47話
誰もが、覇王の復活を待ち望んでいた。
「行くぞ、この戦を終わらせに」
『おおおおおおっ!! 』
雄々しき漢達の掛け声が舟を揺らす。
誰もが軽装、ちゃんと着けているのは具足くらいか。舟の中央には、槍や刀などの武器の他に薄い胸当てがあるのみ。信長でさえ、愛用していた甲冑は全て置いてきた。舟の定員、大きさ、速度。それらを加味した結果、軽装した三十名の戦闘員が一つの舟に乗れる限界ギリギリであった。
その舟が七台。計、二百十名。それが、信長が率いて連れてきた兵士達の総数である。
万を超す兵士達が集う決戦場。そこへ、高々二百数名の兵士を率いて参戦しても何も出来ないのではないか。
そんな疑念は、信長は一切抱いていない。
まくった袖口から光る筋肉。日々、厳しい鍛錬を己に課して磨き上げた鋼の肉体。戦場が近付くにつれて、自然と士気が高まっていく生粋の武人。皆が皆、死ぬことの恐れよりも、ここまで磨き上げてきた己の技を試す機会に心が踊っている。
そして、何よりも此処までついてきてくれた仲間の実力を疑う筈がない。
舟がひっくり返るような荒波を越え、前方に立ち塞がる巨大な岩を、身体が水に浸かってしまうくらい傾けることで間一髪避ける。そんな、一歩間違えたら川に落ちて死んでしまう無理無茶無謀な作戦に、彼らは何一つ文句を言わずに死にものぐるいで舟を動かし、此処まで辿り着いてくれた。
誰一人、欠けることもなく。
故に、信長は確信する。
これ以上ない……と。
「上様、そろそろ中洲へ着きまする! 強引に上陸致します故、衝撃にお備え下さいませ! 」
「であるか! ……承知した! 万事お前達に任せる! 盛大にやれ!! 」
『御意っ!! 』
加速する舟の先端に立ったまま、信長は不敵に笑った。まるで、その瞳にはこれから辿る運命が見えているかのように。
「……さて、自分のケツは自分で拭かねばな。そうでなくては、帰蝶にまたどやされてしまう」
くつくつと笑いが零れる。
思い浮かべるのは、長い眠りから覚めたあの日。自分を眠りから覚ましてくれたのは、ずっと傍で支えてくれた帰蝶だった。
***
時は、少しばかり遡る。
天正十二年五月二十日 申刻。
織田信雄率いる五千の軍勢が、岐阜城城下町を守る大門へ差し掛かった同時刻。信長と帰蝶達が隠居していた屋敷に早馬が訪れた。
急使を放ったのは新五郎。内容は、織田信雄の謀反。そして、徳川家康を後ろ盾に一万を超える大軍で岐阜城へ進軍していることであった。
「私達に、敵から背を向けて、おめおめと逃げ延びよと申すか! 」
怒気を含んだ鋭い声が響く。握り締められた扇子は、今にもへし折られそうだ。
しかし、使者の男は一歩も引かなかった。
「ははっ、左様にございます! 某は、殿より上様と奥方様の安全を確保することを厳命され申した。如何なる事情があろうとも、二人の命を最優先にせよと。……殿は、その時間を稼ぐ為に命を賭す覚悟にございます。如何に敵が強大であろうとも、決して退くことはしない。最後まで、織田家に忠義を貫く……と」
「……」
「……某からも、平にお頼み申す! どうか、どうか、お逃げ下さいませ!! もし、この場所を敵に知られればただではすみませぬ! 間違いなく刺客を放たれましょう! こんな防御の薄い場所で敵に囲まれればどうなるか……っ。今ならば間に合うのです! どうか、どうかっ!! 」
使者の身で意見を述べるなど言語道断。されど、男は処罰されることを覚悟で懇願した。死んで欲しくない。逃げてほしいと。
その真摯な心が、頑なに逃げることを拒んでいた帰蝶の心へ響いた。
「……私達に、何処へ逃げよと」
「向かう先は越後国。上様と奥方様には、織田家大老柴田様の下までご案内致したく! 」
「越後……か」
「ははっ! 柴田様は、古くから織田家に仕える忠臣。断じて、謀反人 織田信雄と手を組むことはございませぬ。安心して、上様と奥方様をお任せ出来ましょう」
