31話
織田信長の人生を表す城は三つある。
織田信長の英雄譚の始まり 清洲城。
織田信長が飛躍を遂げた 岐阜城。
織田信長が栄華を極めた 安土城。
そのどれもが、織田信長を語る上で決して外せぬ物語が詰まっている。後世に生きる民の間で、偲び草として語られるであろう輝かしい偉業の数々がそこにあるのだ。
そして今、岐阜城の歴史に新たな物語が紡がれようとしていた。
***
時は、一日前へ遡る。
天正十二年五月二十日 岐阜。
実の所、五郎左の推測はピタリと当たっていた。
信雄・家康連合軍が、この岐阜城へ辿り着いたのは昨日の事。岐阜と尾張を繋ぐ街道は、信長の頃より街道整備が行われていた事もあり、小牧山城を出発した信雄軍は三法師の想定を上回る速度で進軍していたのだ。
これに対し、新五郎は籠城を決意せざるを得無かった。兵力差は五倍。織田家一門衆からの謀反に、家臣達も酷く動揺している。このまま無闇矢鱈に突っ込んでも、多くの兵士達が犠牲になるだけだろう。兵士達の命を預かる将として、玉砕覚悟の突撃を仕掛ける訳にはいかなかった。
……だが、三法師へ忠誠を誓う一人の家臣として、このまま逆賊共を安土城まで行かせる訳にはいかない。故に、新五郎は僅かな手勢を率いて岐阜城を出た。己が命を対価に、一世一代の大博打へ打って出たのだ。
定石通り墨俣へ足を進める信雄・家康連合軍。彼らは、ここまで強行軍だったが故に、川の近くで暫し足を休めていた。
そこへ、新五郎率いる三十の騎兵が突撃。奇襲で最前列に居た兵士達を蹴散らすと、火矢を補給隊目掛けて撃ち込み、即座に馬を返して離脱。それに対し、当然の事ながら猛追する信雄軍だったが、待ち構えていた鉄砲隊五十人による一斉射撃により前線が崩壊。慌てて態勢を立て直す頃には、既に新五郎達の姿は無かった。
このように、少人数での奇襲や伏兵を繰り返すこと五回。多くの負傷者を出し、二百名が死亡しながらも、新五郎の狙い通り信雄軍を岐阜城まで誘導する事に成功した。
まんまと嵌められた事を察した家康は、信雄に対し先ずは様子を見るように進言。しかし、散々弄ばれた信雄はそれを拒否。兵力差は歴然だと力攻めを宣言した。名目上、織田信雄が総大将故に家康は致し方無く引き下がり、なるべく三河勢の犠牲が少ないように立ち回る他無かった。
そして、五月二十日申刻。
織田信雄率いる五千の軍勢が、岐阜城城下町を守る大門へ差し掛かった。破城槌が門へ当たる度に宙が揺れ動く。対するは、西美濃三人衆が一角 稲葉一鉄率いる三百の古強者達。兵力差は歴然。されど、彼らの中にはそれを嘆く軟弱者など誰一人としていやしなかった。
ギシギシと、大門を支える金具が悲鳴を上げる。そんな中、稲葉は大門の正面にて兵を背に槍を地面に突き刺し、来るなら来やがれと眉間に皺を寄せながら仁王立ちしていた。
「所詮、我らは古き時代の死に損ない。血で血を洗う死闘の果てに栄光を手に入れてきた。名誉も、金も、女も全てこの手で勝ち取ってきた。この手を汚してきた。それを、恥じる気も懺悔する気も有りはしない。それこそが、この乱世の理だからだ! 」
『…………』
「……だが、その乱世も終わりを迎えようとしている。天下泰平の世。そんな平和な世界には、我らのような者達に居場所は無いだろう。戦うしか能がないならず者だからなぁ。寿命が尽きるその日まで、平和ボケした世界で惰眠を貪るのだろうよ」
――んな余生なんざ、真っ平御免よなぁあっ!!
「儂は、死ぬその時まで武人として生きる! 戦場で生き、戦場で死んでやる! 死闘の中にこそ儂の居場所があるのだ! 死線を潜り抜ける度に、儂は生を自覚出来る! 儂のこの血は、この腕は、この頭は戦う為にあるのだ! そうだろ!? お前達ぃ!! 」
『おおおおおおおおおおおおっ!!! 』
熱狂。誰も彼もが、この場所こそが己が求めた死に場所なのだと叫ぶ。老兵達の瞳に炎が灯る。
稲葉は、その声を一身に受けると、不敵な笑みを浮かべながら槍を天に掲げた。
「ならば、この戦場で死ね! 武人として死ね! この戦は、確実に後世に語り継がれる大戦となろう。そのような大戦で戦う。決して敵兵に背を向けず、前のめりに死んでいく。……まさに、武人の本懐!! 誉れある死。今日、この戦場こそが我らの死に場所ぞ! 」
ギシリギシリと金具が悲鳴を上げる。大門が崩れ始める。
「さぁ、行くぞお前達! 城から見守る若い衆に見せてやれ! 戦場で生き、戦場で死んでいった真の武人の姿を!! 」
……そして、遂に大門は壊された。
「突撃ぃぃいいいっ!! 」
『うぅぅぅおおおおおおおああああっ!! 』
五千対三百。
岐阜城下の戦いが幕を開けた。
戦いは、大門付近に集中していた。無論、信雄達は横からも攻めようとしていたが、それを許さぬと大立ち回りを繰り広げる一人の武人がそこに居たのだ。
「どうした、どうした、どうしたぁああ!! 仮にも主君に刃を向けた謀反人の分際で、死に損ないのジジイ一人殺せねぇのかぁあああ!! 」
「誰か、誰かたすけ……」
