27話
天正九年 七月 武田勝頼
「なんだとっ! それはまことか!? 」
「はっ! 確かな筋からの情報です。信憑性は高いかと」
釣閑斎からの報告に、思わず腰を上げてしまった。父上から、『大将ならもう少しどっしりと構えよ』と、お叱りの声が聞こえた気もするが……これは致し方ないだろう。
それ程、釣閑斎がもたらした情報は驚愕の内容だったのだ。
「まことに、あの三法師殿が相模に行くと言うのか? 確か御歳二つであろう、わざわざ北条家まで何用だと言うのだ? 」
三法師殿……岐阜中将殿の御子息であり、前右府殿の直孫。僅か二つにして、その才覚は全国に轟いている。そんなお方が、何故危険を承知で相模まで行くと言うのだ?
「三法師殿は、京での御馬揃に参加したと聞きます。その行動力と大胆さ、まさに織田殿の血を色濃く継いでいると言えましょう。であれば、北条家まで行くのも頷けまする」
「むう……確かに……」
前右府殿が、ここまで勢力を拡大する事が出来た要因の一つとして、その尋常ではない迅速さが挙げられる。何事においても、相手の想定を遥かに超える早さで手を打ってくるのだ。
兵は神速を貴ぶと言うが、前右府殿のアレは異常だ。三法師殿はその血筋だと、言われてしまうと納得してしまうな。
「徳川殿に会う為、わざわざ浜松まで行った事も、何やらきな臭いですな」
「……徳川……か」
高天神城の一件は、心苦しい選択だった。岡部には本当に申し訳なく思っている。
高天神城救援の兵は何度かあげていたのだが……謙信公の死が無ければ、結果は変わっていたかも知れない。
……いや、惨めな言い訳はするまい。俺は前右府殿が怖かったのだ。もし、俺が後詰を出して前右府殿の怒りを買ったら、その時こそ武田家は終わりだと考えたのだ。
だが、結果を見れば高天神城の一件以来、家臣や国人衆の信頼を失い、武田家を窮地に追いやってしまった。
「徳川家、北条家共に織田家に臣従しております。であれば、此度の三法師殿の北条家訪問の意図が見えてきましょう」
「武田……か」
「左様、武田家侵攻の前段階だと思われます」
遂に来るのか……織田・徳川・北条と三方面から攻められれば、今の武田家に勝ち目は無い。
なんとか、武田家を残す策を考えなければならぬ。でなければ、父上に顔向けが出来ん!
「どうにか、三法師殿に接触出来ないものか」
俺が小さく呟くと、釣閑斎の目が怪しく光った様に見えた。何か策でもあるというのか?
「三法師殿を通じて、織田家と和睦するおつもりですかな? 」
「あぁ、そうだ。三法師殿の母親は父上の娘、その身体には武田の血が流れておる。どうにか、その縁を辿れぬものか……」
織田家との和睦は、前々から進めておった。確かに、父上と前右府殿は対立をしていたし、俺も戦場で相対する事もあった。
だが、勝てない戦をして家を滅ぼすくらいなら、頭を垂れて許しを乞う覚悟は決めていた。例え、この首と引き換えになろうとも、織田家との和睦を成しとげねばならない。
故に、信勝を元服させたのだ。
俺の覚悟を汲み取ってくれたのか、釣閑斎は重々しく頷き口を開いた。
「……危険を承知のうえなのですね。ならば、この釣閑斎、覚悟を決めましょう」
「策があるのか……」
「左様、穴山梅雪殿に北条家へ出向いていただきましょう。梅雪殿は、殿の親族であり信用出来るお方。居城の江尻城は、地理的にも北条家に近く迅速に対応出来ましょう。勿論、某が北条家、梅雪殿、三法師殿に渡りを付けまする」
梅雪……か。確かに奴は俺の従兄弟にあたり、徳川家、北条家を抑える為の重要拠点を任せている重臣中の重臣。
武田二十四将の一人として数えられる梅雪を、味方に出来れば他の家臣達の説得材料になる。
そして、北条家、三法師殿に対する誠意にもなるだろう。
だが、そう上手くいくものなのか。
「……出来るのか? 」
「この命に変えましても、見事成しとげてみせましょう! 」
深く頭を下げ、平伏する釣閑斎には覚悟を決めた男の姿そのものであった。
家臣がここまで覚悟を決めてくれたのだ。それに応えずして、何が主か!
