35話
才蔵が、大地を力強く踏み砕いて突撃を仕掛けた同時刻。岐阜城と城下町をつなぐ一本道、激戦地と化したその場所で新五郎は檄を飛ばしながら指揮を取り続けていた。
「第三班前へ! 第二班は、後方へ下がり補給を取れ! 第四班は、何時でも突撃出来るように準備を整えよ! 第五班左側を、第一班は右側の警戒を怠るな! 常に、己が敵陣の中にいるものと心得るのだ!! 」
『ははっ!! 』
ひと班五百人。新五郎は、総兵力二千五百を五班に分け、信雄軍の防御を突破せんと絶え間なく突撃を仕掛ける。――だが、戦況は拮抗。固く防御を固めた信雄軍を未だ破れずにいた。
(不味い、このままでは押し切られる……っ! )
背筋を凍らせるような焦燥感が新五郎を襲う。
兵力で劣る三法師軍は、真正面から信雄・家康連合軍と当たっても絶対に勝てない。奇襲に奇策、あらゆる手を尽くして隙を作り、そこを一点突破するかたちで大将首を取るしかないのだ。
その為にも、新五郎がこの防御陣を突破して、三法師軍と共に連合軍を挟み撃ちにしなければならない。それが、勝利への第一歩なのだから。
……だが――
「報告! 敵兵も、我らと同様に隊列を組んでいる模様! 盾の厚みから弓矢の効果も期待出来ず、体勢を崩された者から地面へ押し潰されております! 」
「報告! 盾兵、槍兵の後方に弓兵の姿を確認! 数は二十! 周囲に木々がある為一斉掃射は無いと思われますが、傾斜のせいであちらは我々後方部隊を狙いやすくなっており、一点集中で狙われる可能性有り! ご注意を! 」
――やはり、敵の防衛を突破出来ない。
「……っ! 前衛は二人一組となって戦え! 奴らは本職の武士では無い。練度ならばこちらの方が遥かに上だ! 焦らず、落ち着いて連携を取るのだ! 後方にいる者は頭を下げて身を低くせよ! そして、石でも何でも良いから相手の後方目掛けて投げ続けよ! 例え石でも、頭に当たれば相手は怯む。ここで勝たねばどうせ死ぬのだ! 安っぽい見栄など捨ててしまえ!! 」
『おおっ!! 』
新五郎の激励に兵士達も力強く応える。最初の勢いは無い。だが、その瞳は依然として熱く滾っている。士気は上々。やはり、主君である三法師が救援に駆け付けた事実が非常に大きく影響を与えている。
それでも、信雄軍四千の壁が果てしなく高く聳えていた。彼らは、三法師が戦場に現れた事実を知らない。故に、士気に影響は無く。元々城攻めの準備を整えていたが故に、突然の奇襲に驚きはすれど信雄の指示が入れば迅速に立て直す事が出来た。
そして、何よりも新五郎達を苦しめているのは伏兵の存在だ。
「報告! 左手より、何者かによる奇襲を受けております! 白百合隊の者達が応戦しておりますが、三名が負傷し、その内一名が死亡致しました! 」
「……っ。死体は諦めよ! 負傷者は、自力で歩けるようなら城に戻らせるのだ! 無理そうなら、応急処置だけして木々の影に隠せ! 」
「ははっ! 」
「…………クソッ!! 」
新五郎は、険しい表情のまま茂みを睨む。誰も、それを咎める者はいない。何故なら、新五郎のソレは皆の苛立ちを代弁したようなものだったからだ。
新五郎達を苦しめていた正体。それは、服部半蔵率いる二百近い伊賀者。甲賀と対を成す者。そう、本能寺の変が起こった際、堺に居た家康を三河国まで護衛したあの伊賀者達だ。
元々、伊賀者達は織田家に強い怨みを抱えていた。信長による凄惨な【伊賀攻め】により、彼らは家族を、友を、故郷を、失った。大切な人の命を、理不尽に奪った者を許さないという怒りの炎は生涯消える事は無い。
逆に、国を追われた一族を、危険を承知で匿ってくれた家康へ向けた恩義も永遠なのだ。その恩に報いる為、彼ら伊賀者は服部半蔵を指示に従って新五郎達への妨害に勤しんでいた。それ故に、新五郎達は横へ回れないのだ。茂みから、何時襲撃を受けるか分からないから……。
