11話
天正十二年五月二十日 安土城
ダンッ! と、鈍い音が耳に届いたかと思えば、一陣の風が部屋を吹き抜けた。黒い影が、勢いを増す兄妹喧嘩の真っ只中に割り込んだかと思えば、瞬く間に甲斐姫は雪と高丸の関節に手を回し、魔法のような早業で二人をひっくり返す。
『……え? 』
何が起こったか分からず動転する二人。甲斐姫は、如何に二人の頭に血が上っていたとはいえ、一刀斎に免許皆伝を授かった剣豪の二人を意図も容易く制圧してしまった。
「全く、旦那様の御前で何をしているのですか! 今は、兄妹喧嘩をしている場合では無いのですよ? それに、旦那様が一向に姿を見せないので、何か問題でも起こったのかと一同心配しておりましたよ? 」
『お、奥方様っ!? (甲斐姫様っ!? )』
声が重なる二人。その様子に、甲斐姫はしょうがない人達ね……と、やや苦笑いを浮かべながら肩を竦めた。荒い息を整えようとする雪に、そっと手拭いを渡す仕草なんて女子が憧れる王子様そのまんまだ。流石、イケメン女子。
「……しかし、あの二人があんなにも容易く制圧されるなんて。甲斐は、いつの間にあれ程の体術を身に付けたんだ? 」
「あぁ、それでしたら、相模に居た時からあれくらい軽くこなしていましたわよ? 」
「……え? 」
甲斐姫を見ながら首を傾げていると、不意に横から補足をつけられ視線を向ける。すると、そこにはいつの間にか横にピッタリと寄り添っていた藤姫が、胸元に兜を抱えたままにっこりと微笑んでいた。
「あの子は、昔から武術の天稟の才を覗かせておりましたわ。薙刀を持たせれば、下手な武将相手でも勝利を掴めるでしょう。父も、もし甲斐姫が男だったのならば迷わず私を嫁がせたと言っておりましたわ」
それに……と、藤姫はこちらを向きながら悪戯げに微笑んだ。
「安土に来てからも、一刀斎や慶次郎達に密かに教えを乞うておりましたわ。時折ですが、白百合や赤鬼隊の皆様と朝の修練にも顔を出しておりました。……勿論、侍女の中には奥方の為さる行いでは無いと苦言を申されておりました。しかし、あの子は、『今は未だ、女としての責務は果たせずとも、いざという時に旦那様を護れるように』……と、胸を張って苦言を跳ね返しておりましたわ」
「……であるか。余は、誠に果報者よな」
「えぇ、誠に」
優しく微笑む藤姫。そんな彼女の登場に気付いた二人は、藤姫の持つ兜と小太刀を見て慌ててこちらへ歩み寄って来る。甲斐姫は、少しだけ表情を暗くした。
そう、もう出発の時間だ。
藤姫は、三人が見守る中、ゆっくりとこちらへ向き直り、小太刀を甲斐姫に返してから真剣な眼差しで兜をこちらへ差し出した。
「では、旦那様。兜をどうぞ」
「うん。ありが……と……っ。……藤……それは……」
受け取る瞬間、震える藤姫の指先に気が付いて手が止まる。そんな俺に、藤姫は自虐的な笑みを零した。
「……どうか笑って下さいまし。この後に及んで、戦場で旦那様を失う恐怖に呑まれてしまいましたわ……っ。武家の娘として、誠に……恥ずかしい限りですわ……っ」
『奥方様……』
そう言って、一筋の涙を流す藤姫。そんな彼女の名を、三人は悲痛な表情を浮かべながら口にする。三人は、駆け寄って慰めたくなる気持ちをグッと堪えていた。
――だって、それは俺の役目だから
俺は、何も言わずに藤姫の身体を抱き締めた。兜が痛くて邪魔だったけど、そんなこと気にせずにただただ彼女を抱き締めた。
「旦那様……? 」
「大丈夫。必ず、此処に戻って来る。皆、誰一人欠けること無く、此処に戻って来るよ」
「本当……ですか? 約束してくださいますか? 」
「勿論だよ。約束する。絶対に、此処へ戻って来る。だから、その日まで安土城を守っていて欲しい。余が帰る場所を、その日まで」
「安土城……を」
「うん。余の帰る場所を守って欲しい。……本当は、藤と甲斐には戦が終わるまで、京の近衛家や相模の北条家へ身を寄せて欲しかった。その方が安全だからね。……だけど、その考えは取り消す。藤と甲斐には安土城に居て欲しい。藤と甲斐は、余にとって帰る場所であり理由だ。だから、二人にはずっとこの場所で帰りを待っていて欲しい」
「ずっと……ですか? ふふっ……。旦那様は、本当に我儘……ですのね? 」
