32話
天正十二年五月二十一日 岐阜城 城下町
ゆっくりと簾が上へと巻かれていき、薄暗かった視界に光が射し込む。輿が完全に停止した事を確認してから立ち上がると、手前に小さな足場のような出っ張りが見えた。おそらく、本来の用途とは違うだろうけれども、まぁ幼子の体重を支えるくらい平気だろう。遠慮なく使わせてもらった。
「よっ……と。うんうん。どうやら、予定通り最前線まで来れたみたいだね」
手をかざしながら辺りを見渡すと、前方に武装した兵士達の姿が見えた。
……うん。左が信雄軍で右が家康軍だね。本当に、左右で兵の表情が全然違う。この様子だと、五郎左の推測通り尾張の民達は信雄が誰に対して戦を仕掛けているのか知らないんじゃないかな? 兵達の中には俺の顔を知っている者もいるのか、青ざめる者や目を見開いている者も結構いる。
まぁ、京で行われた御馬揃えとか、何故か岐阜でも行われた御馬揃えの影響もあるのだろう。何かと市井にも顔出してたしね。意外に顔見知りは多いのよ。
(おかげで、新五郎には上様の悪いところを継いでしまったって頭を抱えられたけど……って。……嘘だろ。あれ、漁師のゴローさんじゃん。あっちには農家の吉爺もいるし。ヒデさん。あんた、結婚したばっかりじゃないか。何で、こんなところに……っ。……殺したくないなぁ。死なせたくない。説得すれば逃げてくれない……かなぁ? )
胸が痛む。そうだ。これは、本質的には内乱なんだ。敵に顔見知りが居ても不思議じゃない。だけど、そう簡単に割り切れる問題では無かった。
少し動揺してしまったのか、僅かに膝が震え始める。すると、前方から上擦ったような声が聞こえてきた。
「んな……っ!? ば、馬鹿なっ!? 何故貴様が此処にいるのだっ!! 」
「……ん? 」
声のする方へ視線を向けてみれば、一際立派な甲冑を身に纏う武将がこちらを指差しており、何やら予想外な出来事にでも遭遇したのか酷く動揺していた。変な仮面を付けているので顔は良く分からんが、きっとアレが信雄だろう。どっかで聞いた事のある声だし。
(んで、あっちが家康……か)
視線を横へ逸らす。こっちも何か変な仮面を付けているが……うん、間違いない。徳川家康その人だ。その粘ついた視線を忘れる筈が無い。
(正直、この二人には色々言いたい事があるし、ふざけんなって引っ叩いてやりたいところだけど……。良いだろう、相手になってやる! )
俺は、覚悟を決めると更に半歩足を踏み出した。それによって全身が太陽の光に照らされると、より一層兵士達の動揺が顕著になっていく。
「さて、正念場だ」
俺は、睨むように信雄と家康へ視線を向けた。
静寂。
誰もが、俺の一挙一動に注目している中、颯爽と俺の隣りへ歩み寄った勝蔵は、敵兵の方へ半歩足を踏み出すと力強く槍を地面へ叩きつけた。
「こちらにおわす御方をどなたと心得る、織田家当主 織田近江守様にあらせられるぞ! 一同頭が高い、控えよぉおおっ!! 」
「……平伏せよ。余が、織田近江守である」
『……っ!? 』
勝蔵の御叫びと俺の名乗りが戦場中に響き渡り、それと同時にこの胸の内をぐるぐると渦巻く感情を一気に放出させると、最前列にいた敵兵は次々と槍を落として尻もちをついていった。
「……ふぅ」
思考を切り替える。誰にでも優しく接する幼子から、裏切り者は決して赦さず断罪する織田家の当主へと。
敵軍全体に動揺が広がっている。この意識の隙を見逃してはならない。一度息を深く吐き、扇を左手に持ち替えて右手を懐へ伸ばす。掴んだ。指先が僅かに震えるも、キッと顔を引き締め直し、しっかりと右手に掴んだその一枚の文を信雄へ突き付けた。
「これは、一体どういう了見か」
ビクリと、信雄は肩を震わす。
「ここに、織田尾張守信雄の意を示す。織田信孝並びに、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉の五名は、幼き主君 三法師が政を行えない事をいい事に傀儡化し、五名の都合の良いように織田家を操っている。これは、まさしく謀反なり。真に織田家を思う忠臣よ。今ここに安土へ集え。我らが主君をお救いするのだ。……ほう、余が傀儡である……と? 中々、面白い冗談では無いか。……のぅ? 三介叔父上? 」
「そ、それは……」
文の内容を読み上げる。すると、動揺しているのか、声を震わせながら頻りに家康へ視線を向ける信雄。だが、家康はソレに応える事は無く、ただジッとこちらへ視線を向けていた。
