16話
時は、少しばかり遡る。
天正十二年五月十四日 美作国。
未だ、三法師へ織田信孝の大友家制圧と、織田信雄が謀反を起こした事が知らされていないその時、この小さな国で歴史が動いていた。
常人の何手先をも見通し、機微に聡い主君を欺き、今、この瞬間において、この日ノ本という盤上を意のままにしている男。それが、黒田官兵衛という傑物だ。
だが、その神がかり的な策謀に、僅かな狂いが生まれた。そう、ほんの僅かな狂いが。それこそ、発覚したところで楽に軌道修正出来る些細なモノ。
されど、黒田官兵衛よ。
覚えていくと良い。
いつの世も、常識を覆した事柄には人の想いが大きく関わっていることを。人の想いは、感情は、決して数字で表すことなんて出来やしないのだと。
この日、とある男の名が歴史に刻まれる。
***
黒田官兵衛が五月十日に備後国 鞆の浦で謀反を起こしてから、既に四日が経過していた。
羽柴秀吉は炎の中に沈み、石田三成と加藤清正は安土へ走り、津田信澄は命からがら美作国へ逃げ帰る。
一見、討ち漏らしてしまったかと思う状況。しかし、この状況こそが官兵衛が描いた通りの展開であった。
(三成も清正も、あの方向からならば上手く監視の穴を抜けて逃げ出せただろう。兵の配置。火の回り。どれも、その道筋を通るように薄くしておいた。……これで、二人は予定通り十日後に安土城へ到着するだろう。後は、詰め将棋のように一手一手寄せていけば良い)
官兵衛は、優雅に扇を開きながらほくそ笑む。
自軍の兵力は三千と、予定の五千には届かなかったが、少ないならその分進軍速度は上がる。兵糧の消費も抑えられる。戦術など幾らでも思い付く。
勝ち筋は、既に頭の中に――
だが、そんな神算鬼謀の軍師に抗う者達がいた。
「我が軍を阻む者は無し……と、言いたいところでしたが、やはりそう簡単には参りませんか」
スっと、目を細める。
吉川元春。彼が魅せた最期の意地。それによって、官兵衛は鞆の浦で無駄に一夜を明かしてしまった。兵数も三千のまま。焼け落ちた館を調べてみたが、やはり秀吉と断定出来る遺体は見つからなかった。無駄な徒労に終わってしまったのだ。
別に、官兵衛は援軍を当てにしていた訳では無い。切れる手札は減ったが、安土城までの進行方向に位置する畿内の大名達は、その殆どが大友征伐で出払っている。反対側から攻めている家康がいる以上、こちらの戦力が三千でも問題は無い。
ただ、凡人による無駄な足掻きが、妙に癪に障るのだ。
パチりと、扇を閉じて立ち上がる。
「さて、ようやっと観念したかな? 」
視線の先には、宮川を背後に陣を敷く津田軍の姿があった。総大将は、織田家の血を引く津田信澄。その数は凡そ千二百。兵士達は、皆が皆全身泥で汚れており、乱れた髪が風になびく姿は落ち武者のよう。
対する黒田軍は、万全の状態で山を背後に陣を敷いた。数は三千。皆が皆、目を爛々に輝かせながら突撃する準備を整えている。
現在、黒田軍は美作国の地に足を踏み入れ、眼前にてちょろちょろと逃げ回り続けていた鼠を、今度こそ叩き殺さんとばかりに息巻いていた。
黒田官兵衛対津田信澄。
戦況は、明らかに黒田優勢。
何故、津田軍はこんなにも決戦前にズタボロなのか。それは、黒田軍との戦いはこれが最初では無いからだ。何と、既に両軍は三度小競り合いを続けており、その全てに津田信澄は敗北していた。
***
あの夜、官兵衛が秀吉が寝床としていた館を襲った同時刻。信澄が泊まる寺もまた、黒田軍による襲撃を受けた。皆が寝静まった夜だった為、ろくに状況も掴めず、着の身着のまま這う這うの体で寺を逃げ出した。
結局、信澄が美作国へ辿り着いた時、手元には数十騎の小姓しか居らず、信澄を逃がす為に殿を受け持った家臣達が兵を率いて合流したのは翌日の昼。大友征伐に追従した二千の兵士達は、その六割程である千二百弱しか残らなかった。
この状況に、家臣達は信澄に降伏を促した。
『相手が悪過ぎる』『このままでは、戦にすらならない』『命あっての物種でございます。ここは、黒田の軍門に下りましょう』
そんな言葉に、信澄は沈黙で返した。家臣達は、戦いもせずに降伏しなければならない現状を悔しげに思いながらも、敬愛せし主君を守る為、巧みに言葉を紡いで誘導する。
「では、黒田軍が去るまで山奥に身を隠しましょう。若様は、織田家を裏切る訳ではございません。ただ、じっと息を潜めるのです。黒田も、我らが何もしなければ見逃してくれるでしょう」
信澄に古くから仕える往年の男は、涙を流しながら情に訴える。信澄は、未だ二十七の若者。彼にとって、信澄とは才気のある前途有望な若武者なのだ。こんなところで犬死して欲しく無かった。
されど、信澄は頑なに首を縦に振らなかった。