「あぁ、そうだとも。余は我儘なんだ。だから、何一つ取りこぼしたくない。全てを救いたい。新五郎を救って、逆賊共を討ち滅ぼして、無事に安土城へ帰って来る。そして、泰平の世を築くんだ。全部全部叶える。……約束だ。また、皆で平穏な日々を過ごそう。笑顔の溢れる幸せな日々を……」
「……っ、はい! 約束……ですわよ? 」
藤姫の両手が背に回る。いつの間にか、俺達を囲うように三人が身を寄せていた。それを振りほどくことはしない。ただただ、その確かな温もりを共有していた。
***
その後、身支度を整えた三法師一行は城を出て湊へ向かった。そんな彼らを、城に残る者達は無事を祈りながら見守る。
その中で、一際目立つ白の少女を藤姫は呼び止めた。
「雪、どうか旦那様を頼みましたわよ」
「……えぇ! お任せ下さい! この身に代えても殿をお護り致しますとも! 」
屈託の無い笑みを浮かべながら力強く宣言する少女に、藤姫は安堵の笑みを浮かべながら彼女を見送った。
二千の兵を率いて出航した織田本軍は、琵琶湖を経由して長浜城へ到着。既に準備を整えていた森長可と竹中重矩率いる軍勢と合流し、そのまま大垣城を目指した。大垣城に着いた頃には、既に陽は落ちており、織田本軍は大垣城で一夜を明かす事を決定した。
そして、その翌日。日の出と共に岐阜城へ向けて出発。大垣城から岐阜城までは約二十km程であり、昼までには十分辿り着けると思われていた。
きっと、間に合う……と。
しかし、岐阜城に着いた三法師を待ち受けていたのは非情な現実。
「童を殺すには周りが邪魔じゃ。安土城を中心に信頼出来る者達で固めておる。まるで、硬い甲羅に閉じこもった亀じゃ。あれでは、大軍を動かしたところで到底その首には届かぬ」
生者の気配が欠片も感じぬ焼け落ちた城下町。
「ならば、童自身が首を出すように仕向ければ良い。如何に強固な甲羅に籠ろうとも、岐阜城に手を出せば自然とその首をワシの前に晒す。何故ならば、童はその青臭い理想に拘るが故に、大切な仲間を見殺しに出来ぬものなぁ? 」
焼けた血肉の臭いが漂い、鴉が死肉を漁る。
「ただ……一つ礼を言わねばならんよなぁ? 童よ、貴様に感謝致そう。貴様が整備した街道のおかげで、予想以上に早く辿り着けたからのぅ」
――貴様のせいで、既に多くの者達が死んで逝ったぞ?
憎悪に満ちた笑い声が木霊する。
三法師率いる織田本軍を出迎えたのは、新五郎率いる岐阜勢では無く、逆賊 織田信雄・徳川家康率いる連合軍一万五千。
既に、岐阜城下は焼け落ちていた。
***
後世において、【最後の戦い】を語る上で決して外せないと謳われる三つの戦い。
五月十四日。美作国にて行われた黒田官兵衛と津田信澄の戦い。
五月十九日。加賀国と越前国の国境。そこから少し北上した金沢平野の先端にて、佐々成政と前田利家が雌雄を決した加賀の陣。
そして、五月二十一日。織田家と徳川家。その全ての因縁を断つ事になる岐阜の戦い。
どれも重要な戦いなれど、先ずは加賀の陣から語っていこう。
***
一方その頃、三法師が安土城を出発した同時刻。岐阜のとある山道を歩く者達がいた。
「父上ぇ〜何故、こんな山道を歩くのですかぁ? 街道沿いに行けば良いではないですか……」
歩き疲れて泣き言を吐く青年。そんな声を無視して、往年の男は意気揚々と先をゆく。
「うるさいぞ、源三郎! いいから黙ってついてこい! 皆の者、周囲の警戒を怠るなよ! 」
『ははっ! 』
「……はぁ、分かりましたよ。全く、父上は何を考えているのやら。…………ボケたのか? 」
「何か言ったか、源三郎!! 」
「な、なんでもございません〜」
泣きべそをかく青年。しかし、男は一切気にする事無く足を動かし続ける。
「さぁ、面白くなってきたぞ! くっくっく……血湧き肉躍るわい。多勢に無勢。四面楚歌。そんな逆境を覆し、相手の前で用意周到に仕組んだ策を打ち破る。……くくっ、これに勝る快感は無い」
男の足は、止まる事は無い。
「完成された策。手段を選ばぬ狡猾な引き抜き。詰んだ盤面。ならば、それを覆してみせよう。貴様らが、見落としていた駒でな。……さてさて、この長きに渡る乱世も終焉の時が訪れた。最後に、もう一花咲かせてみせようか」
男の名は、真田昌幸。
またの名を、対徳川決戦兵器。