43話
それは、閃光のような一瞬の煌めきだった。
「あああああああっ!!! 」
咆哮。魂が導くままに拳を振るう。
視界は白く弾け、痛覚は麻痺し、意識も朦朧としている為に、自身がちゃんと立てているのかも分からない。
ただ、その拳は、不思議と服部半蔵の身体の芯を捉えていた。
「――カハッ!? 」
血反吐が頬を掠める。乱れる呼吸。熱い。熱い。熱い。気配が変わる。ダメだ。手を緩めるな。この命が尽きるその瞬間まで拳を振るえ。
「おおおおおおおおおおおおっ!!! 」
空気が震え、大地が躍動する。
私は、直感を頼りに大地を駆けた。
服部半蔵。お前だけは、絶対に許しはしない。これ以上被害を広げない為にも、ここで仕留めなくてはならない。その性根は危険だ。この先、誰にとっても害悪にしかならない。絶対に、逃がしてはいけないんだ。
「――っ!! 」
それが、私に出来る精一杯の贖いだから……。
***
突如として紫陽花の背後に現れた半蔵は、誰にも反応出来ない速度で貫手を放つ。骨が砕け、肉が裂けて押し潰れされる。半蔵は、紫陽花の胸元を難なく貫通させると、その勢いのままに隙だらけの蓮の首へ掴みかかった。
白く、か細い首筋を真っ赤な右手がこのまま握り潰してやると締め付ける。
「……ぅぁ……ぁあ」
息が出来ず、顔を真っ赤にしながら苦痛に顔を歪める蓮。ゆっくりとなぶり殺すように指がくい込み様は、今にもその細い首がへし折れてしまいそうであった。
その様子に、一層気を良くした半蔵は、歪んだ笑みを浮かべながら更に力を込めて蓮の身体を吊り上げる。
「あ、ああ……ぁ……ぅぁ……」
「は……す……っ! 」
絞り出すような悲鳴。カチリと、小さな音が鳴ったかと思えば、蓮の身体が一度大きく痙攣し、その後、真っ赤に染まっていた顔は、みるみるうちに青ざめていった。
その尋常ならざる様子に、紫陽花は無我夢中で腕を伸ばす。その際、身体を内から抉られるような激痛が紫陽花を襲うも、紫陽花は全く動じた様子を見せない。
それは、おびただしい出血で痛覚が麻痺しているのか、それとも身を焦がす程の怒りからか。……いや、それは紫陽花という一人の人間の本能。ただただ、蓮を助けんが為に懸命に右手を伸ばしていた。
毒。
顔を青ざめながら痙攣する蓮の様子に、紫陽花は瞬時にその答えをはじき出す。
おそらく、指輪か何かに毒が仕込んであったのだ。でなければ、いきなりあんな風にはならない。首を掴んだまま、首筋から毒を注入させたとしか思えない。
そう、考えただけで怒気が溢れた。
「おいおい。そう、怒るなァ。安心しろ。直ぐに、貴様も妹のところへ送ってやる」
「――っ! 」
振り返らずとも、半蔵がニタニタ笑っている事が伝わってくる。身体の底から沸き立つ怒り。この状態では、紫陽花は何も出来ないと思っているのだろう。あと、ほんの少し指先に力を込めるだけで蓮の命を断てるというのに、わざといたぶる事で紫陽花や松達の反応を楽しんでいるのだ。
それを悟った松は、目を吊り上げて叫ぶ。
「――っ! その手を離しなさい、服部半蔵! ただ、己の快楽を満たす為に他者の命を弄ぶなんて、人として最低の行いよ!! 貴方、仮にも徳川家に仕える武士でしょう!? そんな道理に反した……っ、武士の風上にも置けない行為をして、貴方恥ずかしいとは思わないのっ!? 」
「おいおい、何を甘い事を言ってやがる。道理だァ? 最低な行いだァ? ……馬鹿か、お前。戦場に、道理も何もあるわけねぇだろうがァ!! 勝者だけが全てだ! 義だの礼だのと、クソの役にも立たねぇ事に拘る馬鹿から死んでいくんだよっ!! 」
「――っ」
半蔵から溢れた闘気が空間を揺らす。それを、まともに受けた松は、喉がヒリつくような感覚に襲われた。
言霊。
半蔵から告げられた言葉は、まさに彼の人生を表した信念に等しい。多くの戦場を、地獄を駆け抜けたからこそ辿り着いた一つの答えであった。
半蔵は、はっきり言ってクズだ。武士道精神なんて欠片も持ち合わせていない。……だが、それを真っ向から跳ね返せる精神力が無ければ、彼の前に立つことすら許されない。
