22話
天正十二年五月十四日 美作国。
ぬかるんだ大地。照りつける太陽。赤く染まる川。一面に広がる骸、骸、骸。鎧を泥と返り血で汚した戦士達が、戦場の至る所で入り乱れる。
戦況は混沌と化していた。
始まりは黒田軍優勢であった。
宮川を背に陣を敷く津田軍千二百。それを追撃せんと攻め立てる黒田軍三千。両軍の大将。津田信澄は最前線で果敢に槍を振るい、黒田官兵衛は軍の最後方にて指揮を振るう。
先日の雨の影響か、宮川の水量と勢いは通常よりも遥かに上回っており、僅かにでも足を取られればそのまま転倒してしまうだろう。それは、戦場において致命的な隙である。
故に、津田軍の選択肢は一つしか無い。徹底抗戦。撤退は現実的では無い。その姿は、まさに背水の陣。退路は絶たれていた。
眼前には、疲弊した津田軍の姿。最前線には大将 津田信澄の姿。それを見た黒田軍の兵士達の脳裏には、今まで津田軍から受けてきた度重なる嫌がらせが過ぎった。
武士の誇りに唾を吐き、勝つ事を諦め嫌がらせに徹し、矛を交える事を恐れてすぐ様撤退する腰抜け共。三度撃退しても尚、その刃は大将首に届かない。
苛立ち。ふつふつと湧き上がる激情。彼の姿を見た瞬間、黒田軍の士気が最高潮に達し、一人また一人と津田軍に襲いかかった。
しかし、その直後に流れを断ち切る伏兵が、黒田軍の背後より現れた。山を駆け下りて迫る三十の騎兵と七十の歩兵。先陣を切るのは羽柴秀吉。追従するのは、秀吉の右腕である蜂須賀小六に、彼の大罪人 明智光秀が嫡男 明智光慶。
予期せぬ伏兵。それも、死んだと思われていた男の登場に、黒田軍の兵士達の顔に色濃い恐怖が浮かび上がる。
背後から、敵が大声を挙げながら奇襲を仕掛ける。言葉では簡単だが、これを冷静に対処出来る者は殆どいない。例え僅かな敵勢であろうとも、人は予期せぬ事態に滅法弱い生き物なのだ。
そんな中、唯一笑みを浮かべながら余裕を保っていたのは黒田官兵衛のみ。彼一人だけでは、軍全体に及んだ動揺を完全には拭いきれなかった。
さぁさぁ、役者は出揃った。
馬上にて、瞳を閉じながら深く息を吐き、極限まで闘気を高める秀吉。それを守るように、左右に小六と光慶が武器を構える。両者共に馬から降りており、白兵戦に持ち込む腹積もりのようだ。
そして、近辺では秀吉の兵士達が果敢に黒田軍へ攻勢に出ており、黒田軍は官兵衛の救出に向かえていない。秀吉が連れて来た兵士達は、皆が粒揃いの精鋭陣。言われずとも己が役割を理解していた。倍近い戦力差がある黒田軍に勝つには、最早その大将首を討ち取る他無い。故に、この千載一遇の好機を逃せば秀吉達の敗北は決まるのだ。そうなれば、最早黒田官兵衛を止められる者はいない。
今、この瞬間こそが歴史の分岐点である。
***
さて、それとは対照的に敵の主力に囲まれ、絶体絶命の危機に瀕している官兵衛はというと……未だ、顔を右手で覆いながら高笑いを続けていた。
「くっくっくっくっく……。やれやれ、一体誰があの火の海の中から藤吉郎様を救出したのかと思えば……。くっ……くふっ……。よりにもよって、織田家を裏切った大罪人の血を引くそなたとはなぁ!! えぇ? 何とか言ってみてはどうですか? 主君殺しの明智殿ぉ? くっくっく……くはははははははーっ!! 」
「…………っ」
光慶の刀の柄が軋む。あからさまな挑発。理性が無視しろと諭す。本能が迂闊に踏み込めば死ぬと叫ぶ。されど、この激情を抑え込むにはあまりに若過ぎた。
