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21話

 ■正十■年五月■四日 羽柴秀吉



 血を吐くような叫び声が響き渡り、儂は胸を掻き抱きながら少年を睨み付けた。

 じじいは、朝廷の策謀によって惑わされ、本能寺にて謀反を起こした。それは事実だ。しかし、それを聞いた当初、儂はそんな筈が無いと否定した。

 計略と策謀の達人。じじいの実績は、頭脳のみならず鋼の如き精神力があってのもの。それ故に、普段通りであればあのような罠には……っ。

 唇を強く噛み締める。

 儂は、あの謀反に間接的にではあるが関与しているのでは無いか。儂が、じじいを陥れていなければ、こんな事にはならなかったのでは無いか。

 そんな最悪の仮説が脳裏を過ぎり、常に罪悪感に蝕まれた儂は、じじいの嫡男の登場に、気が付けば全てを打ち明かしていた。

 罵倒されても文句は言えぬ。復讐したいと願うのならば受け入れよう。

 しかし、少年の答えは想定とはまるで違った。

「……えぇ、存じ上げております。父上も、私も貴方が私達へ敵対心を抱いている事は見抜いておりました。そのお陰で、我が明智家が幾度も窮地に立たされた事も。……その上で、羽柴様にお伝え致しましょう。私達は、貴方を恨んだ事はただの一度もございません。これからもです」

「…………なぁっ!? 」

 それ故に、少年の思わぬ返しに目を見開く。

 それは、どこまでも真っ直ぐな許しであった。いっそ、冗談だと思いたい程に。

 しかし、少年の瞳には怒りの色は見えず、澄んだ泉のような慈愛に満ちた色をしていた。

「確かに、父上は四国の一件でかなり焦燥しておりました。長宗我部討伐令が出された時には、どうにか彼を救えないかと思い詰める程に。……しかし、ソレを父上の起こした謀反と結び付けるのは筋違いでございましょう。貴方を恨む道理は無い。父上は、しかと己自身で決断したのです。最早、それしか道は無い……と」

「…………っ」

 その時、儂の中から何かが零れ落ちた。



 小さく首を振る少年に、儂は悔し気に歯噛みした。

(己自身で判断した事だと? ふざけるなっ! ならば、何故お前は……っ)

「……やはり、貴方は変わられた」

「……なに? 」

 ポツリと呟かれた言葉に眉を細める。変わった? そんな筈は無い。儂は、今も昔も何一つ変わっておらぬ。醜いケモノのまま。

 しかし、少年はそれでも否定した。

「いや、貴方は変わられましたよ。それも、良い方向へ」

 一瞬、少年は瞳を閉じて頷いた。まるで、何かを思い出すかのように。

「……確かに、父上は貴方を警戒していました。鳥取城、三木城での凄惨な兵糧攻めには、その様子を書き記した報告書を読むだけで血の気が引いたものです。……それ故に、その恐ろしいの一言では言い表せない熾烈さが、その己が身をも焼き尽くしかねない野心が、いずれ織田家を滅ぼす火種になる。その身を焦がす渇望は、数多の骸を作り出すだろう。父上は、そう貴方を評価しておりました」

「……であろうな」

 否定はしない。あの日、あの光景を見て笑っていたのは儂だけだったからな。皆、儂を畏れておったのを良く覚えておる。

「しかし、貴方は変わられた。……覚えておりますか? 二年前、安土城で行われた年賀の席にて、父上は貴方と盃を交わされました。共に毛利家攻略を目標とする間柄、積もる話もあった事でしょう。私は、給仕の真似事をしながらソレを見届けておりました」

 記憶の影に、歳若い小姓の姿がチラつく。あぁ、そうか。あの子か。

 少年は、そんな儂の様子にくすりと微笑む。まるで、ようやく思い出されたのかと言わんばかりに。

「……そんな中、私はしかとこの目で見たのです。貴方が、心から笑う姿を。近江守様を話題に出し、これで織田家は安泰だと笑っておりました。他者との間に壁を作り、常に仮面を被り続けていた貴方が。気付いておりましたか? とっても、優しい眼差しをしておりましたよ? 」

「…………っ!? 」

 ハッと、目を見開きながら口元を押さえる。

「きっと、貴方は近江守様の中に光輝く未来を見たのでしょう。自分達が歩いた道程を、更に先へと繋げていく次代を初めて認識した。故に、貴方は心から笑えたのですよ。この世に蔓延る差別を、理不尽を一掃する事が出来るかもしれない。そんな、希望を見たから……」



 ――貴方は、彼に夢を託せたのです。



「儂の夢……を? 」

「えぇ、貴方の夢をです。ソレが何かは存じ上げません。されど、貴方がその為に心身を研ぎ澄ませてきた事は分かります。全てを犠牲にしてでも成し遂げたい。己が身を切り裂いてでも、成し遂げねばならない大望があったのでしょう。……それを、ようやく託せる人が出来た。でなければ、近江守様の為にと柴田様へ頭を下げられる事は無かったと思いますよ? 」

「そ、それは……」

 儂の夢。差別の無い世。理不尽に虐げられない世。生まれで全てを縛られる、そんな腐った世をぶっ壊す。この閉ざされた箱庭から飛び立ち、誰もが己の心のままに歩いていける。そんな、輝かしい未来を夢見てきた。

