48話
どこか、長い夢を見ているようであった。
深い霧の中。
終わりのない、長い夢を――
***
天正十二年五月二十日 岐阜 織田信長
その言葉が、その涙が、魂を激しく揺さぶった。
「……たのむ、思い出してくれ。…………三郎っ」
「――」
声が出ない。
胸の内を、ナニかが激しく暴れ回る。抑えが効かない。まるで、今まで硬い扉に堰き止められていた記憶が溢れ出ようとしているかのように。
あの時と同じだ。あの小さな童が安土へと帰っていく時、その遠ざかっていく背中を見て、俺は無意識に涙を流してしまった。何も思い出せていなかったのに。
(きっと、心が、魂が泣いていたのだ)
それを自覚した直後、急速に視界から色が失われていった。
「……ぅ………ぁ――」
喉が震える。静寂。耳鳴り。刹那、俺と帰蝶を中心に、周囲をぐるりと囲む人影が現れる。一瞬、侍女か門下生の誰かかと思ったが、直ぐにソレが人間では無いことを悟る。
気配が感じられないのだ。生きとし生けるもの、全てに宿る生命の鼓動が。それに、帰蝶が全く気付いていない。それどころか、時が止まったかのような奇妙な感覚に陥った。
(これ……は)
鼓動が高鳴る。摩訶不思議な光景ではあったが、白い霞のようなソレが敵では無いと直感的に判断する。寧ろ、味方……否、これは織田信長という魂そのものだ。
魂が叫ぶ。
『思い出せ! 』
『今、動かねばなんとする! 』
『また、その両手から取りこぼす気か! 』
『次こそは……と、もう二度と……と、彼らの墓前で誓っただろうが! 』
『見捨てるな! 』
『足掻いて、足掻いて、足掻き続けよ! この魂に刻んだ血の誓いを果たせ! 』
【立て! 立ち上がれ! 貴様が、織田信長であるならば!!! 】
幾重にも重なる叱責。激励。鼓舞。少年の俺が、青年の俺が、大人の俺が、今、再び立ち上がらせんと手を伸ばして引き上げる。彼らの光る右手が身体に触れた瞬間、彼らの感情までもが流れ込んできた。
怒り。
そう、怒りだ。彼らは、こんなにも情けない姿をした自身の姿を許せない。織田家の危機に、家臣の危機に、何よりも家族の危機に戦うこともしないなど言語道断である……と。
そんな彼らの怒りを一身に受けながら目を閉じれば、これまで何度も行く手を阻んできた大門が闇夜に浮かび上がった。
固く、重く、厚く、大きく、幾重にも連なる鎖で封じられた堅強な大扉。
(この先に、求めるモノがある)
扉に手を当て、グッと腹に力を込めて押す。相も変わらず重い扉だ。大粒の汗が額に浮かぶ。
今まで、何度やってもピクリとも動かなかった。覚悟が足りていないのか。それとも、未だその時ではないのか。そんな考えが精神を蝕み、焦燥感に駆られて一晩中刀を振り回していたこともある。
だが、それでも――
「一度も、諦めたことは……ないっ! 」
刹那、ギシギシと扉が軋む音が響く。
「――ッ!? ……ゥゥウウオオオオオッ!!! 」
好機! 間髪入れずに足を踏み出し、歯を食いしばりながら両腕に力を注ぐ。空間を震わす咆哮。扉が軋む度に、身体の芯から活力が湧き上がる。
(開け、開け、開け! 俺は、織田信長だ!! )
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!! 」
絶叫。扉が、僅かに開く。射し込む光。眩い光。扉を封じていた鎖が弾け飛ぶ。
今まで感じたことのない手応えに、俺は確かな希望を感じた。ここで織田信長は復活する。それが、運命なのだと。
……だが、しかし――
(う、動か……ん……っ)
扉は、それ以上開くことはなかった。
「……クッ」
唇を強く噛み締める。
分かっている。帰蝶が、皆が自身の復活を望んでいることは。急かしたりはしない。苦言など一言も言われたことはない。焼き物作りに熱中していても、何一つ文句は言われなかった。
