18話
天正十二年五月十四日 美作国 羽柴秀吉
その一族は、一人の男が犯した大罪によって、歴史の表舞台から消え去った。
犯した罪は主君への反逆。
咎人の名は明智光秀。
織田家の重臣にして、織田四天王の一角と称された傑物。……あの男の背に、どれ程の者が憧れを抱いたものか。
結果として、光秀の謀反によって、織田家は当主と多くの勇敢なる戦士を失い、裏切りの代償として謀反人は一族諸共処刑された……筈であった。
されど、その血は絶たれておらんかった。
「明智十兵衛光秀が嫡男 明智十五郎光慶。織田家の危機と知り、僅かながら手勢を率いて馳せ参じた次第。……羽柴様、共に戦いましょうぞ」
「……うむ」
力強く頷きながら、儂は隣りに立つ青年へ視線を向ける。僅かな援軍はあれど、戦況は依然として劣勢。そんな中、敵大将を前にしても、その堂々たる立ち振る舞いに陰りは見えない。大した胆力だ。
更には、齢十六でありながらも、その父親譲りの凛とした佇まいには、ある種の風格が備わっている。そして、その穏やかな瞳は荒んだ心を和らげる朗らかさを、瞳の奥に覗かせる蒼き焔は高い知性を、基本に沿った正眼の構えからは真っ直ぐな性根を感じられた。
「……まるで、生き写しだな」
その姿に、儂は在りし日の光秀の面影を重ね、眩い光から逃れるように瞼を閉じながら小さく呟く。
様々な想いを、その一文に込めながら……。
***
あの夜……官兵衛の襲撃を受けたあの日の夜。儂は、一人血の海に沈みながら漠然と己の死を悟った。
然もありなん。この業火の中、この傷でどう生き残れというのか。既に手足の感覚は無く、視界はぼやけ、世界から自分だけが切り離されたかのように音が遠くなっていく。
だが、後悔は無かった。佐吉達を逃がす為に一人で戦い、結果として官兵衛に敗れ、無様にも血の海に沈んだ。
されど、あの状況ではこれが最善の選択であった。逃げでも諦めでも無い。ただ、儂は二人に託したのだ。織田家を、三法師様のことを。
(であれば、何も後悔は無い。儂の意志を継ぐ者がいる。織田家に忠節を誓う若武者がいる。三法師様を支えたいと願う忠義者がいる。ならば、何一つ心配はいらない。安心して、このまま眠りにつけば良い)
そんな想いと共に、そっと瞼を閉じる。
すると、不思議なことに今まで生きてきた旅路が、次々と脳裏に浮かび上がってきた。
(あぁ、これが走馬灯というものか……)
儂は、何とも奇妙な感覚に身を委ねた。
ひもじい思いをしながら、毎日を必死に生きてきたあの日の影。
泥水を啜りながら飢えを凌いだあの日の影。
骸に囲まれながら一晩を明かしたあの日の影。
人攫いに狙われ、山道を涙ながらに駆けずり回ったあの日の影。
飢えに苦しむ弟達を救う為に露店の商品に手を出し、捕まってはボロ切れのように痛め付けられたあの日の影。
飢えを満たす為に人肉に手を出したあの日の影。
目障りだと罵られ、小汚いと腹を蹴られ、今日の寝床だと寒空の下馬小屋に押し込まれ、やっとの思いで手に入れた柿を肥溜めに放り投げられ、その日の稼ぎが悪いと義父に頬を殴られたあの日の影。
戦場で武功を挙げ、少しだが出世することが出来た日の夜。身分を弁えよと、家老の息子に罵られながら足蹴にされたあの日の影。
商人の真似事をしながら日々食い扶持を繋ぎ、その日常の中ですれ違う本当の地獄を知らないお気楽な武士や、漠然と日々を謳歌する者達に対し、狂おしい程の嫉妬に焦がれたあの日の影。
未だ、鮮明に覚えている地獄のような日々。
だが、そんな中にも幸せな時間は確かにあった。
上様との出会い。
『出自を問わず、殿様に気に入られれば召し抱えて下さる』
そんな冗談のような噂話を聞き、藁にもすがる思いで織田家の門戸を叩いた。そこで出会ったのじゃ。尾張の大うつけと言われていた、儂の終生の主に。
初めは不安じゃったよ。織田家の位置取りは、海道一の弓取りと謳われた大大名 今川義元に、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三と、強大な敵に挟まれるものじゃったからな。もう、毎日が命懸け。大した武力も無い儂は、どうにか敵と戦わぬように戦場を駆けずり回っておった。それに、肝心の殿様がうつけ呼ばわりじゃったからなぁ。何度、今川側に寝返ろうと思ったことか。