「何で、槍が刺さっているのに動けるんだ!? 」
「く、来るなぁあああ!? 」
「誰か、あの化け物を止めろ!! 」
「待て! 他の奴らも化け物揃いだ! 奴ら、死ぬ事を全く恐れていねぇ! 自由にさせたら、これみよがしに突っ込んで来るぞ! 」
「んじゃあ、どうすりゃ良いんだ!? 」
『う、うぎゃぁぁぁぁああああっ!? 』
阿鼻叫喚。
ひとたび槍を振るう度に、一人、また一人と地に伏していく。返り血で甲冑を紅く染め、心底楽しそうに首を斬り飛ばすその姿、まさに羅刹の如し。この状況に、堪らず信雄が兵士達を叱咤激励するも、誰も彼を止める事は出来ない。
その様子を最後方にて見守る家康の側へ、側近である石川数正が駆け寄った。
「報告致します。戦況は拮抗。岐阜勢の抵抗凄まじく、三百という少数にも関わらず尾張守様は攻めあぐねている様子。殿、いかがいたしましょうか」
「……うむ」
眉間に皺を寄せながら考え込む家康。
(兵力差を考えれば、ここは慎重に事を進めて押し潰すのが上策。下手に攻め急げば手酷い痛手を負いかねぬ。この城下町さえ押さえる事さえ出来れば、後は信雄に五千を預けて岐阜城を取り囲み、斎藤利治率いる岐阜勢を封じ込め、その隙にワシ自ら一万を率いて安土へ攻め上るのみ。……計画通り進んでおる。しかし、何だこの焦燥感は。嫌な予感がする)
ヒリヒリと痛む首筋を押さえながら、家康は思考を張り巡らせ続ける。その横顔へ西日が射した瞬間、バッと家康は西を向いて青ざめた。
「ま、まさか……」
「殿? 」
「……行け」
「は? 」
「後詰めを出せ! 直ぐに、信雄に加勢するのだ! 手遅れになる前に城下町を占領せよ! 」
「は、ははっ!! 」
慌てて伝令に走る数正。家康は、親指を噛みながら岐阜城を睨みつけた。
「やってくれおったな、青二才がぁ!! 」
怒りに震える家康。家康は、軍勢を率いて安土城を目指せば、必ず新五郎が立ち塞がると確信していた。端から籠城は選ばない。その前に、一度は野戦を挟む。そこで、岐阜勢を徹底的に叩きのめす。安土城攻めの邪魔をさせないように。
そう、例え新五郎達を籠城へ追い込んでも、背後を突かれる程の兵力を保たれていたら意味が無いのだ。五千の兵で周囲を囲っても、千から二千の兵士がいれば一点突破されかねないから。
家康は、残り一万の兵力を解き放った。もう、手段を選んでいる余裕は無い。速やかに稲葉達を討ち取り、勢いそのままに城下町を火の海にする事で、城に籠る新五郎達を炙り出す策を打ったのだ。
だが、家康の策は新五郎によって看破されていた。
大門付近で戦っていた稲葉達は、少しずつ少しずつ中央へ押されていった。
五千だった敵兵が、七千、八千、九千と増え続ける度に、稲葉達は徐々にその数を減らしていった。一万五千対三百。多勢に無勢。二百、百、五十……。気が付けば、稲葉一鉄の周りには味方は誰一人残っていない。代わりに、槍を構えた敵兵がグルリと周囲を囲う。絶体絶命。そんな危機的状況下にも関わらず、稲葉は不敵に笑った。
「……残念だったな。時間切れだ」
刹那、稲葉の背後から火の手が上がる。岐阜城寄り、城下町の半分が一瞬にして業火に呑まれた。そう、稲葉達が時間を稼いでいる隙に、新五郎達は大量の油を辺り一帯に撒いていたのだ。油なら大量にあるのだ。三法師が、女の子の為にとあたり一帯に植えていたツバキの樹木。それから作られる椿油が。
「た、退避ー! 退避ぃー! 」
「消火だ! 早く火を消せぇ!! 」
堪らず避難する信雄達。水を持ってこようと川へ走る者達。それを嘲笑うように、稲葉は最後の力を振り絞って西を指差した。
「日暮れだ」
夕陽が沈む。刻一刻と黒が空を染め上げる中、業火を背に稲葉は笑った。
「ハッ! 俺達の勝ちだ」
夜の帳が下りる。呆然と立ち尽くす反逆軍。稲葉一鉄は、そのマヌケ面を嘲笑いながら生涯に幕を閉じた。
もう、信雄達に強行軍を続ける気力も残っていない。此処で一晩を明かすしかなかった。
結果として、新五郎は二千五百の兵を保ったまま一日時間を稼ぐ事に成功する。その一日が、歴史の分岐点となった。
***
そして、時は三法師達が到着した五月二十一日へと巻き戻る。
焼け落ちていく城下町の側で一晩を明かした信雄達は、夜明けと共に行動を開始した。包囲網の要となる砦作りをする為に。
しかし、その直後に背後から三法師率いる五千の軍勢が到着。予期せぬ出来事に動揺する信雄だったが、隣りで爛々と瞳を輝かせる家康に侮られてはならぬと顔を引き締め直した。
だが、予想外だったのは三法師とて同じ事。互いに動こうにも動けぬ膠着状態。敵の動向を伺いながら状況を確認していく。
そんな時、両軍の間を高らかな法螺貝の音色が吹き抜けた。瞬間、三法師軍の兵士達が左右に分かれて一筋の道が出来る。鈴の鳴る音。大男達に担がれながら、ゆっくりと最前線まで上がって来る一台の輿。その簾が上がった瞬間、信雄の手から軍配が零れ落ちた。
総大将である三法師が、反逆軍の前へ躍り出たのだ。




