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49話

 天正十二年五月二十日 岐阜 織田信長



 全て、思い出すことが出来た。

 幼き頃の日々を、若かりし頃の日々を。……そして、十兵衛に襲撃されたあの夜の出来事も、全て思い出すことが出来た。

「う、ぅぅ……うわああああああっ!! あああああー!! うわああああああああー!! 」

「大丈夫。もう、大丈夫だ。帰蝶」

 幼子のように泣きわめく帰蝶の背を、優しくあやす様に撫でる。何度も、何度も。

 苦では無かった。それ以上に、この胸の内には帰蝶への愛に溢れていた。



 ***



 帰蝶の小さな身体を抱き締める。

 記憶が戻った今も、この地で暮らした二年間の日々を鮮明に覚えている。それ故に、断言出来るのだ。帰蝶の献身が無ければ、この失われていた記憶は戻らなかっただろう……と。

 指を動かす。肩を動かす。首を動かす。……何処も異常は見当たらない。ごく自然と、余は己の身体を自在に動かせていた。一度は、半年以上も寝たきり状態になってしまう程に弱っていたにも関わらず……だ。

 それは、本来ならば有り得ぬこと。昔、戦場で受けた傷によって、半年以上寝たきりになってしまった兵士を見たことがある。関節が石のように固まっていき、寝返りも満足に出来ない兵士の姿を。

 結局、その兵士は二度と戦場に戻って来なかった。もう、杖無しでは歩けぬ程に弱っていたのだ。それを、周りの者達は至極当然のように受け入れていた。命が助かっただけ御の字だと。



 しかし、余はそうならなかった。固まらないように、また動けるようにと。帰蝶が、毎日欠かさず関節周りや筋肉を揉みほぐしてくれたから。

 ……覚えている。額に大粒の汗を浮かべながらも、頑なに侍女の手を借りなかった帰蝶の姿を。

 京の医師に聞いたのか、それとも自分で考えたのか。効果が出るかも定かではないと言うのに、帰蝶は一言も泣き言を言わずにやり続けた。やり遂げた。自分の出来る精一杯のことを。女の身では重労働だっただろうに。

「――っ」

 その事実が、余の心臓をキツく締め付ける。

 何故、帰蝶はそこまでしてくれたのか。

 ……そんなこと、言われずとも分かる。

 帰蝶は、準備してくれていたのだ。いざという時、余が動けるように。もし、織田家に危機が訪れたならば、必ずやもう一度立ち上がってくれると信じて。

 大切な人を失う恐怖を、家族の危機に何も出来なかった無力さを、帰蝶は誰よりも分かっていたからこそ、余にそんな思いをさせたくなかったのだろう。



 ……そして、何よりも余を愛していたから。

【どんな重労働も苦ではない。侍女に任せず、自らの手で世話をしたかった。……酷い自己満足よな。それでも、私は上様のお傍を離れたくない。……あぁ、こんなにも、上様のお傍に居られるのは何十年ぶりだろうか……のう……っ】

 ……朧気に覚えている。数ヶ月前、眠る直前に帰蝶が零した言葉を。長年、胸の内に秘めていた想いを。額に触れる右手が、僅かに震えていた。声も。必死に堪えるように。

 暗闇の中の顔は、きっと涙で濡れていた。

 帰蝶は、ずっとずっと余を愛していたのだ。初めて会ったあの日から、ずっと、ずっと。

 血の絆を、余を裏切らぬ保証を求めたくせに、すぐ傍にいた誰よりも信頼出来る人に気付かなかった。

(……余は、なんと愚かだったのだろうか)

 帰蝶の背を撫でながら、今まで、それとなく帰蝶と距離を置いていたことを悔やんだ。



 最初の頃は、心から帰蝶を愛していた。政略結婚ではあったが、これからは織田家の者として生きると誓った勇ましい姿に、余は大層気に入ったのだ。だから、帰蝶を正室として迎え入れたのだ。

 しかし、それも長くは続かなかった。帰蝶との間に、子が出来なかったのだ。女としての役目を果たせぬことを、帰蝶はずっと気に病んでおった。

 ……あれほど弱った帰蝶を見たことがない。凛々しく、勇ましい姿など何処にもなかった。夜な夜な、人目を忍んで涙を流していた。

 余は、そんな帰蝶にかける言葉が見当たらず、逃げるように帰蝶の下を去った。そして、織田家の当主としての責務を免罪符に、多くの妻を娶り、子を産ませてきた。

 ……子を産めぬ苦しみを味わう最中、夫が他の女と子を作っているのを見て、帰蝶はどんな思いだっただろうか。帰蝶を正室のままにしていたのは、そんなどこまでも自分勝手な罪悪感からだった。



 その後、織田家がどんどん大きくなっていく中で、余は段々と帰蝶の下へ足を運ぶことは少なくなっていった。床にも呼ばぬ。会話も挨拶程度。たまたま顔を合わせても、何かと理由を付けてそそくさと足早に立ち去る。

 ……思い返してみれば、我ながら酷い態度だったと思う。愛想を尽かされても文句は言えぬだろう。

 ……だが、何を言えば良いのか分からぬのだ。曲がり角一つが、襖一枚が、畳一枚が、とても遠く感じていた。

 そして、ああだこうだ言い訳をしているうちに、帰蝶の下へ行く理由を完全に失ってしまった。安土へ移り住んでからは、年に数回程度しか会話をしなかったと思う。

 本当に、酷い……話だ。いくら戦で忙しかったとはいえ、顔を見に行く時間くらい何時でも取れただろうに……。

 余は、何もしなかった。……何も。……何も。



 だが、帰蝶はそれでも余を愛してくれた。

 記憶を失った男に価値なんて無いだろうに、帰蝶は嫌な顔一つせず岐阜までついて来てくれた。春も、夏も、秋も、冬も。晴れの日も、雨の日も、雪の日も、ずっと傍で支えてくれたのだ。

 それは、きっと打算からくる行為ではない。無償の愛。支えたいから、助けたいから傍に居る。愛している。それ以上の理由なんてない。

 本当に、ただそれだけなのだ。

 あんなにも酷い仕打ちをした男を、それでも帰蝶は愛し続けていた。報われるかも分からぬ献身を貫いた。

 ……いや、きっとそれこそを人は愛と呼ぶのだろう。この胸の内にある想いは、未だその境地には至っておらぬ。言われて初めて気付くようでは駄目だ。ソレは、得や利では語れぬモノ。打算目的では、決して築けぬ尊いモノ。

 余が……多くの裏切りを味わった余が、何よりも欲した、永遠の絆。

 人として、最も大切なモノを帰蝶に教えて貰った。

「もう、二度と間違えぬ」

 艶のある黒髪を撫でると、帰蝶は微かに顔を上げてこちらへ視線を向けた。金色の蝶が優しく揺れる。

 余は、その淡く澄んだ瞳に誓った。



 きっと、いつか愛していると告げる……と。




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