俺は決めたぞ、何がなんでも織田家との和睦を成立させてみせる! この武田四郎勝頼、一世一代の大勝負だ!
「分かった! 釣閑斎、そちに全てを託す! 」
「ははっ! 」
釣閑斎は早速とばかりに、政務に戻った。武田家には時間が無い、それを良く理解しているのだろう。これ程までに頼りになる男を残してくださった父上には、頭が上がらないな。
さて、俺も早速行動に移さなくてはな。苦笑いしつつ、小姓を呼ぶと直ぐに俺の前に来てくれた。
「殿、お呼びでしょうか」
「うむ、太郎を呼んでくれ」
「ははっ」
小姓が出て行ってしばらくすると、太郎がやってきた。俺が呼び出した要件を考えているのか、不思議そうな顔をしている。
全く、太郎は武田家の後継者なのだから、もっとしっかりせんか!
太郎はここに来て、俺が真剣な顔をしている事に気付き、重要な案件だと悟ったのか速やかに平伏した。
「父上、お呼びでしょうか」
「うむ、そちには全て話しておこうと思ってな」
一旦間をあけると、張り詰めた空気が場を支配した。これから話すは武田家存続をかけたモノ、生半可な覚悟では到底耐えられまい。
「織田家との和睦を進めている」
「なっ! それは、どういう事ですか!? 」
太郎は荒々しく立ち上がり、真偽を問うてくる。
「上杉が使い物にならん以上、織田・徳川・北条の三方面から攻められれば、間違いなく我等は負ける。平安から続く名門甲斐武田家を滅ぼす訳にはいかんのだ! 」
太郎は苦々しい顔で、座り直した。太郎も頭では分かっていたのだろう。だが、感情が負けを認めたくないのだろうな。
ふっまだまだ青いな……この子が一人前になるまで支えたかったものよのぅ。
「どんな条件を下されるか分からぬが、甲斐一国が残れば万々歳だろう。それ以下の待遇でも文句は言うな。どちらにせよ、俺の首は無いものと考えよ」
「……ちち……うえっ! 」
「岐阜中将殿の御子息である三法師殿は、我が武田の血を引くお方だ、きっと悪いようにはされん。俺も妻の伝手を頼り北条家に尽力してもらえるよう頼むつもりだ」
「織田家との和睦が成立した暁には、正式に家督を譲る。だから……生きよ太郎」
「ぅぅぅぅっ!…………くぅっ! 」
泣くな太郎、男ならば父の死くらい乗り越えてみせよ。心配しなくても、そちを支えてくれる優秀な家臣達がいる。
すまんな、こんな不甲斐ない父で。偉大な父上とは大違いだなぁ、ふっこれでは、天で父上に笑われてしまうな。
だから、これが父の出来る最後の仕事だ。必ず我が子の命は救ってみせる。
それは、きっと父親として当たり前の事だから。
その日、躑躅ヶ崎館では夜遅くまで、太郎の泣き声が響いていた。
時代は大きな転換期を迎えようとしている。
長坂釣閑斎光堅 1513年生まれ
武田信玄の若き頃より仕える、武田家譜代家老
穴山梅雪信君 1541年生まれ
武田信玄の姉の子で、勝頼とは従兄弟
武田ニ十四将の一人
居城である江尻城は、駿河国庵原郡江尻にあり、北条家・徳川家に対する要とも言える重要拠点である。




