42話
その男は、息を殺しながら彼女を監視していた。
(白百合隊の主力は十二名。その内、七名がこの場に集まった。……ククッ、ここまでは殿の想定通りだなァ)
爛々と輝く瞳。されど、その身体からは不気味な程に何も感じない。闘気も、殺気も。
故に、誰も彼の存在に気付かなかった。
気付けなかった。
「――カハッ!? 」
鮮血が舞う。
揺れる瞳が捉えたのは真っ黒な顔の男。
「人の心は揺れ動くモノだァ。ましてや、一度裏切った者なら尚更なァ。……おいおい? まさか、監視されていないとでも思ってたのかァ? 」
貫手。紫陽花の胸元を突き破る真っ赤に染まった右腕が、今、一体何が起こったのかを蓮に突き付ける。
「おねぇ……ちゃん? 」
「…………にげ……なさ……」
突然の事態に、蓮は呆然としながら立ち竦む事しか出来なかった。そんな蓮を逃がそうと、紫陽花は痛みに悶えながら必死に手を伸ばす。このまま男の間合いにいてはならないと予感したから。
だが、蓮は動けない。既に、その喉元には真っ赤に染まった死神の手が添えられていた。
「……ぅぁ……ぁ……ぁあ……っ」
「あぁ、なるほど。これがお前の護りたかったモノ……か。……脆いなァ、簡単に壊せそうだ。こんなモノの為に命を懸けるとは、お前はつくづく愚か者だなァ? さぁて……今、此処でこいつを殺せばお前はどのような顔を見せてくれるだろうかなァ? 」
「!? 」
「おいおい。そう、怒るなァ。安心しろ。直ぐに、お前も妹のところへ送ってやる」
「――っ」
嘲笑うように語る男に、紫陽花は目尻に涙を浮かべながら背後を振り向いた。
あぁ、やはりお前だったのか。そんな諦めにも似た感想が零れる。
服部半蔵。
徳川家康の懐刀にして、現在、金華山の各地で戦いを繰り広げている伊賀者達を束ねし者。それこそが、自分の胸元にポッカリと穴を開けた男の正体だった。
(なんで……ここに……)
紫陽花は、朦朧とする意識の中で問いかけた。
半蔵は、本来であれば百合隊の主力を削る為に身を粉にして動かねばならない存在である。数は伊賀者が勝っているとはいえ、地の利を得ているのは白百合隊。金華山は、白百合隊の隠れ里からほど近く、常日頃から修練場として活用している。ホームグラウンドだ。今では、目をつぶっていても動けるだろう。それ故に、伊賀者達は苦戦を強いられているのだから。
しかし、半蔵はその戦いに参加していない。彼は、家康から直々に内通者である紫陽花の監視を命じられていたのだ。
……家康は、用心深い男である。一度、裏切りを知った者を心から信頼する筈がなかった。
それだけではない。家康は、白百合隊の思考を完璧に読み切っていた。彼女達は、三法師に影響されたのか、身内に甘い傾向にある。であれば、彼女達は必ず紫陽花の暴走を止めようとするだろう。出来なくても、自らの手で決着をつけようとする。確実性を求めて多くの戦力を集めて。
――そこを叩けば、白百合隊に大打撃を与えられる。特に、白百合隊の中枢足る三日月の三人を討ち取る事が出来れば。
「――っ!? 」
紫陽花の視線の先。そこには、彼女達を取り囲むように集まる伊賀者達の姿があった。
白百合隊は、完全に包囲された。
その瞬間、紫陽花は右手を強く握りしめた。
***
白百合 紫陽花。
待ち受ける死の未来から妹を護る為に里を裏切り、徳川の手を借りて里を滅ぼした者。
普通に考えれば、たかが里一つを滅ぼすのに家康がわざわざ兵を派遣するとは思えない。彼女を助けても、徳川家に何の利益も生まれないのだ。家康が、そんな無駄な事はする筈がない。
しかし、その時の徳川家は、織田信長の命により武田征伐に乗り出していた。
家康にとって、武田の名は強大なモノであり、後世に語り継がれる程の屈辱的な敗北を喫した怨敵である。
それ故に、家康は微かな情報でもつぶさに集め、武田家が誇る家臣団の結束を崩すような流言を流し、少しずつ、少しずつ、その強大な壁を崩さんとしていた。
そんな中、家康の耳に歩き巫女の里と、ソレを滅ぼさんとする一人の少女の情報が入ったのだ。