 あぁ、確かにそうだ。三法師様なら、きっとこんな理不尽をぶち壊してくれる。皆が笑い合える世を築いて下さる。

 どうして忘れていたんだ。初めてお会いしたあの日、その真っ直ぐな心と瞳に救われた事を。

「私も、その話を聞いてようやく納得出来ました。きっと、父上はあの時にそこまで見抜いていたのでしょう。もう、あの頃の貴方では無い……と。だから、父上は私に一つの言葉と頼みを残しました。それを果たす時が来たのです」

 少年の両手が伸びて儂の両手に重なる。視線を上げれば、今までに無い程に真剣な表情をした少年の姿があった。

「私が、父上の代わりになります。父上の代わりに聞き届けます。だから、どうか貴方の胸の内をさらけ出して下さい。言えぬまま、伝えられぬまま溜め込み続けていたその想いを、今、此処で吐き出して下さい。……きっと、それが最後の禊となりましょう」

「…………っ」

 息を呑む。

 その眼差しが、その声音が、その表情が、じじいのソレと重なり合った。気が付けば、儂は喉を震わせながら叫んでおった。

「…………何故だっ。……何故、何も言わずに事を起こした! 何故、儂に何も言ってくれなかったのだ! ……っ、勝手に死んでんじゃねぇよ……馬鹿野郎がぁ!! ……ぅぅ……ちくしょう……っ、一人で抱え込みやがってよぉ。何が、しかと考えただ。お前が死んじまったら意味ねぇだろうが! ……クソッ……。本当に、お前は馬鹿……やろ……ぅう……ぅぁ……ぁあ……っ」

 胸が熱い。涙と共に塞き止めていた想いが溢れる。支離滅裂。儂は、じじいの事を憎んでいた筈なのに、何故儂はこんな事を口走っているんだ。何が言いたい。何を言いたい。憧れていたのか。儂は、その背に。



 少年は、ただただ儂が全てを吐き出すまで待ち続けた。そして、荒い呼吸音だけが響くようになると、少年は静かに口を開いた。

「羨望も、憧憬も、嫉妬も、憎悪も、貴方が父上に抱いた感情に嘘などありません。全てが、正しく貴方の本心。複雑怪奇。戸惑ってしまうのも無理はありません。その一つ一つの感情は、客観的に見れば正反対に思えますから。……しかし、その一見矛盾とも言える心の在り方こそが人を人たらしめる。表裏一体。人は誰しも、一人の対象に対して一つの感情しか抱かないとは限りません。貴方と同じように、羨望の眼差しを向けながらも心の奥底では嫉妬を覚えてしまう。それは、人として当たり前な事です。人の心は、貴方が考える程単純ではありませんよ? 」

 くすりと微笑みながら、少年は優しい眼差しを儂に向けた。

「貴方は、良く自身の出自を卑下しますが、そんな貴方を英雄視する者達もいるのです。恵まれぬ環境に生まれ落ちた者が、一国一城の主どころか、天下にその名を轟かせる織田家四大老の一角に。それこそ、後世に語り継がれる成り上がり物語でしょう! その背を、民は羨望の眼差しで見ているのです。無論、それに嫉妬する者もいます。蔑む者もいます。されど、貴方に焦がれる者もそれと同様に存在しているのです。身近にも、貴方の小姓達がそのような憧憬を抱いているのではありませんか? 」

「…………っ」

 言葉が詰まる。脳裏には、瞳を輝かせながら儂の背を負う佐吉達の姿が浮かび上がっていた。

 右目から、一筋の涙が頬を伝っていく。

 答えは、すぐ近くにあった。それに気付かなかった。気付けなかった。あぁ、なんと愚かな事だろうか。儂が何よりも渇望した願いは、皆に認められたい、儂を愛して欲しいという願いは、本当は既に叶っていたのじゃ。

 少年と……いや、十五郎と視線が合わさる。

「だから、どうか織田家を宜しくお願い致します。貴方ならば、私達は何一つ憂う事無く夢を託す事が出来ます」

「あ、あぁ、ああああぁぁぁぁ……っ!! 」

 その暖かな眼差しに、言葉に、胸の奥に住み着いていた魔物が薄らいでいく。拭っても、拭っても溢れ出す涙と共に、常に感じていた劣等感までもが吐き出されていった。



 気が付けば、もう儂の中に魔物はいなくなっていた。ぽっかりと空いた隙間に埋めるのは、じじいから託された夢の欠片。

 儂は、初めてこちらから十五郎へ視線を合わせた。

 そうだ。儂には、先ず言わねばならぬ事があるだろう。

「あの夜、身を呈して儂を助けてくれた事、心より感謝申し上げる。……そして、恥を忍んで一つ頼みがある。どうか、儂と共に官兵衛を討って欲しい。今一度、織田家の為に尽力して欲しいのだ」

 すると、十五郎は柔らかく微笑んだ。答えなど、最初から決まっていた。

「えぇ、喜んで。この十五郎、微力ながら羽柴様に助力致しましょう」

「……そうか。ありがとう、十五郎」

 十五郎の瞳に映る儂は、憑き物が取れたかのように晴れやかな表情を浮かべていた。



 その日、一人の人間が生まれ落ちた。




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