「父上は、許されざる事をしてしまった。主君を裏切り、数多の同胞を斬り捨てた。二度と、その汚名を返上する機会は無いでしょう。……だが、父上は忠義に生きた。悩み、悔やみ、嘆き、その上で全てを呑み込み忠義に死んだ。……っ、何も知らない貴様が父上を侮辱するなぁ!! 」
「知っていましたよ」
『…………は? 』
さも当然のように言い捨てたその言葉に、秀吉達は唖然としながら息を漏らす。されど、官兵衛はまるで世間話をするかのように淡々と言葉を重ねた。
「えぇ、ですから、九条兼孝が明智光秀を唆した件でしょう? 当然、知っていましたよ。公卿が動く時は巧妙に己の痕跡を隠すもの。それ故に、見る者が見ればかえって不自然に際立って見えるのですよ。……まぁ、だから何だという話ですがね」
「き、貴様……っ、九条兼孝の思惑を知っていながら見過ごしたというのか! 織田家に忠義を誓う身でありながらっ!! 」
「えぇ、その通りですよ。あのままでは、近いうちに信長公は討たれる。そして、それを成せるのは、あの状況で明智光秀ただ一人。全て、分かっておりましたとも。当然でしょう? 」
「…………っ」
秀吉の瞳に怒りが灯る。当然だ。もし、事前に知っていればあの悲劇を回避出来たかもしれないのだから。
しかし、それ以上に怒り狂う者がいた。
「何も……思わなかった……のか」
「はい? 」
「何も思わなかったのかと聞いているっ!! 」
それは、血を吐くような叫びだった。悔しげに固く結ばれた唇。目尻に浮かぶ涙。奥歯が嫌な音を立てる。力の限り握られた刀の柄が悲鳴を上げる。
しかし、官兵衛はそんな光慶の様子も気にせず、当たり前のように頷いた。
「えぇ、特に何も。きっと、あれは信長公が辿る運命だったのですよ。因果応報。理解されない異端者の末路。信長公は敵を作り過ぎましたから。例え、九条兼孝を止めても誰かがまた同じ事をしたでしょう。結局、運命からは逃げられないのですよ。……まぁ、強いて言えば――」
――とある老人の無駄な足掻きには、久方ぶりに笑わせて頂きましたが。
その言葉を聞いた瞬間、光慶が絶叫を上げながら官兵衛に斬りかかった。
「貴っ様ぁああああっ!! 」
「……っ!? 馬鹿! 止めろ、十五郎! 」
刀を振りかぶりながら、一足飛びに斬りかかる光慶。その姿に、小六は目を見開きながら叫ぶ。
しかし、その忠告は一呼吸遅かった。
「フッ」
「……んなっ!? 」
官兵衛は、刀を槍の側面で滑らせて躱すと、光慶の脇腹目掛けて蹴りを放つ。よろめく光慶。それを追撃せんと高速の三連撃が放たれるも、横からそれを妨害するように小六の槍が伸びる。
「くくっ」
官兵衛は、敢えて深追いしないつもりなのか、易々と小六の槍をバックステップで避ける。仕切り直しか。そう思われた瞬間、小六が持つ槍の穂先が欠け、光慶の左腕の篭手が砕け散った。
「…………っ!? 」
「そんな……っ」
驚愕の光景に一瞬固まってしまう二人。その隙を見逃す程、官兵衛は甘く無かった。凄まじい闘気を練りながら音も無く光慶の側へ駆け寄ると、光慶の身体が間合いに入った時には、既にその槍は振るわれていた。
「あからさまな挑発に乗り、激情に身を任せて無謀な突撃を仕掛ける。あまりにも愚か極まりない行為ですな。あのような戯れ言を拾ってしまうのは、この耳ですかな? 」
「ガァァッ!? 」
ズバッと斬り裂かれる耳。鮮血を噴き出しながら右耳が地面に落ちる。苦痛に歪む顔。野獣のようなうめき声。堪らず、小六が駆け寄った。
