44話
せめてもの償い。
ただ、それだけが彼女を動かす原動力だった。
***
「あ、ああああああああっ!!? 」
絶叫。骨が砕ける音が響き渡る。掴まれた右手首は痛々しく腫れ上がっており、遠目から見ても骨折しているのが分かる。
思わぬ反撃により痛手を負ってしまった半蔵は、怒気を撒き散らしながら叫んだ。
「お、おい! お前、何をしているっ!? その手を離せ! これが、どういう事か分かっているのかっ!? こんな事をして、どうなるか分かっているんだろうなっ!! 」
「……」
しかし、返事は返ってこない。肩を震わせながらも、紫陽花は掴んだ右手首を一向に離そうとしない。寧ろ、このまま握り潰さんとばかりに力が増していっている。
瞳は白く染まり、理性が消えているようにも見える。更には、タガが外れてしまっているのか、致命傷を受けた身とは思えぬ力を発揮しており、その代償として胸元の穴から血が溢れ出していた。
……正気の沙汰ではない。これ以上力を込めれば即死しかねない。もう、詰んでいるのだ。この盤面からでは、どうやっても彼女は半蔵を討ち取る事は出来ない。諦めて、潔く死を受け入れれば直ぐに楽になれるだろうに……。
だが、紫陽花は力を緩める事はなかった。歯を食いしばりながら右手首を握り締め続けるその姿からは、ギシギシと骨が擦れるような音が聞こえてくるようで……。
そこで、初めて半蔵の顔に焦りが見せる。
「――っ!! お前、まさか――」
紫陽花の狙いを察した半蔵は、目を見開きながら左手を紫陽花の左肩に置き、そのまま右手を引き抜こうと両足に力を込めた。
もし、このまま腕が引き抜かれたら、紫陽花はもうそれで終わりだ。現状、半蔵の右手が胸元の穴をかろうじて塞いでいる状態なのだ。紫陽花が少し力んだだけで、肉と肉の境目から血が溢れ出す。もし、その蓋を外してしまえばどうなるか……。数十秒後には、出血死は免れない事は明白である。
それ故に、まだ半蔵の心には余裕があった。未だ間に合う。こちらの方が早い……と。
その慢心が、彼の運命を決定づけた。
彼の行動はあまりにも遅すぎた。
さっさと右腕を引き抜いていれば、紫陽花はどう足掻いても数十秒後には死んでいた。突然の事態に、ろくに反応も出来ずに終わっていただろう。
そこからでも、十分蓮を殺せる時間はあった。呆然としながら立ち竦む女の子を殺すのに、あの距離からなら十秒もかからなかっただろう。
そうなれば、後は残った五人を数で叩いて終わり。本当に、ただそれだけで勝てた。あの奇襲が成功した段階で、既に必勝の局面だったのだ。
それを、半蔵は分かっていながら選ばなかった。
慢心。怠惰。傲慢。
徒に命を弄んだ代償は、右手首だけではおさまらなかった。
「――ァァァッ!! 」
咆哮。尋常ならざる握力によって、遂に限界を迎えた皮膚を折れた骨が食い破る。今までとは比べ物にならない痛みに悶絶する半蔵。その瞬間、蓮の首を拘束していた指先が僅かに緩んだ。その隙を、彼女は絶対に見逃さない。即座に蓮の左肩を押して地面へ倒すと、瞬時に小刀を抜いて半蔵の右手を肘の先から両断した。
「――っ!? ギ、ギィアアアァァァァっ!? 」
絶叫。紫陽花の頬を鮮血が彩り、獲物を見据えるように振り返った。
「――っ」
息を呑む。
ゾッとするような冷たい眼差し。冷たく、身体の芯を凍らせるように冷たく、されど、熱い。
もう、そこには身を焦がす程の妄執に取り憑かれた復讐鬼は存在しない。
(大恩ある主君を裏切り、情報を流して仲間を死に追いやり、挙句の果てには自らの手で同胞を殺めてしまった。……許してほしいとは思わないわ。そんな事を願える立場ではないもの。……なら、せめて私の手で己の不始末をつけるっ!! )
刹那、紫陽花の身体から赤き焔が吹き上がった。友が、最愛の妹が正道へと戻してくれた。もう、堕ちることはない。迷うこともない。
彼女は、もう二度と間違えない。
「……行くわ」
告げる開戦の言葉。
残された時間は、僅か七十二秒。
彼女にとって、最期の戦いが幕を開けた。
***
七十二秒。
先に動いたのは、半蔵であった。
「――チッ」