……前に、帰蝶に言われたことがある。生きていてくれるだけで満足だ……と。
その言葉に嘘偽りは何一つ無いだろう。安土城で目を覚ました直後、帰蝶は心から俺の無事を喜んでいた。記憶を失おうとも、俺が俺であることに変わりはないから……と。
その瞳に浮かぶ涙の意味を理解していながら、俺は何一つ帰蝶の想いに応えることが出来ない。
「……すまぬっ」
ズルズルと、両腕が扉を伝うように垂れ下がる。辛うじて絞り出した言葉の、なんと薄っぺらく情けないことか。
「すまぬ……帰蝶……っ」
俯きながら肩を震わせる。
この時程、己の無力さを嘆いたことはない。
戦えない。仲間の危機に立ち向かえない。今の俺には、皆が期待するような活躍は絶対に出来ない。
……無論、戦場に立つだけならば、記憶を失ったままでも可能だろう。だが、そんな状態で戦場に立っても何も出来ずに死ぬだろう。そんなこと、誰も望んでいない。
結局、記憶を取り戻すしかないのだ。
(でも、どうやって記憶を取り戻す? 扉は開かない。開けない。ならば、御仏にでも祈るか? 明日、目が覚めたら記憶が戻っているようにと。……くだらん。そんな都合の良いことが起こる筈が無いだろうがっ! )
希望的観測というほかない、楽観的すぎる淡い期待。そんなモノに縋るしかないのかと、どうしようもない現実に心が折れかけた――その時、奇跡が舞い降りた。
――鈴。
涼やかな鈴の音と共に、ひらりひらりと、僅かに開いた扉の中から金色の蝶が現れた。それは、踊るように、舞うように、ゆっくりとこちらへ向かって羽ばたくと、その後を追うように金の鱗粉が闇夜に美しい軌跡を描く。
「……」
目を奪われる。
幻想的な光景に見惚れたのでは無い。その金色の蝶に見覚えがあったからだ。
「これは、帰蝶の……か? 」
あぁ、そうだ。これは、帰蝶が身に付けている髪飾りによく似ている。いや、そのものだと確信していた。毎日、帰蝶は大切に手入れをしていたからよく覚えているのだ。……その時、何故そこまで大事に使っているのかを問い、悲しげに話を逸らされたことも……よく、覚えている。
「何故、それが此処に……? 」
俺は、ふらふらと右手を伸ばす。すると、金色の蝶はふわりと一際大きく羽ばたくと、スっと伸ばした指先に軽やかに舞い降りた。
刹那、今まで思い出せずにいた記憶が、濁流のように一気に身体の中へ流れ込んできた。
次々と、あの日の光景が浮かび上がってくる。
【ハッハッハッ! 若様、兵法ばかり読んでいては立派な武士になれませぬぞ? 日々、鍛錬に励んで心身共に鍛えねば! さぁさぁ、そんな嫌な顔をせず、早く準備なさってくだされ! 】
「権……六」
【若様は、きっと民を思いやれる名君になれます。……え? 何故分かるのか……ですか? ……ふふっ、若様は人の痛みを理解出来るからです。それは、当たり前のようで誰にでも出来ることではないのですから】
「五郎左……」
【……いつか、天下をお取りくだされ。……儂は、若様を信じております。若様は、うつけ……なんかではござらん。きっと、先代様をも超える立派な御方に……】
「……平手のじい」
【そ、某は、殿に一生ついて行きます! 拾っていただいた恩は、必ずや働きで返してみせます。……殿の右腕として】
【――あっ! なぁに、抜け駆けしてやがんだ! お殿さまの右腕は、この又左さまよぉ!! 戦で、バンバン武功挙げまくってやんだぁ! そんで、いつかお殿さまの右腕として日ノ本中に俺の名を轟かせてやるんでい!! 】
【なっ! そんな、自分勝手な願望を――】
【お前と、何が違うんでぇい! 】
「……内蔵助、……又左。……ふっ、お前達は本当に変わらんなぁ」
