19話
■正十■年五月■四日 羽柴秀吉
地獄のような日々だった。
戦火に呑まれた町を見たことはあるか? 一面に転がる骸。死肉を貪る鴉。焼け焦げた家屋。異臭漂う広場。そこを徘徊する餓鬼が一匹。頬は痩せこけ、瞳は憎悪で真っ黒に塗りつぶされており、まともに食事も出来ぬ故、腹部は抉れたように凹み、あばら骨が浮き上がった骨と皮だけの身体を無造作に晒す。
この世の理不尽さを呪い。
昼間から酒を飲み、儂が必死になって稼いだ銭を乱暴に奪い、頬を殴り、吹き飛ぶ儂を見て嘲笑う義父。そんな屑に媚びを売る母を嫌悪し。
上等な衣に身を包み、当たり前のように愛を注がれる者を妬み。
意味も無く弱者を足蹴にし、虫けらのように蹲る弱者を嘲笑いながら搾取する武士共を恨み。
そして、そんな現状を変えられない己自身が。理不尽に奪われ続けることを、仕方が無いことだと受け入れてしまった己自身が。あまりにも弱い己自身が、この世で一番嫌いだった。
嫉妬。憤怒。強欲。憎悪
泥のように心の奥底に住み着く魔物。上様との出会い。織田家での生活。こんな儂を愛してくれた妻。そんな幸せな日々を過ごしていても、胸の奥底に渦巻く魔物は薄まるだけで、完全に無くなることは無かった。
……いや、当たり前か。そんな醜いモノこそが、儂の偽らざる本質なのだから。
強くなりたいと叫んだ純粋な願いは、やがて己の欲望に呑み込まれて変質していった。
――全てを喰い尽くしてやる。儂を蔑む者全てを、この手で引き摺り下ろしてやる。儂を嘲笑った者達全てに、儂が今まで受けてきた地獄を味わわせてやる。
それこそが、儂の原点じゃった。
***
場面が切り替わる。
そこに映っていたのは、多くの人々に囲まれながら朗らかに笑う老人の姿。それに背を向け、無表情で骸の上を歩く小男の姿。
光と闇。
対照的なその光景は、明智光秀と羽柴秀吉の人間性を如実に表しており、幾ら焦がれても同じ場所へは行けぬ現実を突き付けられておるようで。
……あぁ、そうだ。認めよう。
明智光秀。儂は、お前に憧れを抱いていた。
人道や情といった不確かなモノを尊び、朝廷や上様からの覚えも良く、民や同僚からも親しまれるその姿に、儂は身を焦がれる程に羨ましかった。疎ましかった。妬ましかった。
儂は……お前みたいにはなれない。人を、心から信じることが出来ない。ケモノには、人の心が分からない。何時も、最後に信じられるのは己の力のみだと痛い程に分かっていたからだ。
良く、儂のことを人たらしだと言う輩もいるがそれは違う。儂はただ、表面上を取り繕って接しているだけだ。頭を下げ、腰を低くし、相手の情報を調べ、その場その場に適した手札を切り、僅かな心の隙間に入り込む。そうやって、多くの者達に取り入ってきた。
だが、それは中身の無い空虚なモノに過ぎぬ。人からの信用は得た、信頼も築いた。しかし、果たして儂からはどうだっただろうか。皆が心から笑っていた時、果たして儂は心から笑えていただろうか。
あぁ、そうだ。
儂には、お前みたいには笑えない。お前みたいに、人を信じることが出来ない。人を、真に縛ることが出来るのは恐怖だけだ。上様のような人を惹きつける魅力溢れた御方でさえ、どれ程人に裏切られただろうか。どれ程、苦汁を舐めさせられたか。
段々と人が変わられていく上様を見て、儂は理解した。力で屈服させ、恐怖で心を縛り、契約で利を示す。それこそが、この乱世を渡り歩く処世術だと。情や人道など不要なのだと。
だが、お前は違った。
お前の傍には、何時も笑顔が満ち溢れていた。地位も、金も、名声も、子宝にも恵まれて……。
何が違うのだ。儂とお前の何が違うのだ。何故、そんなにも容易く人を信じられる。何故、裏切られても変わらない。何故、そんなにも正しく在れる。
何故、儂はお前のようになれないのだ。
儂が、不要だと切り捨てた全てを持ちながら、儂の血に濡れたこの両手では掴めぬ【幸せ】を謳歌するお前が…………。
――憎かった。
***
「…………ハッ! 」
心臓を握られたかのような鋭い痛みが走り、急激に意識が浮上する。短く息が零れ、それと同時に喉が焼けるような痛みが襲う。
