17話
天正十二年五月十四日 美作国 羽柴秀吉
宮川を背に陣を敷く津田軍。度重なる奇襲と嫌がらせに怒りを積もらせていた黒田軍は、今にも津田軍に襲いかからんと前のめりになっていた。
そこを、山の中に潜んでいた儂らが奇襲を仕掛ける。
「官兵衛ぇえええっ!! 」
儂の雄叫びに続くように愛馬が嘶く。賢い子だ。手綱を操らずとも標的が誰か分かっておる。緩んだ大地もしっかりと踏み締めており、山の傾斜を利用した加速も相まって、馬上より振るった槍は達人のソレと差程変わらぬ。
死角からの一撃。陣の最後方に居た官兵衛を守る者は少ない。上手くいけば致命傷。悪くとも手傷は与えられると確信した奇襲は、口元を大きく歪めて笑う官兵衛によって完璧に防がれた。
そう……まるで、この瞬間に奇襲が来ると分かっていたかのように。
「あはぁ……っ! やっぱり、生きていましたか我が主よ!! そう、そうですとも! 貴方程の英雄が、腹心に裏切られて死ぬなどという愚かな死に方はしない。やはり、英雄とは戦場で散り果てる者ぉ!! 劇的な最期を迎えてこそ英雄ぅ!! それに、こうでなくては面白無いぃ!! 」
「…………っ!? ……チッ」
官兵衛は、狂ったような表情とは裏腹に、膝を巧みに使って衝撃を地面へ流し、意図も容易く儂の一撃をいなしてみせた――刹那、首筋に強烈な殺気を受けて屈む。その数瞬後に、先程まで儂の首があった場所を横薙ぎの穂先が通過した。
内心冷や汗を流しながら舌打ちをすると、手綱を操って距離を置く。
「はっはぁ!! 逃がしませんよぉ!! 」
そこを追撃せんとする官兵衛。しかし、凄まじい勢いで後方より飛んできた小六が見事に防ぐ。
「殿っ! 単騎で突っ込まないでいただきたい! 何故、わざわざ危険を冒すのです! 尻拭いをするのは、いつもこちらなのですよ!? 」
「はっはっは、すまんな。官兵衛の顔を見たら、つい我慢出来なくてな」
「勘弁していただきたい! 」
冗談混じりに謝ると、小六と入れ替わるように後方へ下がった。小六の悲痛な叫びは、いつものように受け流した。その間にも、続々と集まっていく騎兵の数、凡そ二十。皆が皆、雄叫びを上げながら黒田軍目掛けて突進していった。
官兵衛の射程から外れると、軽く息を吐いて呼吸を整える。眼前には、雄々しく戦う家臣達の姿。
そんな中、儂と入れ替わるように官兵衛と戦っていた小六は、軽く官兵衛と切り結んだ後、直ぐにその場から離れた。事態に気付いた黒田軍が動き出したからだ。それと同時に、津田軍から雄叫びが上がる。数は少ないが、挟み撃ちにされた黒田軍の兵士達に動揺が走る。
刻一刻と変わっていく状況の変化に、儂は当初の計画を捨てた。
(……うむ。ここが潮時か。最初の一撃で決められなかったのだ。致し方ない)
儂の武力では、真正面から官兵衛の首を取ることは出来ぬ。それこそ、家臣達が手傷を負わせて弱らせたところを、横から止めをかっ攫うくらいで無くては不可能だろう。ここは、大人しく機を待つしか――っ!?
刹那、強烈な痛みが全身を襲う。
「――ッ!? ゲホッ……ゴフッ……ッ」
「殿っ!? 」
咄嗟に防いだ右手の血に汚れる。視界が歪む。ふらつく身体。重心を支える為に愛馬の首筋に手を置くと、愛馬は儂を心配するように鳴く。
そんな儂の姿に、官兵衛はニヤリと笑った。
「やはり、無理をしていたようですなぁ。その包帯も見せかけでは無い様子。……流石に、あの火事から無傷での生還は不可能でしたか」
「……チッ」
乱暴に口元を拭うと、舌打ちをしながら忌々しげに官兵衛を睨みつける。
当たり前じゃあ。あんな一面火の海の中、無傷で済む筈が無かろうが。そもそも、儂を殺すつもりで火を放っておいて、どの面下げて言うてるんじゃ。阿呆んだらぁ!