その底なし沼のような視線に思わず鳥肌が立ってしまったが、そんな不安を振り払うように凛とした鈴の音が聞こえて正気に戻る。
(正直、気味が悪いけど。……致し方ない。家康の事は一旦横へ置いておこう。兵士達の様子を見て良く分かった。彼らは、信雄が挙兵した本当の理由を知らない。この文に書いてある通り、俺を救う為だと宣いているのだろう。おそらく、真実を知っているのは側近だけだ。……なら、先ずはその前提を覆すっ! )
俺は、文を懐に仕舞って扇を右手に持ち替えると、バッと勢い良く広げて信雄へ突き付けた。
「貴様の言い分は事実無根であり、その身勝手な野心で多くの罪無き民を死なせた悪行は断じて許される事では無い。言語道断である! ……そして、何よりも主君である余を愚弄し、世のため人のためにと献身してきた五郎左達を侮辱した貴様を余は決して許さぬっ!! 」
扇を持つ右手が震える。躊躇しているのでは無い。これは、純粋な怒りから来るモノ。
「よく聞け、謀反人 織田三介信雄よ! 今ここに、織田家当主織田近江守として裁きを下す! 貴様は、今この時をもって織田家一門衆から追放とする! 官位も帝へ返上とし、謀反人として斬首した後に京にて三日間晒し首とする! そして、信雄に助力して兵を挙げた黒田官兵衛並びに徳川家康も同様に処罰の対象である! 自らが犯した罪から逃げられると思うなっ!! 」
「つ、追放……斬首……晒し首……ぅぁ……っ」
『殿っ!! 』
よろりと馬上にて体勢を崩す信雄。それに馬も驚いたのか、軽く首を振りながら二、三歩後退してしまう。
(やはり、信雄は家康に唆されただけ。主君に対して謀反を起こす……その意味を真に理解していないから、命を懸ける覚悟が出来ていない。……もう、許す事は出来ないけどね)
そんな信雄を家臣達が慌てて身体を支えるも、一度晒してしまった醜態は隠す事は出来ない。俺は、続けて兵士達に向けて語りかけた。
「余の親愛なる民達よ。どうか、武器を置いて投降してほしい。この中には、誰と戦うかも知らされずにこの場に居る者も多いだろう。顔見知り同士で争う必要は無い。進んで友を殺したい者なんて誰がいるものか。悪いのは、そなた達を騙した織田信雄と徳川家康である。今、投降するのであればそなた達は罪には問わぬ。……どうか、余の願いを聞いてほしい。そなた達には、帰りを待つ家族がいる筈だ」
『……っ』
その瞬間、一人、また一人と槍を地面へ落としていった。心から引き出されたモノでなければ、人の心を惹きつけることは出来ない。きっと、俺の敵味方関係ない真摯な祈りが、兵士達の心へ響いていったのだろう。
俺は、そんな彼らの様子に心から安堵の溜め息を吐いた。
――だが、それを許さぬ者がいた。
「ふ、ふざけるなぁあああああっ!! 」
絶叫。肩を震わせながら顔を上げた信雄の瞳は、まるで今まで溜め込んできた憎悪が浮き上がってきているかのように血走っていた。
「お前のような幼子に何が出来る! どうせ、家臣達に政務を任せて、己は上座で座っているだけのお飾りだろうがぁ!! ただ、兄上の嫡男だからという理由で当主の座に着いた貴様に、一体何が出来るというのだぁ!! 」
「き、貴様……っ」
「良い、勝蔵」
「しかし! 」
「言わせておきなさい」
荒ぶる勝蔵を制しながら信雄へ視線を向ける。愚かな。自分の都合のいい側面しか見れぬ男が日ノ本を背負える筈が無いだろうに。
ただ、能を舞っていれば良かったのだ。それだけで良かったのに……。
(故に、残念だよ)
「織田家は俺のモノだ! 兄上亡き今、序列一位はこの俺だ! 三法師でも、三七郎でも無い。この俺こそが織田家の当主に――「そのような未来は無い。貴様は、此処で死ぬ運命だ」
信雄の台詞に被せるように別れを告げる。俺は、ただの時間稼ぎに過ぎない。彼らが、俺の存在に気付くまでの。
刹那、ドゴンッと門が勢い良く開かれたかのような音が響き渡ると、ナニかが凄まじい土煙を上げながら斜面を駆け下りてきた。
そう、それこそが俺が待ちわびていた存在。
「我らが主君 近江守様が、直々に救援に駆け付けて下さったぞ! これに応えずして何が家臣か! 皆の者、私に続けぇぇぇえええええっ!! 」
『おおおおおおおおおおおおっ!! 』
新五郎率いる岐阜勢が戦場へ舞い降りる。
天下分け目の大戦が始まろうとしていた。