9話
天正十二年五月二十日 安土城
「ありがとう、桜。また、君に救われたね」
「……っ、そんな……勿体なきお言葉で……っ」
「うん。うん」
泣きじゃくる桜の髪を梳く。
本当に、この娘は、優しく、脆く……そして、誰よりも強い娘だ。桜は、故郷を失った日以来、心に深く大きな傷を負った。
誰よりも、仲間を失う事を恐れるようになった。誰よりも、俺に依存するようになった。誰よりも、見捨てられる事を恐れるようになった。
桜の瞳に宿っていた恐怖の正体はソレ。首を切り落とされる事よりも、独断専行を行った罪を咎められ、主人である俺に捨てられる事を恐れていたんだ。身を震わせる程に。
だけど、それは杞憂だと桜の頭を撫でながら苦笑する。君を切り捨てる訳が無い……と。
確かに、独断で兵を動かした事は許されない事だけれど、そうしなければ勝蔵達は間に合わなかった。もし、あの失態を加味した沙汰を下さねばならないのなら、同時にその功績を評価しなければ不公平だ。
故に、身内とか関係無く、桜の此度の独断専行は不問とした。元々、勝蔵に使者を遣わす予定だったんだ。兵士や兵糧だって用意させていた。この三千の援軍は、後手後手に回っていた現状を一変させるだろう。官兵衛も予想出来ていない筈だ。
……まぁ、形だけの罰として戦場への同行を命じたけどね。命じなくても付いて来ただろうけど、それでもお咎め無しは双方にとって利は無いさ。
嗚咽の頻度からだいぶ落ち着いた事を察すると、いつの間にか横に控えていた松へ桜を渡す。
「松、桜を頼むよ」
「はっ。承知致しました。……ほら、桜? 参りますよ? これから戦支度をせねばならないのです。貴女も同行するのでしょう? 」
「……ぅ……ぅう……っ。は、はぃ……っ。殿、失礼致しました」
「構わないよ。身支度を整えておいで」
「はい……っ」
松に連れ添われ、ゆっくりと城へ戻って行く桜の後ろ姿を見て思う。これで、桜に助けられたのは二度目。本当に、白百合の皆には窮地を助けられてばかりだ。感謝の言葉が尽きない。もし、彼女達が望むのならば、この先、一生不自由の無い生活を送れるように保証する程に。
(……だけど、あと少し力を貸して欲しい。この先に待ち受ける敵は、君達の全てを奪った怨敵。仇討ちを果たす最後の機会なんだ。あれ程、切望していた……)
薄れゆく君の後ろ姿を見て思う。
お師匠からの文が届いた日の夜。安土城に居た白百合隊幹部五名を集めた。徳川家康。奴こそが、君達の里を襲った黒幕だと。
反応は劇的であった。あれ程までの憎悪を、俺は未だに見たことが無い。
薄れゆく君の後ろ姿を見て願う。
どうか、復讐を果たしたその先も生きて欲しいと。あまりにも儚く、朧気な君を見ながら切に願った。
***
松と桜が立ち去った後、勝蔵は平伏したまま俺に指示を仰ぐ。
「して、某達はいかが致しましょうか? 」
「うん。そうだね……」
強い意志の宿った瞳。やる気は十分ってところか。琵琶湖に浮かぶ森家の水軍。指示を待つ可児達と、順々に視線を向けた後、後ろで控えていた五郎左を手招きする。
「五郎左、こちらへ」
「はっ。……お呼びでしょうか、三法師様」
「うん。安土城に居る常備兵は赤鬼隊の二千。五郎左、今から準備してどのくらいで出陣出来そうかな? 」
「はっ。一刻もあれば十分かと」
「……であるか」
……二時間くらいか。なら、勝蔵達には先に出発してもらうか。それと、兵糧も未だ積めるか確認しておくか。
考えをまとめ終わると、勝蔵に視線を戻す。
「……では、勝蔵達は先に出発して欲しい。場所は長浜城。そこには、三介叔父上の謀反に備え、竹中重矩が準備を整えて待っている。兵は差程居ないが、兵糧は集め終わっている筈。……正直に言えば、そんな備えなんて使わずに済めば良かったんだけどね」
「殿……っ」
「……ぁ、いや、なんでもない。気にしないで」
いつの間にか、勝蔵の瞳に映る自分の顔が苦悶に歪んでいた。そんな俺の様子に拳を震わせる勝蔵の姿を見て正気に戻ると、軽く頬を叩いて精神を引き締めて仕切り直す。
「勝蔵、船は未だ兵糧を積めるかな? 」