舌打ちをしながらも、素早いバックステップで距離を取る。その勢いのままに右手を引き抜き、ちぎれた袖を左手と口を使い、二の腕付近で縛って止血する。適切な応急処置。流石は、服部半蔵。超一流の忍びとして名を馳せただけはあり、既に冷静さを取り戻していた。
だが、やはり一手遅い。
「ガッ――!? 」
紫陽花の姿が掻き消えたかと思った刹那、半蔵の鼻っ面に拳が炸裂した。
六十九秒。
仰け反る半蔵。
一瞬、意識が飛ぶ。僅かな空白。その隙に、紫陽花は懐深く踏み込み、無防備に晒された腹へ強烈なレバーブローを打ち込む。
「カハッ……」
震える膝。大地を砕くような凄まじい踏み込みから放たれた一撃に、堪らず半蔵の身体がよろめかせた。
六十七秒。
「――ゥグ」
呼吸と同時に血が込み上げる。しかし、ここで止まる訳にはいかない。紫陽花の視界には、度重なる攻撃によって緩んだ胸元が見えていた。そこへ滑り込ませるように左手を伸ばす。掴んだ。名札はない。だが、これが目当ての物だと直感で見抜いた……瞬間、紫陽花はノールックでソレを後ろへ投げた。
「松っ!! 」
居る。絶対に取ってくれる。合図もない。ただ、必ず彼女ならば自分の意図を察して動いてくれる。そんな全幅の信頼を、紫陽花は松へ寄せていた。
そして、その信頼に松はちゃんと応えてみせた。
「――っ! 」
壊さぬように掴み、胸元へ引き寄せる。解毒薬だ。毒使いは、必ず己が使う毒を癒す薬を持ち合わせている。初めから、紫陽花の狙いはこれだったのだ。
松も、直ぐに紫陽花が求めていることを察した。
「北、竹! 南、梅! 東、椿! 西、彼岸花! 私は、蓮の治療にあたる! ……散っ!! 」
『承知っ!! 』
動き出す白百合隊。多くは語らない。だが、彼女達は紫陽花に全てを託した。里を滅ぼし、徳川に組みしていた裏切り者なれど、その背より伝わってくる想いが彼女達を動かしたのだ。
紫陽花の頬が微かに緩む。
(……ありがとう、みんな)
もう、これで思い残すことはない。
六十秒。
残り時間は一分を切った。眼前には、鬼の形相でこちらを睨みつける半蔵の姿。既に、息は整っていた。解毒薬を掠め取る為に攻撃を止めた間に、一息で回復してしまったのだ。
だが、失った血までは回復出来ない。
「――っ」
よろめく半蔵。刹那、紫陽花が縮地を使って一足飛びに距離を詰める。しかし、それこそが半蔵の狙いだった。フェイント。彼の瞳は、加速する紫陽花の姿を完全に捉えている。半蔵は、わざと隙を見せて、紫陽花を誘い出したのだ!
「うおおおおぉっ!! 」
殺す気で放たれた剛腕が、紫陽花の左頬へ唸りを上げながら迫る。音を越え、宙を切り裂き、紅蓮を纏いしその一撃は、己の前に立ち塞がる敵を情け容赦なく打ち砕く。
最早、女だとか忍びだとか関係なかった。油断も慢心もない本気の一撃が、吸い込まれるように紫陽花の左頬を捉えた。
骨が砕ける音。
手応え……有り。
だが、半蔵が勝利を確信するよりも早く、脳みそを揺らす特大の衝撃が炸裂する。クロスカウンターだ。肉を切らせて骨を断つ。まさに、執念と言えよう。
「ガ……ァ……アァ……ッ」
「ぅ……ぁ……っ」
両者共に、よろめきながら数歩後退る。脳を揺らす一撃の威力は凄まじく、互いに目の焦点が合っていない。
だが、その戦意は未だ衰えていない。
五十一秒。
一瞬の空白の後、両者同時に動き出した。
「はあああああっ!! 」
「うおおおおおっ!! 」
空間を震わせる衝撃。互角。僅かに拮抗した後、勢いを利用して紫陽花が二歩手間に下がる。刹那、紫陽花の左足が凄まじい勢いで跳ね上がった。咄嗟に左腕で防御した半蔵の動きは、長年戦場で培った経験が働いたものか。見事に、紫陽花の蹴りを正面から受け止めた。しかし、紫陽花は構わずガードごと一蹴。鞭のようにしなる上段蹴りが炸裂すると、その衝撃で大の大人が地面の上を二回転して弾き飛ばされた。
「――っ!! うぉあぁぁあああぁっ!!! 」
だが、半蔵も負けてはいない。即座に受け身を取ってダメージを最小限に抑えると、縮地を用いて距離を詰める。紫陽花は、ソレに対し真っ向から立ち向かった。