【へへっ……、なんか嘘みてぇでさぁ。卑賎の身である自分が、こんなにも立派なお屋敷に住めるなんて罰が当たりそうで……っ。……これも、全部こんな儂は目にかけて下さった殿のお陰でさぁ。この御恩は、絶対に忘れやせん……っ】
「……藤吉郎」
【私は、信じております。上様こそが、この乱世を終わらせる御方であると。泰平の世をもたらす麒麟の化身であると】
「十兵衛……」
【……もう、儂には時間がない。無念ではあるが、これもまた天が定めた理であろう。……故に、この岐阜と共に夢を託す。天下を取れ。お前ならばソレが為せる】
「……道三」
【理解されなくても良い。誤解されても構わん。ただ、己が正しいと思った道を行け。例え、正しい道を行ったとしても、そこに信念が無ければ人は容易に道を外れてしまうものだ。故に、進むのであれば最初から自分の意思で決めよ。……もし、それで家臣達がついて来なければ、自分が器では無かっただけのことよ! ハッハッハッ!! 】
「……父上」
【いつか、私は父上の期待を超えるような名君になってみせます。そして、この日ノ本に誰が羨むような泰平の世を築くのです! ……だから、もう少しだけ待っていてくださいね? その時が来たら、好きなだけ世界を回って来て良いですから】
「奇妙……」
【しょーらいの夢……? なんでも良いの? ん〜、……なら、いつか、じい様と一緒に世界を見に行きたい! それで、誰も見たことがないような秘境を目指して大冒険するんだ! きっと、すっごく楽しいよ! 】
「三法師……」
次々と浮かび上がる思い出の数々。その一つ一つの欠片が集まり、胸の中へと入っていく。その度に、失われていた記憶が戻っていく。
そして、最後に脳裏へ映ったのは、今より少し若い帰蝶の姿だった。大切そうに金色の蝶の髪飾りを胸に抱き寄せ、幸せそうに微笑む帰蝶の姿だ。
【愛しております。例え、覇道を歩み続けるあまり、上様が冷酷非道な暴君へと変わり果ててしまったとしても、私だけは最期まで上様を愛し続けます。……だって、私は知っておりますから、三郎の本質を。民を、家臣を、家族を想える優しい三郎の姿を】
「き、帰蝶……っ」
一筋の涙が頬を伝う。
あぁ、そうだ。あの髪飾りは、京の土産にと渡した物だ。あれから、ずっと持ち続けていたのか。壊れぬように、毎日手入れを欠かさずに。
もう、十年以上は経っているだろうに……っ。俺は、何も気付いてやれなかった。二人だけの大切な思い出だったのに。
「すまぬ……っ、すまぬ、帰蝶……っ」
肩を震わす。すると、金色の蝶は何かを伝えるように点滅した。言葉は交わさずとも、不思議とその意味を理解出来た。
「……あぁ、そうだな。こんな時は、謝るのは違うな。……ありがとう、帰蝶。お前達。ずっと、余を守ってくれていたのだな。ずっと、ずっと……」
その瞬間、金色の蝶は一際眩い光を放ち、暗い世界を暖かく照らす。
扉は、既に開いていた。
「戻ろう。皆が、帰りを待っている」
扉へと足を踏み出す。その背を、見守る者達の気配を感じながら――
***
……意識が戻る。
あの幻は、もうそこには無かった。あるのは、泣き崩れる帰蝶の姿。その小さな身体を、優しく抱き寄せる。ビクりと、震える身体。その耳元へ唇を寄せた。
「……口調が、じゃじゃ馬娘だった昔に戻っておるぞ? 良いのか? 侍女達に仮面を被っていたことがバレてしまうぞ? 」
「――っ!? 」
バッと、勢いよく顔を上げる。見開いた瞳には、大きな雫が溢れそうになっていた。それを右手で拭い、そのまま頬に手を添えて視線を交わす。
「随分と、待たせてしまったな。……すまん」
「ま、まさか……お主……っ」
「あぁ、思い出したぞ。全て……な」
「――っ、う、ぅぅ……うわああああああっ!! あああああー!! 」
飛びかかるように抱きつき、子供のように泣きじゃくる帰蝶の頭を優しく撫でる。もう、二度と帰蝶を一人にはしないと固く誓いながら。