25話
天正十二年五月十四日 美作国。
黒田官兵衛との戦いは、最終局面を迎えていた。
蜂須賀小六の覚醒により、槍を真っ二つに砕かれて吹き飛ばされた官兵衛。
その様子に勝機を見た秀吉は、一気に勝負を決めに小六と十五郎を率いて突撃を仕掛けるも、官兵衛による反撃で逆に吹き飛ばされてしまった。
秀吉は、愛馬と共に地面に倒れ伏し、十五郎も全身の痛みに悶え苦しんでいる。とてもではないが、まともに戦える状態では無い。
そして、それは小六とて同じであった。
「…………っ」
意識はかろうじてあるものの、少し動かすだけで脇腹に鋭い痛みが走る。小六は、これは間違いなく折れていると確信した。これでは、満足に槍も振るえぬと。
されど、敵は待ってはくれない。ゆっくりとだが、こちらへ向かってくる足音が聞こえた瞬間、小六は地面に突き刺した槍に体重を預けながら立ち上がった。現状、官兵衛に太刀打ち出来る者は、蜂須賀小六ただ一人。ならば、倒れている暇など無い。
「ふぅー、ふぅー、ふぅー」
荒く息を吐き出しながら呼吸を整える。視線を上げれば、残虐な笑みを浮かべた官兵衛の姿があった。
地獄は、未だ始まったばかりである。
小六は、これより辿る己が未来を悟った。
蹂躙。
その様子を表すのに、それ以上的確な言葉は見付からない。
「はっはっはぁ!! どうしました? 動きが鈍ってきましたよ? 」
「…………っ」
(馬鹿な。この俺が押し……負けるだと!? 何だこの力は。とてもではないが軍師とは思えぬ……っ、よもや物の怪の類か!? )
悪態をつきながらも、小六は神経を研ぎ澄ませながら斬撃を凌ぎ続ける。一分一秒が、まるで何時間も経っているかのように感じられた。
終わらない地獄。果ての無い地獄。己の命を燃やし尽くさんとしても、どうにかこうにか時間を稼ぐ事しか出来ない。
だが、それで充分だった。
(こいつにトドメを刺すのは、この俺じゃねぇ。大丈夫だ。殿も、十五郎も諦めてねぇ。んな事、後ろを振り向かなくたって分かるさ。きっと、立ち上がってくれる。英雄になるのは、あの二人に任せるさ)
意識が朦朧とする中、小六は二人へ向けて望みを託した。文字通り、己の命を捨て駒にして。
そして、託された少年は立ち上がった。
今尚、激しく切り結び合う官兵衛と小六の戦いを横目に、十五郎は荒く息を吐きながら足を動かし続ける。震えが止まらない。感覚が無い。地面に立って歩いている自覚が無い。気を抜けば直ぐに倒れてしまいそうで。
そんな十五郎の姿は、誰が見ても取るに足らないと切って捨てるだろう。それ程までに、十五郎はこの戦場で誰よりも弱かった。官兵衛すら、ヨロヨロと歩く十五郎の存在を無視する程に。
それでも、十五郎の歩みが止まる事は決して有り得ない。亀のような進みなれど、気が付けば、目的地まであと数歩の所にまで辿り着いていた。
「あと……少し……っ」
意識が朦朧とする中、十五郎の脳裏には、あの日、亡き父 明智光秀と交わした言葉が鮮明に蘇っていた。
***
その日は、綺麗な満月が輝く夜だった。
【良いか、十五郎。孫子 曰く、兵は詭道なり。例え、双方に戦力差があろうとも、戦とは正攻法のみで決まる事は無い。情報を引き出し、流言を流し、敵将を調略し、伏兵を配置し、策を凝らし、敵を騙す。良いか、戦とは所詮騙し合いなのだ。如何に、相手の意識の外を突けるか。そこで、兵や兵糧の消費具合が決まる。如何に、鮮やかな大勝を挙げようとも、味方に余計な被害を出してしまっては落第点。兵を率いる将足らんとするならば、見栄えよりも戦の内容に重点を置きなさい】
【はい! 私も、沢山勉強して、沢山修練に励んで、いつかきっと、父上のような敵味方の損害少なく、見事に城を落とす立派な武士になってみせます! 】
【ははっ。それは、頼もしい限りだ】
父上は、嬉しそうに私の頭を撫でてくれた。
父上は、私の誇りだった。兵糧攻めの名手。日ノ本一の計略と策謀の達人。そんな父上が、私の為に時間を割いて指導して下さる。その僅かな時間が、何よりも大切な宝物でした。
だから、あの時の教えは一言一句全て覚えている。
【十五郎。この世には、人外の力をその身に宿す者達がいる事を覚えておきなさい。戦況をひっくり返す最強の単体戦力。認めたく無いが、力任せに策を食い破る理不尽は存在しているのだ。……毘沙門天の化身を名乗り、数多の戦で勝利を収めた軍神 上杉謙信。初陣にして次々と敵を斬り捨て、鬼若子と畏れられた長宗我部元親。その身に浴びるは返り血のみ、ただの一度も手傷を負った事の無い本多忠勝。雷を斬り払い、雷神と称された立花道雪。生涯不敗、剣の神と謳われた塚原卜伝。……皆が皆、人が成したとは思えぬ逸話を残している。並大抵の者では、一騎打ちで彼らに勝つ事は出来ないだろう】