「……確かに、この現状で頼れる者は少ない。柴田ならば、適任であろうな」
帰蝶は、悲しげに顔を伏せる。信雄が裏切ったからではない。誰が裏切り者か分からない状況で、何の不安もなく信頼出来る者の少なさに心を痛めていた。
使者の男も、当然帰蝶の心中を察することは出来た。何か言おうとするも、寸前で唇を噛み締めて堪える。
(今は一刻を争う。主君が命懸けで時間を稼いでいるというのに、家臣がその覚悟を踏み躙ってどうする! )
ギュッと右手で裾を強く握り締めると、男は帰蝶の不安を取り除けるように笑顔を作った。
「ご安心下さいませ。幸い、道中にある飛騨国は某の生まれ故郷。某にとって、あそこは庭のようなものにございますよ。……それに、地形も山に囲まれているお陰で狭い道が長く続いており、例え、追っ手を放たれても撒くのは容易。そして、そこを抜ければ越中国にございます。そこまで辿り着けば、柴田様の家臣へ渡りを繋ぐことも出来ましょう。大丈夫です。奥方様が、不安に感じるものは何もございませんよ? 」
ぎこちなくも、身振り手振りで話す男の姿に、帰蝶は少しだけ頬を緩ませた。
「……分かりました。万事、貴方に任せます」
「――で、では! 」
「えぇ、新五郎のご好意に甘えてさせていただきましょう。私が、此処に残っていても何も出来ませんし、私の我儘で上様を死なすわけにはいきません。……今日は、もう日が暮れますので、出立は明日の日の出頃に致しましょう」
「ははっ!! 承知致しました! では、そのように準備致しまする! 」
「頼みましたよ。……それと、貴方達の忠義に敬意を表します。よくぞ、ここまで知らせに来て下さいました。今日は、ゆっくり休みなさい」
「――っ、勿体なき……お言葉にございまするっ」
男は、涙を流しながら喜んだ。その一言で、主君も報われると思ったから……。
***
その後、背後で屋敷全体が騒がしくなっていくのを感じながら、帰蝶は離れへと向かった。
「……上様、失礼致します」
スっと、襖を開いて中に入る。周囲を見渡してみれば多くの陶芸品が並んでおり、中には少々歪んでしまっているのもあることから、職人の物ではなく素人の作品であることが分かる。
帰蝶は、勝手知ったる様子で奥へと向かう。そして、工房へ続く襖を開けた瞬間、ムワッとした熱気が頬を撫でた。
また、長時間籠っていたのだろうと帰蝶は溜め息を吐くと、ちょうど奥から焼き物を手に持った男が現れた。……織田信長である。
「おお、帰蝶か! ちょうど良いところに来てくれた! 見てくれ、良い品が出来たぞ! 」
「……えぇ、素晴らしい出来にございますね。おめでとうございます、上様」
「ああ! 」
ニカッと、子供のような笑みを浮かべる信長に、帰蝶は頬を緩ませながら、甲斐甲斐しく布で顔や首筋の汗を拭う。
全身は汗だく。鼻の下には煤が付いたまま。だけど、とても生き生きとしていた。全身で、毎日を楽しんでいた。初めて会ったあの頃のように。
信長は、岐阜の屋敷へ隠居した後、暫くは寝床から起き上がれぬ日々を過ごしていた。もう、このまま寝たきりかもしれない。帰蝶は、内心覚悟を決めていた。
しかし、そんな最悪の想像は良い意味で裏切られた。信長は、持ち前の生命力でみるみる回復していくと、僅か半年で普通に暮らせるようになったのだ。誰もが、自分の足で歩く信長の姿に涙を流したという。
……だが、身体は回復しても記憶は一向に戻る気配をみせない。帰蝶が、昔の話や思い出の品を見せても効果は出なかった。何も、思い出せなかった。
しかし、良いこともあった。焼き物に強い関心をみせたのだ。記憶を失う前の信長は、焼き物をこよなく愛していた。光秀に襲撃された時も、わざわざ本能寺へ持ち込んでいた程に。
