表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
281/353

39話

 松達が産まれ育った故郷。武田家に仕えし、歩き巫女の里。山々に囲まれ、田畑が広がり、緩やかな小川が民に恵みを与える。そんな、表面上は平和で穏やかな日常が繰り返される長閑な隠れ里。

 しかし、その裏では薄暗い闇が隠されていた。

 人身売買を繰り返し、鍛錬と称して非人道的な虐待を行い、ろくに食事も与えず多くの幼子が死んでいく。

 その中には、人攫いによって連れて来られた者もいた。罪の無い幼子が、理不尽に親から引き離されて売買される。それを、里の重鎮達は、これも乱世の常だと黙認していた。弱肉強食。弱いのが悪いのだと。



 その果てに、怪物を作り出してしまった。



【全て、焼き尽くしてしまえば良い】

 たったその一言で、竹は胸を押さえながら膝から崩れ落ちる。過呼吸。尋常ならざる殺意の波動に、彼女は呑まれてしまったのだ。梅や椿とて例外ではない。膝が笑っていた。

 ……無理もない。あれ程の殺意を、怒りを、憎悪を抱ける者はそう多くない。あんなモノをマトモにくらえば、誰であろうと怯んでしまう。

 紫陽花の中に巣食う闇は、既に祟り神と同じレベルに至っていた。



 そして、紫陽花は、更に足を一歩踏み出した。その手は、痛めた脇腹では無く、松達の命を刈り取る為の小刀に添えられている。回復。もう、茶番に付き合う必要は無い。

「……ふふっ」

 脇腹を撫でながら微笑む。痛みは、もう感じられない。紫陽花は、松達が時間稼ぎに徹している事は察していた。理由までは分からなかったが。

 しかし、それは同時に紫陽花にも利点が存在している。体力を回復させる猶予を与えてしまったのだ。

「茶番は、もうここまでにしましょうか。このまま話し合いを続けても一生平行線でしょうし、何より貴女達に私達の苦しみが分かるとは思えない。……愛されて育った貴女達にはっ」

 彼女の不運。それは、里に蔓延る常識をおかしいと思えてしまったこと。それを、皆が正しいと思っているからと流す事が出来ていたら、弱い自分がいけないのだからと諦める事が出来ていたら、上からの命令にただ従っていれば良いのだと受け入れる事が出来ていたら、どれだけ良かっただろうか。

 きっと、こんな光景は広がっていなかっただろう。

 しかし、紫陽花はそれが出来なかった。この里はおかしいと、長の考え方は間違っていると、里の住民は狂っていると、何故こんな目に会わなくてはならないのかと思ってしまった。人権など欠けらも無い戦国の世の中で。

 時折、歴史上に現れるのだ。間違いを正す者が。民の願いの結晶が。暗君や暴君を打ち倒す英雄の器として。それこそ、時代が求めたかのように。

 実に、不思議な事ではあるが。

 紫陽花も、世が世であれば、圧政を敷く暴君を打ち倒さんと立ち上がった革命家として、人々から偉人だと讃えられただろうに。彼女の復讐は、正当な権利なのだから……。



 だが、そんなモノは空想に過ぎない。

 紫陽花は、裏切り者だと罵声を浴びようとも、過去の因縁に終止符を打つ道を進んだ。その歩みを阻む者はいない。竹達は、足が竦んで動けない。もう、三十秒もすれば全員の首が地面に転がっているだろう。

 そんな未来を幻視する中、今まで口を閉ざして俯いていた松が、突然顔を上げて紫陽花を見た。足が止まる。視線が交差した。静寂。そして、松はおもむろに足を踏み出して歩き始めると、紫陽花の間合いの一歩外で足を止めた。しかし、それも一瞬の事。松は、無防備に紫陽花の間合いへ立ち入った。

「――フッ」

 刹那、放たれる斬撃。されど、松は一向に攻撃を防ぐ気配を見せず、その刃は薄皮一枚斬り裂いたところで制止した。

「何のつもり? 」

「……紫陽花。貴女の怒りは正当なモノよ。復讐したいと願うのであれば、私にはソレを止める権利は無い。寧ろ、長の娘として受け止める義務があるわ。……私を殺したいのであれば、このまま刃を振り抜きなさい」

