ」
「……であるか」
悔しげに俯く男。確かに、その戦力差でまともにぶつかれば負けは必定であろう。権六の下へ逃げろと言うのも理解出来る。
……だが――
「安土には、どの程度の兵力があるか? 」
「……はっ、常備兵は二千程かと」
「であれば、間違いなく三法師は岐阜へ向かう。あの子は、絶対に新五郎を見捨てられぬだろう。それが、三法師の在り方だからな」
「い、いや、しかし――」
戸惑う男。だが、不思議と余は確信していた。あの子は、いざという時に逃げ出す子ではない。それが、大切な仲間の為ならば尚更だ。
それに、藤吉郎と五郎左がいて無防備に背中を晒す筈がない。おそらく、何らかの保険は用意してあるのだろう。
であれば、余に何が出来るか……。
視線をこの場に集った者達へ向ける。彼らは戦闘員ではない。その多くは、余と帰蝶の世話役。戦える者は、身辺警護を任されている伊藤一刀流門下の者達。その数は、隣りの道場に五十名はいるだろう。
(……少ない。せめて、二百は欲しいっ)
唇を噛み締める。向かうべき場所は決まった。だが、流石にこの数で戦は出来ぬ。余程上手く立ち回っても、緊急時に三法師を連れて逃げるくらいだろう。それでは、何の意味もない。
眉間に皺を寄せながら思考を張り巡らせる。何かないか。この状況で出来ることは――「失礼致しますっ!! 」
――思考の合間、一人の青年が広間へ慌ただしく入ってきた。吹き出した汗。荒い呼吸。されど、その両目には希望が映し出されていた。
「たった今、上様へお目通りを願う者達が訪れました! その者の名は、真田喜兵衛昌幸並びに蘆名源三郎信幸。百五十の手勢を率いて馳せ参じたとのこと! ……援軍にございますっ!!! 」
「――っ!! 」
目を大きく見開かせながら立ち上がる。
暗闇に光明が差す。
流れを変える強い風を感じた。