松は、半蔵が身に纏う闘気に完全に呑まれていた。
そんな中、彼女だけは冷静さを取り戻していた。
「……」
コポリと、口端から血を流しながら胸元へ視線を落とす。突き抜ける一本の腕。肉が裂ける音、潰れる音。穴の空いた胸元から、おびただしい量の出血が地面へ滴り落ちていく。血と共に、彼女の魂までも流れ落ちていくようだった。
(あと……どのくらい、もつかな……? )
それでも、彼女は落ち着いている。
致命傷。あと、数分後には息絶える。その事実を、紫陽花は冷静に受け止めていた。
何故、怒りが収まっているのか。諦めたのか。
……否、それは違う。逆だ。覚悟を決めたからこそ、冷静に戦況を分析しているのだ。
僅かに顔を上げ、周囲を取り囲む伊賀者達の気配を感知しながら、松達へ視線を向けた。
(周りは……囲まれてる。数は十二、四方に三人ずつ。松は……少し呑まれてる。梅や、竹も。多分、初動は遅れるかもしれないわね。……でも、椿と彼岸花はいつも通り。なら、大丈夫)
僅かに頬を緩ませる。かつての仲間達へ向ける一方的な信頼。歪な関係。普通に考えれば、裏切り者の指示なんて聞かないかもしれない。紫陽花だって、彼女達の立場なら一瞬戸惑ってしまうだろう。
だが、不思議と紫陽花の心に不安は無かった。
信じていた。松達ならば、きっと動いてくれると。気付いていた。蓮を助けるには、もうこれしか選択肢は無いことを。
(蓮……)
視線を横へ向ける。顔色は、青を通り越して白くなり始めている。生気が薄い。心臓の鼓動が弱くなっているのが伝わってくる。毒。そう、毒だ。早く解毒しなければ、このまま蓮が死んでしまう。最愛の妹が……っ!
「まっ……てて……ね。……いま、たす……ける……から……ね……っ」
「……何を言っ――」
続く言葉は出て来なかった。半蔵の言葉を遮るように、蓮の首を絞める右手首を紫陽花が掴んだ。目を見開く半蔵。瞬時に逃れようとするも、万力の握力で掴まれた右手はビクともしない。
「……フゥー、スゥー、フゥー」
息を整える。肺に酸素が行き交い、穴から血が溢れ出す。自ら、残り僅かな寿命を削る無謀な行為。されど、紫陽花は一向に止める気配を見せない。
彼女は、既に覚悟を決めていた。
命を捨てる覚悟を。
顔を伏せる。
(ようやく分かった。私は、怖かったんだ。里を滅ぼしたことが皆にバレて、この平穏な日々を失うことを恐れていたんだ。裏切り者だって殴られて、泣かれて、追い出されて、……殺されて。もう、二度とあの頃に戻れないんだって絶望する。そんな悪夢から逃げる為に、今までずっと徳川家康の言いなりだった。裏切れば、必ず私が犯した悪行をバラされると思ったから)
死の淵に立ってようやく気付けた本心に、彼女の瞳から一筋の涙が流れ落ちた。
(……最低だ、私。自分から里を滅ぼしたいって願ったくせに。何百人もの"今"を奪ったくせに。いざ、自分に大切なモノが出来たら、その罪から目を背けて、失いたくないって足掻いて、何度も何度も同じ過ちを犯し続けた。……っ、私は、本当に最低だよ……っ)
歯を食いしばる。
後悔してばかりの人生だった。もし、あの頃に戻れたら……。やり直すことが出来たら、どれほど良いだろうか。
だけど、過去の過ちは覆せない。犯した罪を無かったことには出来ない。逃げることなんて、最初から出来るわけが無かった。
そんな当たり前のことに、彼女はようやく気付くことが出来た。
「なら、わたし……は……っ」
「――っ!? 止め――」
――バキッ!
「!? 」
骨が砕ける音。半蔵の右手首の骨は、紫陽花によって粉々に砕け散った。蓮の拘束が僅かに緩む。紫陽花は、蓮の左肩を押して地面へ倒すと、瞬時に小刀を抜いて、半蔵の右手を肘の先から両断した。
「あ、ああああああああっ!!? 」
絶叫。
されど、まだ紫陽花の攻めは終わっていない。
二つの鎖で縛り付けていた魂は、家康の手によって解き放たれた。
もう、彼女を阻む者はいない。
残された時間は、七十二秒。
魂が、今一度光り輝く。