『松っ! それは――』

「貴女達は、黙っていなさい! 今、私は紫陽花と話しているのよ! 」

『――っ』

 松は、竹達を一喝して黙らせる。

「……けれどね。その前に、一つだけ確かめなくてはならない事があるわ」

 一歩、松が足を踏み出す。刃が食い込む。肉が裂け、一筋の血が刀身を伝う。しかし、彼女の表情は変わらない。その瞳には、死を覚悟した者特有の色が見えており、紫陽花にも松が嘘をついていない事がハッキリ伝わっていた。

「……」

 返ってきたのは、沈黙。

 それを、許可だと認識した松は、紫陽花と視線を合わせながら口を開いた。

「何故、殿を裏切ったの? 」

「――っ」

 目を見開く。

 瞬間、どろりとした殺意が松の頬を撫でる。殺された。そう、誰もが錯覚してもおかしくない程の殺意であった。



 逆鱗に触れた。



 竹や梅が最悪の未来を幻視する中、剣先が僅かに震えるところを松と椿が感じ取った。その反応に、松は自身の中にある仮説を証明する確証を得た。椿もまた、あの時感じた違和感の正体を察する。

 怒り、怨み、憎悪。

 家族である紫陽花を疑いたく無かったと語った松に対し、紫陽花は確かに強い殺意を抱いた。よりによって、長の娘であるお前が……と。

 しかし、その中には僅かな懺悔が込められていた。

「それ以上、口を開くなっ! 」

 溢れる怒気。だが、松は止まらない。

「いえ、言わせてもらうわ。……あの日、里を焼いた事を責める気は無いわ。因果応報。父が、里が長年犯してきた罪の末路だもの。あの後、私達についてきたのも、生き残りの中に復讐の対象では無い子達がいたからだと考えれば納得出来る。見捨てられなかった。彼女達も、この理不尽な境遇から救いたかった。だから、妹を使って山へ行かせたのでしょう? 巻き込まない為に」

「違うっ!! 私は! 私はっ!! 」

「いいえ、違わないわ。貴女は、理性を失ったケモノでは無い。理性のある復讐者。それ故に、最後の一線だけは踏み込んでいない。関係ない人には手を出さない。……だから、貴女に聞いているの。何故、殿を裏切ったの? 明智様の件も、今回の件も、貴女が裏切れば多大な影響を及ぼすと分かっていた筈よ。最悪、殿は命を落とされてしまうかもしれないっ」

「……っ」

 ヨロリと、半歩後退る。だが、逃がしはしないと、松は更に一歩踏み出した。

「私達は、あの日殿に救われた。服を、食事を、家を、名を与えて下さった。薄汚く、卑しい身分の私達を、今日からは共に暮らす家族だと温かく抱き締めて下さった。……貴女の大切な妹の蓮も、殿が助けて下さったから、今も幸せに生きているのでしょう!? その恩義を忘れていないから、今も【紫陽花】と名乗っているのでしょうっ!? なら、なんで殿を裏切ったのよ! 復讐したいのなら、私を殺せば良かったじゃない! ヤろうと思えば、何時でも寝首を搔けたじゃない! それをしなかったのは、共に過ごしたこの二年間が貴女にとって幸せな時間だったからじゃないの!? 貴女は、この平穏な日々を一度でも失いたくないとは思わなかったの!? 答えなさい! 紫陽花っ!! 」

「――っ、ぅ……ぁぁ……っ」

 手首を掴む。そんな拘束、簡単に振り解ける。だが、紫陽花は顔を青ざめたまま立ち尽くしていた。



 それは、紫陽花が胸の奥底に隠していた想い。

 感謝しないはずがないだろう。

 あの笑顔に救われた。その言葉に胸を打たれた。その無償の愛に身を委ねた。……愛する妹が、初めて年相応な笑顔を見せてくれた。

 平穏な日々。ずっと、夢見ていた世界。それを、与えて下さった人を憎むはずがない。命の恩人。その御恩は、自分一人ではとても返せない大きなモノ。

 三法師を裏切って徳川家康に助力する。

 それは、紫陽花の本意では無かった……。

(でも、私は――)

「……はぁ、はぁ、はぁ。――お姉ちゃんっ!! 」

「――っ!? 」

 その瞬間、固く閉ざされていた心の壁に亀裂が入った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