だが、主君への想いなら彼女達も負けてはいない。
「……」
影に隠れて機を伺う伊賀者。その手元には、刀身を黒く塗られた暗殺用の短刀が握られていた。狙いは、大将首である新五郎。その磨き上げられた投擲術は、動いている的でさえも容易く射抜いてみせよう。
……投げる事が出来たらの話ではあるが。
「フッ! 」
「――っ!? ガハッ……」
血を吐きながら膝から崩れ落ちる伊賀者の胸元には、己が血で濡れた刀身が妖しく輝いていた。そして、前に倒れると同時に刀がゆっくりと身体から抜けていく。焼けるような痛みが、じわじわと伝わってくる。
逃げたい。早く死なせてくれ。
だが、幾ら懇願しても刀が抜かれていく速度は変わらない。無限にも感じる一瞬。命の水が器から一滴ずつ零れていく。気が付けば、彼の髪の毛は恐怖で白く染まっていった。
「ふふっ。甘い、甘いよ、甘過ぎるよ。その程度の隠密で僕の目を欺けると思った? 気配を消し過ぎたねぇ〜。例えるなら、黒一面の絵にぽっかりと空いた白い丸……みたいな? 」
唄うような声音。この殺伐とした戦場には、あまりにも不釣り合い。
「気配は、周囲に溶け込まないと違和感が相手に伝わっちゃうんだよねぇ。チッチッチ! まだまだ練度が低い。鍛錬が足りておりませんなぁ〜」
――来世では、もうちょっと頑張ろうね?
刹那、一切の躊躇も無く刀が引き抜かれた。
「……ぅう…………ぁあ……ぁ……っ」
噴き出した鮮血が大地を汚す。糸の切れた人形のように崩れ落ちる。ゆっくりと時間が流れていき、視界が黒く染まっていく。もう、あと数秒で命を落とす……その間際、彼は恐怖に震えながら息を呑んだ。
彼が最後に見た景色。そこには、血に濡れた刀を妖艶な微笑みを浮かべながら舐め取る狂人の姿があったのだ。恐ろしくも美しい、死神のような存在が。
白百合隊第四席 彼岸花。ひーちゃんという可愛らしい愛称と、中性的な見た目に十三歳という幼さとは裏腹に、彼女はこのまま成長すれば人類史に刻まれる程に卓越した暗殺術の才能の持ち主。彼女の前で、暗殺など到底不可能な話であった。
そんな彼女は、既に殺した相手など忘れたかのように、鼻歌交じりに刀に付着した血を拭っていた。
「血の匂い、死の香り、……ふふっ。楽しいなぁ! 今日は、幾ら殺しても怒られない素敵な日。はぁ……今日は、何人殺せるかなぁ? 」
可愛らしく首を傾げながら、実に物騒極まりない事を宣う彼岸花。そんな彼女の背後に、息を潜めながら近付く伊賀者の姿があった。
彼は、目の前で同僚を惨殺された者。忍びの世界は、常に冷静沈着な者だけが生き残る。それに、戦場で味方が死ぬなど日常茶判事だ。この程度で動揺していては、とてもではないが忍びは務まらない。
だが……だが、それでも仲間が目の前で嬲り殺しにされれば、誰だって怒りが湧くものだ。
(死ね、この腐れ外道がっ! )
音も無く彼岸花の背後に忍び寄り、その首筋目掛けて刀を振りかぶる男。そんな危機的状況下にも関わらず、彼岸花は平然とした態度を保ったまま首を横に倒した。
「あぁ、そうそう。僕を殺したいのなら、水仙くらいの投擲術を身に付けて遠距離から狙うか、桔梗くらいの近接格闘術を修めないと無理だよ? 」
刹那、一本のクナイが宙を切り裂き男の喉元を貫く。即死。背後で崩れ落ちる男の事なんて気にも留めず、彼岸花はクナイを投げた水仙の下へ笑顔を浮かべながら駆け寄った。
「おーい! 水仙ー! おつかれー! 」
「お疲れ様ではありません! 今、私達は戦場にいるのですよ! 何処に敵兵が潜んでいるかも分かりませんし、他の者達も懸命に戦っているのです! 貴女は、もう少し十傑としての自覚を……」
