34話
後に、この戦いで生き残る事が出来た一人の男が息子に語った。
虚ろな瞳。吐き気を催す濃厚な血の臭い。救いを求める声。許しを乞う者。眉ひとつ動かさず、淡々と殺戮を繰り返す兵士。怒号。悲鳴。絶叫。
その日、あの場所には地獄のような光景が広がっていた……と。
***
歪んだ悪意が蠢く。
酒井忠次率いる弓兵達による一斉掃射は、戦場から離脱する尾張の民達を、情け容赦なく貫いていった。
「――っ!? ァ、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ツ!! 」
「た、誰か……たすけ……」
「何処に逃げれば良いんだっ!? 」
「な、なんで俺達が狙われるんだよぉっ!? 」
共鳴し合う悲鳴。既に、彼らに抵抗出来る気力は無い。今も尚、絶え間無く降り注ぐ死の雨によって、仲間の腕を、足を、胸を、頭を貫かれてるいく度に、彼らの心は恐怖で埋め尽くされていく。
あぁ、溢れる涙は誰のモノか。流れる鮮血は川を赤く染め、大地は瞬く間に死体によって溢れかえる。
徳川家康にとって、無断で戦場から離脱する者達は敵兵と同義であり、慈悲をかける対象では無い。それに、洗脳された三河の民にとって、尾張の民も三法師と同様に抹殺対象なのだ。目の前で幾ら死のうが心を痛める事は無い。慈悲などありはしない。ただ、淡々と作業のように殺していくだけ。童が、何の意味も無く蟻を踏み潰すように。
まさに、地獄絵図であった。
そして、そんな悲劇を目の当たりにし、激情のままに走り出した一人の少年がいた。
「ゃ……ろ……。……っ、止めろぉおおおっ!! 」
「――っ!? 待て、千丸!! 」
力丸の制止する声を振り切って駆け出したのは、森兄弟の末っ子である森 千丸。その視線の先には、足を矢で貫かれて悶え苦しむ青年の姿が。
「うおおおおおおおっ!! 」
懸命に手を伸ばし、苦しむ青年を敵の射程から逃がそうとする千丸。今年十五歳になるこの少年は、偉大な父や兄の勇姿を追いかけるようにこの戦いにて初陣を果たした。
……それ故に、彼の精神力は幼く未熟であり、その正義感のままに動き出した結果、たった一人で敵兵の前に姿を晒す愚行を冒してしまった。
「……ぁ」
向けられる無数の視線。殺気。弓兵達の狙いが、まんまとその身を晒した愚か者に向けられる。
傷付く人を見たくない。助けたい。
……あぁ、実に尊い願いだとも。だが、勇気と無謀は違う。一瞬の判断が命取りになりかねない戦場において、いっそ冷徹なまでの客観的視点は備え持たねばならない義務だ。多くの者を救いたいと願うのであれば、それを成す為の策を考えよ。劣勢を覆す武力を身に付けよ。仲間を募り苦難に抗え。それが出来ないのであれば、自らの命をもってツケを支払わねばならない。
無謀な行いをした、そのツケを。
「……撃て」
「せ、千丸ぅうううっ!!! 」
放たれる無数の矢。一瞬、空中で鏃が光り輝いたかと思えば、次の瞬間には千丸目掛けておびただしい量の矢が降り注いだ。
最早、千丸を助ける事は出来ない。確定された死の未来に誰もが目を逸らした――刹那、戦場を一陣の風が吹き抜けた。
――轟っ!!!