『うぉぉぉおおおおおおおっ!!! 』
咆哮。互いに足を止め、歯を食いしばりながら殴り合う。四十秒……三十秒……二十秒……。時計の針は無慈悲にも進み続ける。溢れる血。震える身体。体力は、とうの昔に底をつきた。絶対に負けられない。そんな想いが、彼女の身体を突き動かす。
最早、ここまで来たら技も何もない。先に、心が折れた方が負ける。意地と意地のぶつかり合い。
そんな、泥臭くも神聖な戦いも終わりの時が近付いてきた。
八びょ――。
「――コフッ!! 」
吐血。膝が震える。視界が揺れる。一瞬の隙。それは、一分一秒を争う戦場において、あまりにも致命的な失態。間髪入れず打ち込まれた拳が、穴の空いた胸元を抉った。
「ギ、ギィィアアアアアアッ!!? 」
「……終わりだな」
時計が壊れる。半蔵が放った渾身の一撃は、紫陽花の内蔵を完全に破壊した。力が抜ける。手応え有り。勝利を確信する半蔵。徐々に瞳から光が消えかけた――刹那、今までとは比べ物にならない光を放った。
二秒。
「ちがう……わ。勝つのは、私たち……よ」
(これで、終わり。……だけど、悔いはないかな。……だって、あの子はもう一人で生きていける。強くなった。もう、私が護らなくても大丈夫。……うん。もう、大丈夫)
「なに――」
半蔵の言葉を遮るように、紫陽花の右手が胸元へ添えられる。それと同時に、溜め込んでいたエネルギーが爆発するかのように大地を砕き、半蔵の身体を遥か後方へ吹き飛ばした。
発勁。
蓮が、紫陽花を止める為に取得した奥義。閉ざされていた心の壁を打ち破った想いの結晶が、紫陽花の背を力強く支える。
されど、意識を奪うまではいっていない。半蔵は、吹き飛ばされながらも何とか受け身を取ろうと空中で足掻いている。パワー不足。このままでは、また振り出しに戻るだけ……。
そう、半蔵が確信した瞬間、背後より迫る一つの影を半蔵の瞳は捉えた。
……彼岸花だ。近くには、事切れた三つの遺体。彼女を相手に、雑兵程度が稼げる時間なんて二十秒くらいだ。仕留め終わった彼女が、紫陽花の救援に向かうのは至極当然のことであり、彼岸花が向かっているのが分かったからこそ、紫陽花はその方向へ半蔵を吹き飛ばしたのだ。
「――っ!? 」
「無駄にはしない! 無駄にはしない!! 紫陽花の執念を、無駄死にだったなんて絶対に言わせるもんか!! 僕が、この手で終わらせるんだあああああっ!!! 」
咆哮。黒塗りの短刀が、青空に美しい軌跡を描きながら半蔵のうなじに迫る。最早、半蔵にソレを回避する手段は残されていなかった。
「……チッ、ここまで……かァ」
――ザシュッ!
血飛沫が彼女の身体を赤く染める。うなじを切り裂かれ、そのまま膝から崩れ落ちた胴体が、今も尚、絶え間なく溢れ出る鮮血の沼に沈む。
服部半蔵は、白百合隊の仇は死んだ。彼女達の手で、その因縁に終止符を打った。
同時刻、白百合 紫陽花 死亡。享年十九歳。
半蔵の死を見届けた後、眠るように息を引き取った。蓮は、松による迅速な治療が幸をそうし、無事に意識を取り戻した。そんな彼女の頬を、風が優しく撫でた。愛おしむように。
その後、彼女は松から紫陽花の最期を聞いた。妹を救う為に、己の命を顧みずに勇猛果敢に戦う戦士の勇姿を。蓮は、ただ静かに涙を流した。喚くことも暴れることもせず、ただ静かに涙を流しながら黙祷を捧げた。「いつか、私がおばあちゃんになったら、沢山の思い出と、沢山のありがとうを伝えに行くよ」と約束して。
彼女の遺体は、白百合隊の隠れ里へ引き渡され、木々に囲まれた涼やかな場所で眠っている。せめて、死後は安らかに過ごせるようにと願われながら……。
***
そして、半蔵を殺した事で伊賀者達の士気は著しく下がり、各地に散らばっていた残党は、松達によってあっという間に蹴散らされた。
これにより、開戦から二時間後に金華山一帯を白百合隊が支配する事に成功。その一報を受け、新五郎は部隊を分けて進軍を開始。前だけではなく、左右からも攻められる事になった信雄軍は次第に追い詰められていく。
しかし、未だ戦況は家康の思惑通りに進んでいた。