「十五ろ――「甘い」
冷たい声音。背筋が凍る。殺意が心臓を穿つ。小六の視界には、まるで道端に転がる石ころを見るような視線を向ける官兵衛がいた。
「見た目で侮り痛手を負う。所詮、文官だと油断をする。この眼ですかな? 真実を見抜けない愚かな眼は? 」
「……ィガアァァッ!? 」
瞬く間に斬り裂かれる右目。燃えるような痛みに、悲鳴を上げながら後退る小六。そんな苦痛に歪む小六の命を絶たんと、死神の鎌がその首筋に狙いを定める。
「――っ、ほう」
――がしかし、寸での所で官兵衛目掛けて矢が空を駆け、官兵衛はやむなく追撃を中断して頭を下げる。その刹那、矢が地面へ突き刺さる。一瞬の判断。矢を放ったのは秀吉であった。
「先走るな! 数の有利を己から捨ててどうする! 囲んで叩くぞ!! 」
『……っ、御意!! 』
二人は、よろよろと痛みに耐えながら立ち上がり、獲物を構えて敵を見据える。しかし、官兵衛は槍を構えず微動だにしない。じっと、三人を見詰めながら浮かべる薄気味悪い笑みが、自ずと三人の背筋を凍らせた。
そんな異様な雰囲気に三人同時に一歩後退ると、官兵衛は穂先を地面へ向けて構えを解くと、大きく左腕を広げて一歩足を踏み出した。
「ああ、ああ。誠に、この世は愚者で溢れている。利を示し、道を諭してもその場の一瞬の激情に身を任せて無謀な行動を起こす。どうせバレないからと、人目を盗んで不正を働き私腹を肥やす。血筋など当てにならない。探せばそこらの民にも才覚のある者はいる。そんな事、本当は誰もが気付いておる。……であるにも関わらず、皆が皆、血統だけのボンクラ共を担ぎ上げる。あまりにも、不条理だと思いませんか? 生まれだけで人生が左右される。そんな停滞した世界、間違っているとは思いませんか? 」
『…………』
官兵衛の言葉に、小六と光慶はいきなり何を言っているのかと口を閉ざして眉を細める。そんな中、秀吉だけは思うところがあるのか、慎重に口を開いた。
「……それが、此度の謀反の理由か? この先に、貴様は一体何を見ている。日ノ本をどうするつもりなのだ? 」
「潰します。徹底的に潰します。武家も、公家も、農民も、そして帝も。この日ノ本を支配する仕組み全てを一度叩き壊し、それから新たに正しい世を作り直します。そうでもしなければ、誠の天下泰平など未来永劫訪れません。……腐った果実は棄てるのみ。そうでございましょう? 」
『…………っ』
その、あまりにもおぞましい計画に、一同唖然とする。何より、それを語る官兵衛の表情が先程から一切変わっていない。さも、当然のように日ノ本を一度滅ぼすと言い捨てたのだ。まるで、出来上がったばかりの陶芸品を、色が気に入らないと叩き壊すように。
光慶は、その異常な考えに冷や汗を流しながら零した。
「狂っている」
すると、官兵衛の顔が能面のように色が瞬く間に抜け落ちた。
「いや、違う。狂っているのは、この世界だ」
瞬間、官兵衛の纏う雰囲気が一変する。怒り。嘆き。怨み。ありとあらゆる負の感情が官兵衛を中心に渦巻いていき、やがて人型の怨念へと成り果てる。
武家の在り方に怒り、朝廷の在り方を憎み、商人の在り方を蔑み、農民の在り方を嘆く。
そして、いつしか、この世の不条理を嘆き、理不尽に血の涙を流し、人を見捨てた神に呪詛を吐いた。
ソレは、日ノ本全てを憎み、愛した。
日ノ本を愛するが故に、民を愛するが故に、家臣を愛するが故に、怒り、嘆き、狂い、叫ぶ。
人は、ソレを鬼と呼んだ。