「殿っ! 今、そちらに――」
こちらへ駆け寄ろうとする小六は、視線で制した。今、お前が前線から退いたら均衡が崩れるだけじゃろうが。
(……もって、半刻といったところか)
軽く右手を握る。僅かな痺れ。腕に巻かれた包帯からは、滲み出るような出血がみられた。やはり、この身体では無理は出来ぬ。
(……いや、本来ならば立つことすらままならぬ大怪我を負っていたのだ。こうして、戦場に立てているだけ儲けものよ)
腹に力を込めて背筋を伸ばす。目の前には、何かの実験台を見るような視線を向ける官兵衛の姿があった。それを前に、儂は不敵に笑ってみせる。
「他愛ない。この程度の傷、貴様を相手取るには丁度いい足枷よ」
「……ほう」
槍を構える儂に、官兵衛は含みのある視線を向けた。おそらく、儂の身体の状態を凡そ察しておるのだろう。
今、儂の身体を動かしているのは気力のみ。命を燃やしながらこの場に立っておる。
……退く訳にはいかぬ。例え、ここで命が燃え尽きようとも戦わねばならぬのだ。今、ここで官兵衛を止められねば、勢いそのまま畿内を通過して安土城へ至るだろう。
それだけは許さぬ。
あの子は、儂にとって最後の希望じゃ!
「官兵衛、貴様はここで殺す。この命に替えても、貴様だけは必ず殺す。主君に牙を剥いた罪、その身に刻んでから地獄へ堕ちるが良い! 」
全身に走る痛みを怒りで押し潰し、殺意を溢れ出させながら槍を構えた。
それは、又左や権六殿から見ればあまりにも不格好な構えだろう。怒りに身を任せた結果、利き手は柄を握り潰さんばかりに力んでおるし、視界は真っ赤に染まって官兵衛だけを映しておる。
だが、儂はそれで構わなかった。
寧ろ、こうでもしなければ同じ土俵には立てぬ。官兵衛は、軍師と言えども儂と違って武術を収めし者なのだから、文字通り全身全霊をかけねば容易く切り捨てられるだろう。
(であれば、最初から攻撃だけを考えておけばそれで良い。下手な防御は考えるな。儂には、太刀筋を見切る眼も、捌く技量も無いのだ。所詮、この身体は既に死に体よ。今更惜しむモノでも無いわ! )
カッと、身体の中心から熱が溢れる。
相討ち上等。更に前のめりになる儂の姿に、官兵衛はより一層笑みを深めた。
「どうやら、それが最後の一振りなようですね。手負いの獅子が最も恐ろしい。私も、全力でお相手致しましょう。……ですが、やはり一点腑に落ちないことがございます」
「……なんだ」
「いや、単純な話ですよ。何故、貴方はまだ生きているのですか? あの傷で、あの業火の中に一人残されて。何故、その程度の傷で済んでいるのか。……それだけが、幾ら考えても検討がつきませぬ。あそこにいる蜂須賀殿とて、救出が間に合うとは思えませぬ」
「……ふっ。なんだ、そんなことか」
首を傾げる官兵衛に、儂はあの夜のことを思い出しながら笑みを浮かべた。
「なぁに、簡単なことよ。儂も、お主も、あの一族の主君に対する忠義を侮っていた。……ただ、それだけのこと」
「……はて? それは、一体誰の――」
官兵衛の言葉を遮るように、儂の背から馬の嘶く声が聞こえた。数十騎の足音。増援かと視線を向けた官兵衛の表情が驚愕に歪み、そして腹を抱えて笑いだした。
「くっくっく……くはははははははっ!! よもや、よもやとんだ珍客が現れたものよ! そうか、そうか。そなたが、あの火の海の中から藤吉郎様を救出されたのか。よりにもよって、織田家を裏切った大罪人の血を引くそなたが!! 」
「……ええ、左様にございます。それが、亡き父上の遺志にございます故」
若き武者が隣りに立つ。
その瞳には、一点の曇りも無い。
「明智十兵衛光秀が嫡男 明智十五郎光慶。織田家の危機と知り、僅かながら手勢を率いて馳せ参じた次第。……羽柴様、共に戦いましょうぞ」
「……うむ。忝ない」
方や槍を、方や刀を構えて敵を見据える。
役者は揃った。