46話
その一隻の舟は、何の前触れもなく現れた。
「……おい、ありゃなんだ? 」
最初に、その舟を見付けたのは一人の青年。遠目に見える薄ぼんやりとした影。最初は、丸太か何かかと思っていたが、段々とこちらへ近付いてくるうちに全体像がハッキリと見え始め、ソレが舟だと分かった。
しかし、疑問もある。
何故、こんな状況で舟がこの中洲へと流れ着いたのか。偶然。たまたま、湊に停泊中だった舟を繋ぎ止めていた縄が切れただけ? そんな都合の良いことがあるのか?
不安もある。疑念もある。もしかしたら、逃げた自分達を追って放たれた敵兵かもしれない。その可能性の方が高いかもしれない。
ただ、ただ――
(あれに乗れば、家に帰れるんじゃ……っ)
そこに、一抹の希望を抱いてしまう。
「な、なぁ? アレに乗れば、俺達……」
一筋の光に縋るように、視線を舟に合わせたまま隣りに座る男の肩を揺らす。彼は、同じ村からこの戦に参加した幼なじみ。彼もまた、自分と同じように家に帰りたがっている。きっと、自分に賛同してくれる。そう、思っていた。
しかし、返ってきたのは無気力な返事だった。
「……んぁ? 」
廃人のような顔。死んだ魚のような瞳が、ぐるぐる螺旋を描いている。男は、一度だけ青年の方へ視線を向けると、溜め息混じりに青年が指差す方へ顔を向けた。一応、幼なじみである青年への義理を立てたのだろう。
しかし、男は直ぐに舟から視線を外してしまう。
「……そんなもの、どうだっていいだろ。どうせ、俺達には関係ねぇさ」
「……っ」
そう、呟いて俯く。その声に覇気はなく、どこか投げやりで、全てを諦めたかのようにその瞳は死んでおり、その背中には強い哀愁が漂っていた。もう、どうでもいいと言わんばかりに顔を上げることもしない。
昔は、こんな瞳をした男ではなかった。
【農家の三男坊に過ぎない俺は、このまま家に残っていたって兄貴達の奴隷にされるだけだ。だったら、俺は外に出て自由に生きる! そんで、いつかきっと戦で武功を挙げて成り上がるんだ!! 】
そんな風に、光り輝く未来を夢見て豪快に笑う男だった。断じて、こんな廃人のような無気力な人物では、なかった……っ。
青年は、そんな幼なじみの変わり果てた姿に、ポッキリと心が折れてしまった。一抹の希望なんて、所詮幻想に過ぎなかったのだと思い知らされた。
「……んだな」
そして、青年もまた同じように舟から目を離し、膝を抱えて塞ぎ込む。
「俺達、どうなるんだろうな……」
「……さぁな」
「……生きて、帰れるかなぁ? 」
「……さぁな」
「……ぅ……うぅ……、どうして……こんなことになっちまったんだ……っ。……うぅ……ぅあ……父ちゃん、母ちゃん……っ」
「……っ」
すすり泣く声。青年は、その声に家族の顔を思い出してしまい、必死に裾を噛んで涙を堪えた。
彼らは、開戦直後に中洲へと逃げた尾張の民。流されるままに幼なじみと共に戦に参加し、そこでようやく自分達が誰に弓を引いたのかを悟った。
(……三法師さま。あの織田信長さまのお孫さまが、あっちの総大将だった。んで、こちらの総大将は、尾張国を治める織田信雄さま。信長さまの息子。織田家の跡目を継いだ小さな童に、継げなかった大人。……ここまで揃えば、学のねぇ俺でも分からぁ)
つまりは、内輪揉め。跡目争い。泥沼の戦い。互いに譲らぬ意地と意地の張り合いになるが故に、双方に甚大な被害を齎す人災。父に、絶対に関わってはいけないと言われていた類いの戦を、織田信雄は仕掛けたのだ。それも、三河の徳川家まで引っ張りだして。
青年は、つくづく己の浅はかさを痛感した。こんな戦いに参加するんじゃなかった。いつものように、愚痴をこぼしながら土をいじっていれば良かった。そうすれば、こんな目にあわなかったのに。
ただ、それでも自分はまだマシな方だと、青年は目の前を流れる川へ視線を向けた。
そこは、真っ赤に染まっていた。
血、血、血、血、血。濁流が赤黒く淀む。川を埋め尽くす死体の山。川へ辿り着けず、悶え苦しみながら腕を川へと伸ばしたまま死に絶えた者達。矢で貫かれた者、斬り裂かれた者、踏み潰された者。ソレらを、虎視眈々と狙いながら空を飛び交う鴉の群れ。