「――っ!? ケホッ……ケホケホ……ッ! 」
凄まじい烈風と何かが粉々に砕ける音が響き渡る。吹き荒れる土煙。千丸は、尻もちをつきながら腕で顔を隠すも、僅かに砂を吸ってしまったのか激しく咳き込んでしまう。しかし、一向に痛みが襲って来ない。千丸は、恐る恐る瞑っていた瞼を開けると、そんな千丸を案ずるような声音が彼の耳に入ってきた。
「ご無事ですかな、千丸殿? 」
「さ、才蔵っ!? 」
目を見開く。そこに居たのは、森家に仕える最強の武将の姿。その周囲には、砕けた矢の残骸が所狭しと乱雑しており、才蔵や千丸の身体には一本足りとも刺さっていない。撃ち落としたのだ、この男は。あれ程の矢をたった一人で。
才蔵は、ニカッと悪戯気に笑ってみせると、千丸の首根っこを掴んで力丸へ放り投げた。
「うわぁっ!? な、なにを――」
乱暴に扱われて憤る千丸。しかし、続く言葉は出てこなかった。
「……千丸」
「っ!? あ、兄上……っ」
氷のような冷たい視線、声音。千丸は、小さい悲鳴を上げながら後方へと下がっていった。鬼のような形相をした力丸に連れられて……。
その様子を楽しげに見ていた才蔵の前に、酒井忠次が躍り出る。
「……貴殿が、噂に名高き【笹の才蔵】か」
「おうとも! 我こそが、森家に仕えし武人 可児才蔵である!! ……だが、その笹の才蔵ってのはあんま気に入って無いんだよなぁ……。こう、威厳が無いって言うか……」
腕を組みながら首を捻る才蔵。隙だらけ。しかし、誰も動く事が出来ない。言葉を紡ぐ度に増していく圧力に、誰も彼もが呼吸を忘れて視線が引き寄せられる。
「槍の……いや、それだと前田様と被るな。では、古今無双……いや、それだとホラ吹きみたいだなぁ。…………う〜む。……ハッ! ……んん! 我こそが、矢薙ぎの才蔵。たった一振りにて百十三もの矢を薙ぎ払いし者! 森家に忠誠を誓いし者にして、未来ある若者を守りし者っ!! この俺がいる限り、そちらさんの思惑通りにはいかせないぜぇ? 」
『……っ』
ニヤリと不敵に笑ってみせた直後、才蔵から溢れる闘気が一瞬にして場を支配する。ふざけた名乗り。お調子者のように緩んだ頬。されど、その瞳に宿る怒りの炎は鬼神の如し。
【退け】
瞬間、嵐のように吹き荒れる凄まじい圧力が徳川軍に向けられ、酒井忠次も思わず後退ってしまった。言葉には言霊が宿る。才蔵の武力を酒井達は肌で実感した。悟ってしまったのだ。彼は、本多忠勝の同等の存在だと。
可児才蔵。
二年前、若狭国の統治を信長より任された勝蔵と共に、若狭国へ向かった元赤鬼隊の一人。その才は、慶次郎から太鼓判を押される程。何せ、これまでの戦場で討ち取ってきた首の総数は歴代屈指であり、彼の宝蔵院流槍術の開祖 覚禅房胤栄に槍術を学んだのだ。戦国最強の一角と称される訳が良く分かる。
そんな才蔵だが、若狭国に着いて早々にとんでもない偉業を成し遂げた。
当時、才蔵は二十九歳で勝蔵が二十五歳。歳が近く、同じ槍使いの二人は、主従としても友人としても非常に良好な関係を築いており、才蔵は勝蔵が慣れない政務に日々悪戦苦闘している事を知っていた。
それ故に、才蔵は「勝蔵が政務に集中出来るように、これからは俺がお前の分まで槍を振るってやる! その代わり、宴では一番美味い酒を飲ませてくれよ! 」と勝蔵に笑いかけ、勝蔵もその条件を喜んでのんだ。
その直後だ。国人衆が小さな反乱を起こした。目的は、若き領主の度量を確かめる為。前領主が五郎左だったのも悪かったのかも知れない。経験豊富で器の広い名君が治めていたが故に、器無き主など我らは決して認めぬと挑発したのだ。
その数、凡そ百五十。鍬や鉈で武装した農民が殆ど。そんな彼らが決起集会を行っていた広場に、才蔵がたった一人で現れ……蹂躙した。
僅か、半刻にも満たない決着。死者は無し。全て峰打ちで地面を転ばされていき、最後に頭領の首筋に穂先を添えた勝蔵は、ゾッとするような冷たい視線を向けたまま口を開いた。
「今後、この若狭国は森家が統治する。上様より、正式に受領されたのだ。異論は認めん。これより、森家に生涯変わらぬ忠誠を誓え。従わねば殺す。……良いな? 」
「は、はひ……」
頭領の男は、恐怖に震えながらぎこちなく頷いた。この一件以降、勝蔵は滞りなく五郎左より若狭国の統治を引き継ぐ事に成功。才蔵は、若狭国の国人衆から、もう一人の鬼だと畏れられたのだった。
そんな才蔵だが、その表情は依然として険しいままだ。彼に与えられた任務は、徳川家の中枢を担う武将を討ち取る事。目の前にその対象がいる。一騎打ちならば確実に勝てるだろう。しかし、それと戦の勝敗は別だと才蔵は分かっていた。
「……新五郎の旦那」
視線を向ける先は、酒井忠次の遥か後方。信雄と新五郎が戦っている場所。
「このままでは、幾ら首級を挙げても勝ち目は無い。ここからでは、家康の首はあまりに遠く、守るべき民が多過ぎて離れられん。……旦那、頼みましたぜ」
槍を握る手に力を込める。先ずは、無抵抗な民を狙い撃ちにしてくれたこのクズ野郎共を薙ぎ倒す為に。
「可児才蔵。いざ、参る!! 」
最強が、今、動いた。