戦とは、戦場で矛を交える前から始まっている。情報戦の重要性を心得ていた家康は、歩き巫女という武田家の諜報を担う組織を潰せる絶好の機会を見逃さない。紫陽花の望みを半蔵伝いに聞かされた家康は、満面の笑みを浮かべながら助力を約束した。
無論、恩と恐怖で紫陽花の首に鈴を付けた。いつものように。人は、恐怖だけでは真の意味で縛る事は出来ないと、身をもって知っていた故に。
だが、そんな家康も、まさか彼女が三法師に召し抱えられるとは、この時は予想だにしなかっただろう。当たり前だ。あの日、家康が見た紫陽花は死人同然だった。復讐を果たしたその日に死んでしまいそうなくらいに。
しかし、彼女は生き延びた。山へ逃がした妹を回収に向かう際に、傍で気を失っていた彼岸花達の姿を見てしまったのだ。自分達と同じく、身売りされて来た幼子達を。
散らばった花束、きのこ、木の実。泥と煤で汚れた身体。折れ曲がった四肢。
……見捨てられる筈がない。
紫陽花は、蓮を背負って紐で固定すると、彼女達を抱えて洞穴を目指した。そこには、他にも生き残りがいるかもしれない。そうなれば、自分達だけ逃げ出す事も困難になる。何もかも水の泡になる。
それでも、紫陽花は見捨てられなかった。気を失った幼子達の姿が、愛する妹の姿と重なってしまったから。
その後、地獄のような日々を経て、紫陽花達は三法師に拾われた。
飯を与え、服を与え、家を与え、名を与えた。彼女達の境遇を嘆き、涙を流しながらあたたかく迎え入れた。
こんな幸運はない。もし、新五郎よりも早く誰かが彼女達を見つけていたら、きっと違う結末が待っていただろう。良くて放置。悪ければ、奴隷落ちか。そうなっても、なんらおかしくなかった。
しかし、そうはならなかった。
彼女達は、まるで物語の一場面のような運命的な出会いを経て、心身ともに救われる事になる。
温かいご飯。綺麗な着物。立派な屋敷。ボロボロだった身体は、織田家御用達の名医による適切な治療と、高価な薬を惜しみなく使われた事により完治した。
しかし、彼女の心は依然として閉ざされたまま。何を要求されるのか。逃げ出すにはどうするか。いつも、周囲を警戒しながら身構えていた。
しかし、三法師は何も要求しなかった。それどころか、毎日欠かさず彼女達の見舞いに訪れた。毎日欠かさず。
自分達よりも遥かに小さな幼子。されど、その瞳には溢れんばかりの慈愛に満ちていた。
(あぁ、この人は心から私達の事を案じているんだ。私が、妹の事を想うように)
その瞬間、紫陽花は固く閉ざされていた心の壁を開いた。信用出来た。信用したいと思えた。生まれて初めて受ける無償の愛は、壊れた彼女の心を優しく包み込んだ。
紫陽花は、夢見ていた自由を手に入れる事が出来たのだ。ずっと、夢見ていた平穏な日々を。
ここで終われば良かった。
誰もが羨むハッピーエンドで。
しかし、そんな幸せは長くは続かなかった。
人を不幸にしておいて、自分だけ幸せになろうだなんて虫がよすぎる。
罪には罰を。
咎人は、報いを受けねばならない。
あぁ、これが運命だったのか。
その時は、なんの前触れもなく訪れた。
三法師が、白百合隊を使って武田征伐の裏工作に励んでいた頃、彼女の姿を半蔵に見られてしまった。裏の世界の住人は、一度見た者の顔は絶対に忘れない。間違いなくあの日の少女だと確信した半蔵は、その日の内に家康へ報告。速やかに拘束されて、家康の下へ引き渡された。
……そこで、何があったのかは分からない。
だが、彼女は、その日から家康の下僕となった。
紫陽花にとって、岐阜城での日々はつかの間の幸せだった。仲間同士で殺し合うことも無く、無謀な任務を押し付けられて死ぬことも無い。
本当に、幸せな日々だった。
だからこそ、家康は彼女の心を容易に縛り付ける事が出来た。失いたくないからこそ、人は臆病になり、心に隙が生まれてしまう。恩と罪。その二つの鎖が、雁字搦めのように紫陽花の魂を封じたのだ。
その後、家康を裏切る事が出来なかった彼女は、指示されるがままに行動した。それが、仲間の死に繋がると分かっていながらも。
別に、紫陽花が弱くなった訳じゃない。
ただ、失うにはあまりにも大きすぎるモノを、彼女は手に入れてしまっていただけだった。




