40話
白百合 紫陽花。
幼き頃、実の親に売られて姉妹共々里へ連れて来られた。そこで待っていたのは、虐待とも言うべき熾烈極まる鍛錬の日々であった。
殆どの者は、最初の一ヶ月を生き残る事は出来ない。
食事は三日に一度。腹が鳴れば絶食の鍛錬だと殴られる故、人目を盗んで山に入り、木の実や虫を食べて飢えを満たし、泥水をすすって渇きを誤魔化す。
毎日が、死と隣り合わせの暮らしだった。
成績の低い者から畑の肥やしにされ、優秀な者同士を殺し合わせて純度を高める。正気の沙汰とは思えぬ慣習。
紫陽花の心は、そんな日々を過ごしていくうちに段々と擦り切れていき、ある日たった一人の友をその手にかけた瞬間に音を立てて砕け散った。
友の命を奪った感触を、彼女は未だに覚えている。
真っ赤に染まった両手。瞳から光を失われ、命の灯火が風に吹かれて消えた。
殺すしか無かった。
枠は、二つしか無かったから。
血の涙が頬を伝う。
その日、二人の少女が死んだのだ。
その後、彼女は、愛する妹をこの地獄から救う事だけを考えて生きてきた。姉である自分が、里生まれの者達よりも優秀な成績を維持し続ける事で己の価値を証明し、その褒美として妹の助命を里の上層部へ願い出た。この状況を打破する時間を稼ぐ為に。
そんな彼女からすれば、里を滅ぼすという結論は比較的すんなりと出された。理不尽に親に身売りされて地獄へ落とされた彼女にとって、里への怨みはあれど、義理など欠けらもありはしないのだから……。
それに、里を滅ぼさない限り彼女達に真の自由は無い。里は、裏切り者を絶対に許さない。逃げ出せば、地の果てまで追いかけてくる事は明確だった。
故に、彼女は徳川家と繋がりを持った。里を滅ぼすには、自分一人では手が足らない。子供達は兎も角、薄汚れた大人達は誰一人として見逃す事は出来ない。包囲殲滅。その為の兵士を、徳川家から借り受ける事が出来た。
そして、訓練所の卒業式。
里は、あっという間に火の海に呑まれた。
こうして、一人の少女は復讐を成し遂げた。
自由を、復讐を、光ある未来を夢見て。
その先に、何が待っているかも知らずに。
***
その声は、暗闇に射し込む一筋の光のようだった。
「お姉ちゃんっ!! 」
「……蓮? 」
紫陽花は、呆然としながら声の方へ視線を向ける。そこには、胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返す愛する妹と、その隣りには悠然と佇む彼岸花の姿があった。
冷たい汗が頬を伝う。蓮が現れた事は想定外だったけれど、そもそも紫陽花は正しい配置場所を知らされていないのだ。であれば、妹との予期せぬ遭遇も致し方ないだろう。
だが、彼岸花はそれとは前提が異なる。
(……頬に返り血。なのに、傷らしい傷が一切見当たらない。……嘘でしょ。あの子と桔梗には、他の子達よりも多くの刺客が放たれている筈よ。それを、無傷で圧倒したと言うの!? )
その姿、正しく怪物。
なんで此処に。そう、問いかけるよりも早く、蓮は松の首筋に添えられた小刀を見て、一目散に駆け出した。
「だ、駄目ぇぇぇっ!! 」
叫ぶと同時に蓮の姿が掻き消える。縮地……いや、未だ荒い。そこまでは至っていない。だが、紫陽花の意表を突く事は出来た。
「――蓮っ!? 」
「はぁあああっ!! 」
懐に潜り込んだ蓮は、初手に松の首筋に添えられた小刀の側面をクナイで弾くと、その勢いのまま右手を伸ばす……も、紫陽花の手刀によって叩き落とされる。まるで、全て読み切っているかのように。
蓮が動く度に、ほんの少しだけ蓮が劣勢になる。動く度に墓穴を掘り、少し、また少しと追い詰められていく。蓮も、それを理解している。何とか、ミスを取り替えそうとした。だが、攻撃を仕掛ける度に少しだけ体勢が崩れ、少しだけ後手に回っていく。
技量。まさに技量の差としか言いようがない。
「――っ!! まだまだぁあああっ!! 」
だが、蓮は未だ諦めていない。グッと地面を這うように踏み込むと、斜めに浮き上がるように紫陽花へ飛びかかった。二人の身長差は、およそ十センチ。蓮が相手が故に、紫陽花は小刀を振るう事を躊躇い、バックステップをしながら再度手刀を振るって距離を取ろうとする。
しかし、その判断は一手遅かった。
紫陽花の手刀を掻い潜るように、めいいっぱい伸ばした右手が胸元へ辿り着く――刹那、紫陽花の左腕が掻き消え、蓮の踏み込んだ足を中心に地面に亀裂が入る。踏鳴。大地を踏み砕く程の膨大なエネルギーが、蓮の身体を経由して紫陽花へぶつけられる。
「――っ!!? 」
紫陽花は、その強大な力を前に、為す術なく土煙を上げながら吹き飛ばされた。