「すまぬ。その道は選べない。それだけはならぬのだ。……そなたの気持ちは痛いほどに伝わっている。されど、織田家一門衆として主家に仇なす逆賊に背は向けられぬのだ」
そんな強い意志が込められた瞳に、家臣達は涙ながらに最期までお供致しますと誓う。後悔はある。もし、やり直せるならどれだけ良いだろうか。死ぬのは怖い。されど、その背を見るだけで不思議と震えは止まっていた。
『あぁ、私達は日ノ本一の果報者よ。こんなにも、素晴らしき主君と出会えたのだから……』
心に焔が灯る。
この瞬間、津田軍による徹底抗戦が開始された。
自領にて三百の兵を補充した津田軍は、直ぐに来た道を引き返した。総勢千五百。兵力差は二倍。されど、その瞳に【諦め】の二文字は無し。
「宣戦布告だ! 黒田官兵衛ぇ!! 」
『おおおおおおおおおおおおっ!!! 』
先陣を切る信澄と、雄叫びを上げながら追従する家臣達。その鬼気迫る表情と、予想だにしない奇襲に、黒田軍は後手に回らずにはいられなかった。
「焦るな! 数は、こちらが勝っている! 一人一人、目の前の敵を対処せよ! ……そこ、前に出過ぎだ! 弓兵は下がれ! 混戦になる! 馬から降りよ! 槍を捨て、刀を抜け!! 」
『御意! 』
凄まじい勢いで前衛が削られ、官兵衛は激を飛ばしながら後方へ下がる。入れ替わるように精鋭部隊が前線に躍り出る。移動の疲れか、津田軍の前衛が肩で息をする。その隙を見逃さんと、その首へ大太刀が振るわれる。鮮血が舞い散る。それに動揺した者達は、次々に黒田軍に討ち取られていった。
(……これなら、大丈夫そうだな)
官兵衛が言ったように混戦になっていく様子に、誤射を恐れた部隊長は弓兵達に構えを解くように指示を出す。
すると、弓兵が構えを解くタイミングを見計らったように、突如として津田軍は反転。致命傷を負っていた者や、鍔迫り合いをしていた者達が一斉に黒田軍の兵士達に掴みかかった。
『…………は? 』
勢い良く立ち去っていくその後ろ姿に、黒田軍は呆気に取られてしまった。慌てて弓を構えようとするも、その時には津田軍は既に遥か彼方へ。精鋭部隊も、慌てて自らの足や腰にしがみつく津田軍の兵士を振りほどくも、残念ながら直ぐに追撃出来る状況では無かった。
この戦いで、黒田軍には目立った被害は出ず。あっても軽傷程度。逆に、津田軍には二十四名の死者が出た。
結果だけを見れば、犠牲者を出してしまった津田軍の敗北。得たモノは殆ど無い。だが、それこそが信澄の狙い。
『…………殺す』
抜け落ちた表情。その怒りに満ちた瞳の先には、血や折れた木の枝といった津田軍の痕跡。追うなと言う方が無理な話であった。
その後、津田軍は執拗に黒田軍へ嫌がらせを始める。足首だけ埋まる落とし穴を掘り。遠方より石や糞を投げ。夜中に法螺貝を鳴らし。近隣の村の井戸に糞を投げ込み。黒田軍の兵糧部隊を狙って火矢を放ち。湧き水を糞で汚し。定期的に夜襲を仕掛け。腹の空かした野犬を放った。
更には、倉を燃やして黒田軍が兵糧を補充出来ないようにした。尚、絶望する黒田軍を高笑いしながら煽る者もいる。(無論、農民は脱出済みであり、燃やした食料は金銭で買取済みである)
この武士としてのプライドをかなぐり捨てた嫌がらせの数々に、黒田軍の兵士達は怒りを爆発させる。
『殺せぇぇぇええええええっ!! 』
その後、津田軍の姿を見掛ける度に、獣のような雄叫びを上げながら突進する黒田軍。その怒りは、官兵衛が抑えられる値を優に突破しており、狂戦士と化した黒田軍は、それから二度に渡り津田軍を撃退。あくまでも、直接的な戦闘を避けて搦手で嫌がらせに徹する津田軍も、じわりじわりと後退しながら数を減らしていき、気付けば三百の兵士を失っていた。
されど、黒田軍は、しぶとく逃げ回る信澄の首を討ち取る事がついぞ出来なかった。
***
しかし、遂に黒田軍は信澄の姿を視界に捉える。
背後に川。浅いが、それなりに長さはある。先日の雨の影響か、川の流れは普段より勢いがある。油断すれば足を取られるだろう。
まさに、黒田軍にとって、何よりも待ちわびていた信澄の首を討ち取る千載一遇の機会が訪れたのだ。
「さて、これで終いにしようか」
額に青筋を立てながら扇をへし折る官兵衛。いきり立つ黒田軍。絶体絶命の危機に陥る津田軍。
しかし、信澄は笑みを浮かべていた。
「機は熟した。後は任せましたぞ……藤吉郎殿」
刹那、黒田軍の背後に位置する山の中から、数十騎の伏兵が躍り出る。それを合図に、山の至る所から雄叫びが上がった。
『な、なんだ!? 』
動揺する黒田軍の視界には、全身に包帯を巻きながら突撃してくる一騎の騎兵。それを見た官兵衛は、口元を大きく歪めて笑った。
「やはり、生きていたか! 我が英雄よ!! 」
「……終わりだ、官兵衛」
振るった槍が交差する。
英雄 羽柴秀吉と軍師 黒田官兵衛。
決着の時は、直ぐそこまで迫っていた。