「ゴホッ……ゴホッ……ウゥ……ゴフッ」
白くぼやける視界。ピクリとも動かない指先。微かに聞こえてくる物音。すぐ傍に、何者かの気配を感じ取る。
(ここは何処だ……? 地獄か? 儂は、あの時死んだ筈では……)
脳裏に浮かび上がって来るのは、最後に見たあの夜の光景。四方を囲う火の海。そこには、血に濡れた太刀の片手に佇む官兵衛の姿が――
「…………っ!? 」
その瞬間、思い出したかのように胸元に鋭い痛みが走る。痛みに悶えながら上体を起き上がらせると、そこには幾十にも巻かれた包帯と、赤く浮かび上がる袈裟斬りの痕跡。
「……うむ。なるほど……な」
震える手で傷跡をなぞる。
そこで、ようやく悟った。
どうやら、儂は死に損なったらしい。あの状況から生き延びるとは、つくづく悪運だけは強いのだなと自嘲してしまった。
深く深呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとだが右手を何度か握り、己の状態を確かめる。微かな痺れ。布が擦れる感覚。先程まで感じなかった手先の感覚が僅かに戻っている。
(どうやら、未だ動かせそうだ)
その事に少し安堵していると、そんな儂の様子に安堵するような声が横からかけられた。
「良かった。どうやら、意識を取り戻せたようですね」
「……む。おぬ……し、は……? 」
声に導かれるように視線を向ける。そこに居たのは、十代半ば程と思われる一人の少年。付きっきりで看病をしてくれていたのか、朗らかな笑みを浮かべながらも、目の下には濃い隈が出来ていた。
「おぬぅ……ぅぁ……」
喉が枯れて声が出ない。
「あぁ、少々お待ちください。今、水差しをご用意致しますね? 」
「うむ」
少年に背を支えられながら水を飲む。その際、横目で少年の顔を確認するが、やはり見覚えは無い。ただ、少年が纏う雰囲気が、どこか懐かしく思えてしまった。
「今、蜂須賀様が食料を調達しに出掛けております。戻りましたら飯の用意を致しましょう。少しでも口に入れなくては、治るものも治りませぬから」
「……小六も生きておるのか? 」
「えぇ、ご無事ですよ。昨夜も、羽柴様を救出する為にと、果敢に陽動役を買って出て下さいました。蜂須賀様のご活躍が無ければ、私は敵に発見されていたでしょう。……どうか、羽柴様からお褒めの言葉をお送り下さい。さぞやお喜びになりましょう」
「そうか。小六が…………」
目頭を押さえる。
共に乱世を駆けてきた友の変わらぬ忠義に、思わず胸が熱くなる。己の腹心であった官兵衛に裏切られたことも相まって、その思いは一入であろう。
しかし、直ぐに思考を切り替えて辺りを見渡す。今は、感動に浸っている場合では無い。何時、敵の襲撃を受けるか分からぬのに加え、未だにこの少年の正体が分からぬ。警戒を怠っては命取りだろう。
すると、少年はそんな儂の様子に考えを察したのか、問題ないと静かに首を横に振る。
「ご安心下さいませ。現在、敵は美作国を目指して進軍しており、この近辺には落ち武者狩りもおりません。それに、例え敵の追っ手が迫ろうとも、この場所を見付けることは不可能でしょう。……何せ、この隠れ家は公方様がこの地に滞在していた際に、秘密裏に建てられた物なのですから」
「……なに? 」
聞き捨てならない言葉に、思わず少年へ視線を向ける。
「どうやら、お忍びで市井へ出向く際に使われたようで。こちらへは、隠し通路を使って参りました。この場所を知っているのは極僅か。例え旧幕臣でも、殆どの者は存じ上げません。……ましてや、織田家の者でこの隠れ家の存在を知るのは、直接公方様より聞かされた父上のみ」
「…………っ!? ま、まさか……」
少年と視線が合わさる。その澄んだ瞳には、限界まで見開かれた儂の顔が映っていた。
記憶の中の男と少年の姿が重なる。
「羽柴様、名乗りが遅れてしまい申し訳ございません。……私の名は、明智十兵衛光秀が嫡男 明智十五郎光慶と申します。一度、貴方とは話せばならぬと思うておりました」
そこに居たのは、死んだと思われていた光秀の忘れ形見だった。