「え〜? そんな、かたいこと言わないでよー。僕だって、ちゃんと仕事しているんだからさぁ〜」
「それは、私も分かっております! 故に、貴女はタチが悪いと言われるのです! 」
ぷりぷりと怒りながら彼岸花を叱っているのは、白百合隊第二席 水仙。投擲術の達人であり、十傑の中でも上位に位置する戦闘能力の持ち主。委員長気質な彼女にとって、自由奔放な彼岸花は悩みの種であり、何かと世話をやいてしまう対象なのだ。
「……はぁ、全くもう。貴女は、本当に変わりませんね。今回ばかりは、貴女でも少しは気負うかと思ったのですが……どうやら、杞憂だったみたいですね」
肩を竦めながら苦笑いを浮かべる水仙。そう、今回の相手は一族の仇。あの悲劇を、あの地獄を忘れられる筈が無い。事実、あの松でさえ普段より表情が固かった。
だが、彼岸花にはソレが無い。
何故ならば、それ以上に気になる事があったから。
「……皆、戦っているんだよね? 」
「はぁ? 何を言っているのですか。当たり前でしょう? 耳をすませば、今も誰かが戦っている音が聞こえるでしょうに」
呆れるように答える水仙。だが、彼岸花はゆっくりと首を振った。
「それなら、尚更今の状況はおかしいよ。あまりにも、敵襲が多過ぎる。もう、十三回も死角から奇襲された。山の中なんだよ? まるで、僕達の場所を事前に知っているみたいだ。……多分、僕達の中に裏切り者がいる。それも、十傑の中に」
「んなっ!? 有り得ません、そんなこと!! 私達は、家族なのですよ! あの地獄を共に乗り越えてきた! それに、私達を救って下さった主様を裏切るような者なんて――「裏切っていたのは、との様に出会う前だとしたら? 」――っ!? 」
口元を押さえながら目を見開く水仙。彼女の脳裏には、最悪の想像が浮かんでいた。彼岸花は、そんな彼女を一瞥すると新五郎達が居る方角へ視線を向けた。
「段々と、戦闘音が遠ざかっていってる。皆、離ればなれにされてるのかな? ……だとすれば、動くなら今だよね」
足に力を込める。
【縮地法】
例え、足場の悪い山道でさえも、この技法を極めていれば風よりも早く駆ける事が出来る。
勿論、邪魔が入らなければの話だが。
「……なるほどね。そりゃあ、警戒するよね」
「あれはっ! 」
視線の先には、八人の黒装束の男達。水仙も、速やかに臨戦態勢へ移行する。数は、伊賀者達の方が上。技量も上々。されど、彼岸花の表情には一切の焦りは見えなかった。
「悪いけど急いでるんだ。君達に構っている暇は無い。……邪魔をするなら殺すよ? 」
ゾッとするような冷たい笑みを浮かべ、彼岸花は一足飛びに伊賀者達の間合いへ入った。
***
刺客を軒並み倒して駆け抜ける彼岸花と水仙。しかし、既に状況は最悪の方向へと動いていた。
新五郎の斜め後ろ。茂みが漂う殺意で歪む。
「……分かっているわ。貴女は、天からの祝福を一身に賜った特別な存在。愛し子。選ばれし者。そんな貴女には、雑兵を幾ら用意してもせいぜい時間稼ぎにしかならないもの――ねっ! 」
ヌッと、音も無く茂みから飛び出す一つの影。誰も気付かない。気付けない。踏み込む音も、茂みを揺らす音も、空気を切り裂く音も聞こえない。
極めた縮地は、世界から切り離されて矛盾すら覆す。隠し続けてきた牙が、新五郎のうなじを抉らんと迫った――次の瞬間、地を這う一つの影が間一髪のところで凶刃から新五郎を守った。
「――っ!? な、なんで……貴女が此処に……っ」
「……貴女……だったのね。…………紫陽花」
新五郎を守ったのは、白百合隊三日月 竹。
新五郎を襲ったのは、白百合隊第九席 紫陽花。
アジサイの花言葉は、【移り気】
開戦から半刻、遂に裏切り者の正体が判明した。