【で、では、諦めろ……と? 】
【いや、それは違う。策を講ずるのだ。一人で勝てぬのであれば複数で囲めば良い。地の利を活かし、敵がその力を存分に発揮出来ぬように誘導すれば良い。勝者とは、対峙した者との駆け引きに勝った者を言う。敵を欺き、意表を突いて勝利を掴め。己が弱さを嘆くのでは無く、それをも利用して相手の意識の外へ出るのだ】
【弱さを嘆くのでは無く……ですか? 】
【そうだ。如何に、人外の力をその身に宿そうとも、複数で囲めばその分警戒せねばならぬ。その割合は、強い者程多く占めるだろう。逆に言えば、弱い者への警戒心は限りなく薄くなる。意識の外に出れるのだ。もし、その隙を突いて敵に傷を負わせる事が出来れば、それは勝利への活路となるだろう】
父上は、そう言うと私の肩に手を添えて視線を合わせた。
【良いか、十五郎。お前は、一人で戦況を支配出来る程の武力も才能も無い。これから幾ら鍛えようとも、武術の腕は並の武将以下であろう。けれど、その弱さを嘆いて立ち止まるのでは無く、最後まで諦めない強い心を持ちなさい。瞬時に、最善手を出せるように知力を鍛えなさい。……いつかきっと、父の言葉を真に理解出来る日が来る。その時まで、決して忘れてはならぬぞ】
【…………っ、はい!! 】
姿勢を正し、しかと父上の言葉を胸に刻む。その時が来るまで忘れぬように――
***
そして、遂に目的地に辿り着いた十五郎は、膝を着いて弓と矢を拾う。
「兵は詭道なり。己が弱さを嘆くのでは無く、敵の意表を突ける好機と心得よ。……父上、十五郎は、しかと父上の教えを覚えておりましたよ。きっと、今がその時なのでしょう」
スッと、短く息を吐くと、矢をつがえて弓を引く。段々と音が遠くなっていき、視界に映る世界がゆっくりと流れていく。
(誰も見ていない。気付いていない。自分一人だけの真っ白な世界)
初めて訪れる領域にも関わらず、何故か十五郎の心は平常心を保ち続けていた。確信があったのだ。自分は、この時の為に生まれて来たのだと。
「本当は、少しだけ不満だったのです。武術の才が無いと言われて。……私とて、一人の男。源氏の血を引く者として、彼の伝説の神秘殺し 源頼光様や、源平合戦の大英雄 源義経様のような立派な武士に憧れていましたから」
片膝で重心を安定させ、紡ぐ言葉で勇気を振り絞る。ボロボロな身体。未熟な精神。彼の大英雄とは、随分とかけ離れた姿だろう。
「父上……どうか力を貸して下さい。……この一矢に、私の全てを込める」
溢れる光。
彼の背に、数多の想いが寄り添う。
「名誉なんて欲していない。一族の汚名を返上しようとも思わない。ただ、この日ノ本に生きる全ての民に安寧の日々が訪れるのであれば、その光景を見る事が出来るのであれば、それで私達は充分なんだ。それだけで報われるんだ。……だから、その願いを阻む者は断じて許さぬっ! 」
少年は、英雄では無い。超人的な力も無く、神々の寵愛を賜る事も無く、日ノ本を何十年も段飛ばしに発展させられるだけの頭脳も無い。
だが、彼は誰よりも勇敢な心を持っていた。誰もが、諦めて足を止めてしまいそうな時、彼はそれでもと涙を振り払って前へ進む事が出来る。
道を切り開く者。光への道標。
泣きもする。笑いもする。怒る事だってあるし、色っぽい女の子に言い寄られれば赤面しながら顔を伏せるだろう。彼は、どこまでいっても年相応な人間だから。
だが、彼は諦めない。何度負けても立ち上がる。皆の願いを、期待を裏切りたくないと抗い続ける。強大な敵を前にしても、彼は守るべき民の前で何度でも立ち塞がるだろう。
勇敢なる者。無垢な心を持つ者。何度だって立ち上がる不屈の精神を宿す者。
――人は、それを勇者と呼ぶ。
真の勇者は、いつだって弱者の中にいるのだ。
「平和を疎む悪を穿て! 泰平の世を望まぬ悪を穿て! 其は、安寧の日々を望む願いの結晶! 受けるが良い、逆賊 黒田官兵衛よ。これが、人が紡いできた想いの結晶だぁあああっ!! 行っけぇぇぇえええええええっ!!! 」
咆哮。
凄まじい光の放流と共に、人々の願いを一心に込められた矢が、瘴気を切り裂いて宙を駆けた。
その道を阻むモノは無し。
宙を駆けた矢は、官兵衛の右目へ突き刺さった。