凄まじい音と共に、周囲一帯に吹き荒れる土煙。静寂。肩で息をしながらも、土煙の先を見つめながら警戒し続ける蓮。そんな彼女へ松が歩み寄ろうとするも、いつの間にか背後に忍び寄っていた梅と竹によって止められた。
「――あたっ!?!? 」
「……止血くらいしなよ」
「物の怪の類じゃあるまいし、首筋の出血を放置するなんて有り得ないわよ? 」
「ウグッ」
ポカりと、松の頭を軽く殴りながら毒を吐く二人は、手際良く応急処置に入る。幸い傷は浅い。この分だと、命に別状は無いだろう。
「……はぁ。全く、無茶し過ぎよ。あのまま斬られていてもおかしくなかったのよ? 松が紫陽花に斬られて死んだなんて、三法師様へどう報告すればいいのよ」
「……短絡的過ぎる。……馬鹿」
「……うぅ。……だ、だけど、私は里の実情を知っていながら見て見ぬふりをしていたわ。私には、もうどうしようもないのだと。……罪悪感はあるわ。長の血を引く者として責任も感じている。あの子が、復讐を望むのであれば私はソレを受け止める義務があるのよ」
ギリィと、松は奥歯を強く噛み締める。
数多の犠牲者達を見殺しにしてきた罪の意識。そして、三法師との出会いによって培われた倫理観は、このまま紫陽花から逃げる事を良しとはしなかった。
だが、そんな松の葛藤を彼岸花は一蹴した。
「でも、松は何もしてないよね? 悪いのは、里の大人達でしょ? 別に、松が気にする必要なんて無いと思うよ? 僕達の長だからって、何でもかんでも松が背負う必要はないんじゃない? 」
「なっ!? 」
唖然とする。彼岸花だって、紫陽花達と同様に身売りされた被害者だ。怒りもあるだろう。恨みもあるだろう。しかし、あっけらかんと語る彼岸花には、そんな気配は微塵も見えなかった。
そんな視線に、彼岸花はバツが悪そうに頬を掻きながらそっぽを向く。
「いや、そりゃあ〜僕だって思うところはあるよ? でも、長とか師範はもう死んじゃったし、死人に恨み節を言ったって返ってくる訳じゃないからねぇ。……紫陽花の気持ちは、僕も少し分かるよ。僕も、あの頃の事はあまり思い出したくないしね」
彼岸花の瞳に、一瞬陰りが見えた。彼女が、一体何を見たのかは分からない。
けれど――
「……でもさ、松は何も悪くないよ。罪を償うべきなのは里の上層部だし、その復讐はあの日紫陽花の手によって果たされた。なら、そこで罪は清算されたんだ。生き残った松が、長の血筋だからって罪を償う必要はないんだよ。……それに、紫陽花の復讐を正当な権利とするのであれば、あそこで止まらなければならなかった。それ以上、進む事は許されないんだっ」
『……』
彼岸花は、真っ直ぐと前を向いた。ギュッと握られた裾は深い皺を作っており、苦痛に歪む表情からは彼岸花の葛藤が伝わってくる。
紫陽花は、彼岸花にとってヒーローだ。悪夢を終わらせてくれた英雄だ。大好きだった。
それ故に、もう紫陽花の涙を見たくなかった。彼女は、あの日からずっと、ずっと泣いているのを知っていたから……。
【止めたい。止めたかった】
そんな胸を締め付けるような懺悔が伝わってきた松は、己の愚かさを恥じた。この悲しみに濡れた復讐劇を、自分が死ぬ事で終わらせようとした、いや、終わるだろうと思っていたその浅はかさを恥じた。
(彼岸花が、どんな思いで紫陽花の裏切りを聞かされたのかも考えずに……っ。私は、私は――っ)
一筋の涙が頬を伝う。そんな松の心境を察したのか、いつの間にか隣りに立っていた椿が、松の肩に腕を回して抱き寄せた。
「松はさ、真面目過ぎるのよ」
「……椿」
「本物の悪人なら、過去の悪行なんて欠片も覚えていないわよ。今まで、ずっと悔やんできた。亡くなった子達の事をずっと忘れずにきた。この先も、ずっと忘れずに生きていく。……それだけでも、松は許される資格はあると私は思うわ」
「……っ」
視界が歪む。松は、歯を食いしばって顔を伏せようとする。しかし、椿は肩を叩いてソレを止めさせた。それでも、罪を償いたいと思うのであれば、あれから一瞬足りとも目を離しては駄目だと。
「この先は、あの子達姉妹の問題。邪魔立ては無粋よ。……だから、見届けましょう」
「……えぇ、そうね。そうしましょう。だって、これがあの子の選択なんだもの。信じましょう、あの子の覚悟を。……それに、きっと紫陽花の心を救えるのは、この世で蓮ただ一人でしょうから」
そう言うと、松は裾で目元を拭って椿から離れた。その瞳は、真っ直ぐ彼女達へ向けられている。どうやら、松の中で折り合いがついたようだ。
そんな松達に賛同するように、竹と梅も胸元から右手を抜いた。隙あらば迎撃しようとしていたのだろう。実に、彼女達らしい。
暫くすると、ゆっくりと視界が元へ戻り始めた。
土煙が晴れる。
決着の時が迫っていた。