あの時、八百人が無我夢中で中洲へ逃げ、その内、三百人が向こう岸に辿り着けず死んでいった。己の運命に絶望しながら。己を殺した者を憎悪しながら。己とは違い、逃げ延びることが出来た者達を嫉妬しながら。
その一つと目が合ってしまった青年は、顔を背けながら胃の中のモノを吐き出してしまう。
「――っ、ゥ……ゲェ……ァァ……オ゛エ゛エ゛エ゛」
胃液を垂らしながら涙を流す。あれが、自分の末路だと突き付けられているようで……。青年は、胸が締め付けられるような激痛に悶え苦しんだ。
正直、もうどちらが勝つかなんてどうでも良かった。帰りたい。助けてほしい。見逃してほしい。ただ、それだけが青年の胸の内の大部分を占めていた。
だが、どうか青年を責めないであげてほしい。
そりゃあ、冷静に選べば三法師の方だろう。中洲へ逃げろと告げ、自分達が逃げられるように兵士達に指示を出して時間を稼いでくれた。自分達は、織田家を裏切ったようなものなのに。それでも、三法師は彼らを救おうとした。
あれが無かったら、きっと青年も男も生きてはいない。一生かけても返せない恩義だ。
しかし、今の青年に未来のことなんて、これっぽっちも想像出来なかった。その心は、絶望という深い闇の中に沈み、ただただ、死にたくないと足掻くように御仏へ祈り続けた。
もう、祈ることでしか己の自我を保てる自信がなかったから……。
***
そんな時、周囲が急にざわめきだした。
「……? 」
顔を上げる。誰も彼もが、同じ方向を向いていた。ナニかに、惹き付けられるように。
(一体……何が、あったん……だ? )
異様な雰囲気に怯えながらも、青年は自然と皆と同じように顔を向けた。
「――っ」
息を呑む。視線の先にあったモノは、荒れ狂う川を渡る一隻の舟。先程、こちらへ流れてくるところを何気なく眺めていた物。……いや、一隻ではない。先頭の舟の影になって見えていなかったが、その後ろに隊列を組むように何隻もの舟がこちらへ向かっていた。
なるほど。確かに、これは異常事態だ。皆が不安を感じるのも無理はない。どうせ、何かの弾みで流れ着いた廃船だろうとタカをくくっていた青年だったが、その認識は間違いだと思い知る。あれは、間違いなくこちらを目指して向かっていた。
それを悟ると同時に、青年は膝が震える程の恐怖に苛まれていた。
(頼む、頼むよ。来ないでくれ。もう、放っておいてくれよ……っ)
頭を抱えて蹲る。最早、その瞳に映る全てが敵に見えた。怖くて怖くて堪らない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
しかし、それに抗う気力すら湧かない。逃げ出すことも出来ない。諦め。無気力な瞳。長時間、死の恐怖に脅かされてきた心は、完全に死んでしまっていた。もう、自分の力では立ち上がれない程に。
そして、それは何も青年だけではなかった。幼なじみの男も、縋るように念仏を唱える老人も、得体の知れないモノから逃げようと這いつくばる男も。皆が皆、恐慌状態に陥っていた。
だが、その恐怖も一瞬にして消え去った。
『――っ』
場の空気が一変した。
ただ、その男が姿を現しただけで。
多くの傷跡が鮮明に残る船体。岩にでもぶつかったのか、側面には大きな凹みが出来ており、荒波を越える度に激しく揺れるその様子は、沈没していないのが不思議なくらいであった。
しかし、誰もが舟の状態なんて目に入らない。一つの例外もなく、その視線は先端に立つ男へと注がれていた。
見よ! 見よ! その雄々しき英雄の姿を見よ!
神を否定しながらも、誰よりも天に愛された男の姿を見よ!
その英知に溢れた姿を見よ!
天下に轟く覇王の証を見よ!
魔王と畏れられた覇気を感じよ!
彼だけが、この世でただ一人覇王を名乗ることが許される。
そう、彼こそが、彼こそが――
「行くぞ、この戦を終わらせに」
『おおおおおおっ!! 』
織田信長である。