『もしかしたら、焼き物が上様の閉ざされた記憶を刺激するかもしれない』
帰蝶は、藁にもすがる思いでその仮説を信じ、尾張国の瀬戸から職人を呼び出して焼き物作りを信長へ教えさせた。
その結果、焼き物作りにどっぷりとハマった信長は、時間を忘れて工房へ籠るようになった。残念ながら記憶が戻ることは無かったが、あの時の信長の喜びようは帰蝶も思わず笑ってしまう程で――
……まるで、あの頃に戻ったかのような楽しい時間だった。
「……ふふっ」
「ん? どうかしたか? 」
「いえ、なんでもありませんよ」
あの日の光景が脳裏に浮かび、思わず笑ってしまった帰蝶は、なんでもありませんと言いながら信長の身体を拭いていく。
(本当に、毎日楽しそう。こんなにも、楽しそうな上様を見るのは何十年ぶりでしょうか。……ここ数年は、ずっと戦続きで気苦労が絶えない日々を送っていましたものね)
――このまま、記憶が戻らない方が上様にとって幸せなのかもしれない……。
そんな考えが脳裏を過ぎった瞬間、帰蝶の瞳から涙が溢れた。
「き、帰蝶!? どうした!? どこか、痛いのか!? 」
「ぇ……あ……」
慌てる信長を尻目に、帰蝶は左手を頬に添えた。この時、ようやく自分が涙を流していることに気付いた。
「す、すみません。なんでもありませんよ? ちょっと、嫌な想像をしてしまいまし……て……」
言葉が詰まる。
「き、帰蝶? 」
あぁ、そうだ。
ようやく、自分の本心に気付けた。
(嫌なんだ、私。上様が、このまま記憶を失ったままなのが嫌だ。何もせずに、敵から逃げる姿なんて見たくない。自分の意志を継いでくれた孫の危機に、動こうともしない姿なんて見たくない。大切な人が死んだことも理解出来ない。そんな、あまりにも救われない悲劇をもう一度味わわせたくない……っ)
「いや……だ」
「帰蝶? 」
「嫌じゃ! 嫌じゃ! 嫌じゃ!! 頼む、動いてくれ! 目覚めてくれ! お主は、このような場所に居て良い存在ではないのじゃ! 早く、思い出すのじゃ!! 」
「――っ、だが……俺は……」
大きな瞳から溢れる涙に、信長は悲痛な表情を浮かべる。分かっている、自分が記憶喪失だということは。思い出そうともしている。しかし、思い出そうとすると、深い霧がかかったように行く手を阻むのだ。自分一人では……もう……っ。
しかし、帰蝶は引かない。駄々をこねるように、信長の胸元を掴んで引き寄せる。
「駄目じゃ! 今、思い出さねば全て手遅れになる! 今、動かねば何もかも失ってしまう! そんな時、お主は誰よりも早く動いてきた! どんな無茶な状況でも、絶対に仲間を見捨てたりはしなかったではないか! 父上が兄上に謀反を起こされた時も! 可成が延暦寺の僧兵に攻められた時も! 光秀が守る天王寺砦が落ちそうになった時も! お主は、仲間を助けようと必死に足掻いてきたではないか!! 」
「――っ」
頭が痛い。
「……今、三法師が危機に陥っておる。相手は、あの徳川家康じゃ。あの抜け目のない狸が、勝てぬ戦をする筈がない。必ず、三法師を殺し得る手札を用意しているじゃろう。……このままでは、あの子は死んでしまうっ! 私達の孫が死んでしまうのじゃ! 奇妙のようにっ!! 」
「――き、みょ……ぅ」
鋭い痛みが走る。胸が張り裂けそうだ。
「頼む、動くのじゃ! 立ち上がるのじゃ! このままだと、お主は、また大切な人を失ってしまうぞ! それが嫌なら動くのじゃ! 思い出すのじゃ! この大うつけぇ!! ……う……うぅ……ぅぅ……うごけぇ、……うつけぇ……っ」
「帰蝶……っ」
ズルズルと、胸元を掴みながら崩れ落ちる帰蝶を抱きしめる。鼻をすする音。びちょびちょに濡れた胸元。そのどれもが、信長の心へ強く響いた。
「……たのむ、思い出してくれ。…………三郎っ」
「――っ!! 」
その瞬間、信長を強い衝撃が襲った。
深い霧を払い除ける、強い衝撃が。