「……数百人分程度でしたら可能でございます」
「では、少しこちらの分も積んで欲しい。二千の兵を一度に運ぶには、少しばかり窮屈かもしれないんだ。そちらの空き場所を半分借りたい」
「かしこまりました。直ぐに、積み込みを開始致しましょう。……力丸、坊丸、千丸。今直ぐに、城下にある兵糧庫へ向かえ。慶次殿が案内してくれよう」
『はい! 』
「んあっ? 俺がか〜? ……まぁ、良いけどよ」
ポリポリと頭を掻きながら慶次が了承し、森兄弟を連れながら城へ戻る。それに付き添うように源二郎達も続く。あれだけ居れば大丈夫だな。
さて、話を戻そう。
彼らを見送ると、再び勝蔵へ視線を戻す。
「では、長浜城にて竹中と合流次第、何時でも出陣出来るように支度を整え、本軍が来るのを待っていて欲しい。そして、岐阜城の新五郎に密書を出し、逆賊共の現在地を調べて欲しい」
「ははっ! 承知致しました! この朱槍に誓いまして、必ずや使命を全う致しましょう!! 」
「うむ」
力強い言葉に満足気に頷くと、五郎左へ視線を向ける。
「長浜城に着き次第、速やかに大垣城へ向けて出発する。そこで一晩明かし、夜明けと共に岐阜城を目指す。基本的な行動指針は籠城。野戦は極力避ける。総大将は余が務めるが、現場の指揮権は五郎左に委任する。……それで良いかな? 」
真っ直ぐに見詰めと、五郎左は諦めたように溜め息を吐いた。
「……ふぅ、止めても無駄なようでございますね。誠に、上様の厄介なところを継いでしまいましたなぁ。…………まぁ、そこに惹かれたのですがね」
「五郎左? 」
「いや、なんでもございませぬ」
最後の言葉だけ聞き取れ無かった為に聞き返すと、五郎左は自虐的な笑みを浮かべて首を横に振る。そして、こちらへ真っ直ぐな視線を向けると、深々と頭を下げた。
「万事、承知致しました。この五郎左、地獄の果てまでも御身のお供を致しましょう。きっと、この戦いが生涯最後の……いや、乱世最後の大戦になりましょうなぁ。……さながら、敵は平和を拒む地獄を闊歩する悪鬼。三法師様は、平和を築かんとした鬼退治の英雄 桃太郎ですかな? ふふっ、心が踊りますなぁ」
「茶化すな、五郎左。三匹のお供だけで鬼退治なんて、余には恐ろしくて出来ないよ」
「はははっ、左様ですな」
「ふふっ」
お互い笑いが零れる。それは成り行きを見守る家臣達や民衆の間にも広がっていき、先程まで漂っていた緊迫した空気は薄れていた。
(うん。良い感じに緊張が解れた。今なら――)
小太刀の鞘を地面に突き付け、声を張り上げる。
「聞け! 今、この場に集いし民達よ!! 」
ババッと、その場に居る全員が姿勢を正して口を閉ざす。
「今、織田家を裏切った逆賊共が、この安土城へ向かっている! 狙いは、ただ一つ。織田家当主足る余の首である。敵の名は、徳川家康! そして、……織田信雄! その軍勢は、一万を超して尚、膨れ上がっている!! 」
『…………っ!? 』
「だが、案ずる事は無い。今、この場には歴戦の勇士達が揃っている! 余 自ら先陣を切って逆賊共を討伐する! この地には、一兵足りとも寄せ付けはせね! 余の民には、指一本触れさせはせぬ! この地を、戦火の海に呑ませはせぬ! 次、そなた達の前に現れる時には、織田家による天下統一を宣言し、千年続く泰平の世の始まりを告げようぞっ!! 」
『お、おぉ、……ぅぅぅぉぉおおおおっ!! 』
拳を掲げて叫ぶ民衆。
次に、兵士達へ視線を向ける。
「そして、兵士達よ! 戦え! 下を向くな! 前だけを見よ! 決して、敵から目を背けるな! 貴様らの背後には、護るべき家族がいる! 隣りには友がいる! 護りたいなら戦え! 失いたくないなら戦え! 戦って、己の大切なモノを護り通してみせよ!! 」
『ぉぉぉおおおおおおおっ!!! 』
雄叫びが日ノ本を揺らす。小太刀を鞘から抜き放つと、太陽の光を一身に受け、黄金色に煌めいた。
「いざ、出陣っ!! 」
雄々しく宣言した声は、湊に集まる全ての民衆の歓声によって、瞬く間に上書きされた。
俺にとって、最初で最後の大戦が始まる。