されど、そんな不安はあの日以降さっぱりと消えて無くなってしもうた。
……そう、あの桶狭間の戦いよ。
何万もの大軍率いて尾張国へ押し寄せる今川軍。籠城……いや、降伏しかない。重臣方が口を揃えて言う中、上様は飯の用意をしろと言い付けて自室へ戻られてしまった。
儂は、上様に飯を届けるように命令された。終わったと思うたよ。飯なんて食ってる場合じゃ無いだろう。こんなもの届けてたら、逃げ出す時間が無くなるじゃねぇか! ってなぁ。
そして、上様の自室へ到着した時、儂は優雅に敦盛を唄う上様の姿を見た。美しい光景じゃった。この世のものとは思えぬ程に……。
思わず見蕩れていると、不意に上様は口を開いた。
「怖いか? 」
「……は? 」
「手が震えておるぞ? 」
「…………っ!? 」
言われて初めて気付く。カタカタと震える手。それは、今にも押し寄せようとする今川軍に対してか、それとも人ならざる気配を醸し出す目の前の人物に対してか。
そんな心の中の葛藤も知ったことかと、上様はチラりとこちらへ視線を向け、つまらなそうに溜め息を吐かれた。
「お主は、いつも辛気臭い顔をしておるな。そして、酷く怯えておる。憎んでもおるなぁ。……そんな顔をしておったら、この面白い世界を楽しめんぞ? 勿体ない奴じゃ」
「…………っ」
お前なんかに、一体俺のナニが分かるっ!!
喉元まで出掛けた言葉を必死に飲み込み、無礼と分かっていながらも上様を涙ながらに睨みつける。無礼打ちされても文句の言えぬ蛮行。されど、上様は何も言わずに飯を掻き込むと、儂の頭を乱暴に撫でた。
「えっ……ちょ……なにを……っ!? 」
戸惑いながら視線を上げ……息を呑んだ。
「俺と共に来い。お前にも、面白い世界を見せてやろう! 」
ニカッと、悪戯げに笑う上様。
その視線には、儂が当たり前のように受けていた差別の色も、侮蔑の色も見えなかった。
(この方は、儂を一人の人間として見て下さっている。誰にも、対等の人間同士と扱ってくれなかった卑賎の出の儂を、この方は差別すること無く見て下さっているのだ……っ)
その事実に、儂は初めて心から涙を流した。心の奥底に住み着いていた黒き泥が薄らいでいく。
この方について行けば、こんな儂でも心から笑って過ごせる日が来るのかもしれない。こんな薄汚い儂でも、お天道様の下を堂々と歩けるような真っ当な生き方が出来るかもしれない。人生をやり直せるかもしれない。
そんな淡い希望が、暗く淀んだ儂の心に一筋の光となって射し込んだ。
儂は、この時、上様に救われたんだ。
あの一言に救われた。
儂にとって、武士とは身分の低い儂らを足蹴にし、搾取し、嘲笑う。出自や身分のお陰で地獄も知らずにのうのうと生きてきたクソ野郎共だった。
だが、上様は違った。あれから、必死に上様の後ろをついて行く日々だったけれど、今までとは違って世界が鮮やかに映った。世界とは、儂が見てきた光景が全てでは無かったのじゃ。
上様の為に、必死に武功を積み重ねた。何度も死線を潜り抜けた。その結果、身の丈に合わぬ身分を勝ち得た。一国一城の主となり、官位まで賜った。この卑賎の出の儂が!
上様は、嘘をつかなかった。
当然、そのことでやっかみを受けることもあった。されど、中には森殿や又左のような、同じ主君に仕える仲間だからと、出自を気にせず儂を褒め称えて下さる者もいた。奇妙様や三法師様といった、上様と同じ出自の差別を持たぬ次代も現れた。
この世も、捨てたもんじゃ無かったのじゃ。
あぁ、本当に幸せな時間じゃった……。
目の前に映る楽しげに笑う儂の姿に、心から素直な感想が溢れた。神か仏か知らぬが、死ぬ間際にこのような思い出に浸らせてくれたことを感謝する。
だけど、そうさなぁ……。これが、儂の全てでは無いな。上様に並び、儂の心を大きく占める人物が、未だもう一人残っておる。
そんな考えに応じるように場面が切り替わる。
あぁ、そうだ。
明智光秀。
そなたもまた、儂の憧れじゃった。