8話
天正十二年五月二十日 安土城
五郎左と家臣達を連れて、俺は大急ぎで湊へ向かう。視線の先には、続々と安土の湊に集まる十五隻の巨大な安宅船。その表面には、森家の家紋が大きく描かれている。
森勝蔵長可。
今や、二国を治める大名となった英雄の登場に、何も知らない住民達は我先にと湊に走る。俺が到着した時には、既に多くの住民が集まっており、口々に歓迎の言葉を叫んでいた。
「森様ぁー!! 」
「赤鬼様じゃ! 赤鬼様が来たぞ!! 」
「ほほぅ。あれが、彼の信長公に与えられし朱槍か! まさに、織田家の誉れ。最強の証。なんとまぁ、見事なことよ! 」
続々と舞い降りる森家の武将達。その中に、一際目立つ深紅に染った鎧を纏った一人の男を視界に入れた瞬間、俺は堪らず叫んでいた。
「勝蔵っ!! 」
「…………っ、殿っ!! 」
俺の声に反応し、振り返る勝蔵。ヨロヨロと、互いに足を進める。近くに居た住民達も邪魔をしないようにと、道を開けて平伏する。
そして、あと数歩で手が届く所まで歩み寄ると、勝蔵は兜を脱ぎ、朱槍を横に置いて平伏した。
「森勝蔵長可。織田家の窮地と伺い、三千の兵を率いて馳せ参じました。どうか、逆賊討伐軍の末席に、この森家をお加え下さいますよう。お頼み申し上げまする」
『どうか、お許しくださいませ! 』
勝蔵に続くように、三人の弟達や可児達旧赤鬼隊の面々が一斉に声を上げる。そんな彼らから伝わる熱に、胸が強く締め付けられた。
「来て……くれたんだねっ」
「……当然の事にございます。某の忠誠を向ける相手は、あの日貴方様に救っていただいた頃より変わっておりませぬ。この身が朽ち果てるその日まで、貴方様に変わらぬ忠誠を誓ったのですから。御身の窮地とあれば、即座に駆け付けるのは当たり前でございますよ」
「……っ、本当に、良く……来てくれた……っ。勝蔵っ! 勝蔵ぉ! ありがとう……っ。ありがとう、勝蔵っ!! 」
勝蔵の手を両手で握り、幾度も幾度も感謝を伝える。嬉しくて嬉しくて涙が止まらない。未だ居た。裏切り者が多発する中でも、決して色褪せる事の無い忠誠を尽くす者達が五郎左達以外にも未だ居たんだ。
彼らが裏切る訳が無い……。そんな淡い希望を官兵衛達によって木っ端微塵に打ち砕かれ、知らず知らずの内に心の奥底では疑心暗鬼になりかけていた。そんな僅かなヒビが、今、完全に塞がれた。
もう、恐れる事は無い。流れが変わる。三千の援軍があれば選択肢は倍増する。勝蔵の援軍は、精神的にも戦略的にも織田家にとって絶望を塗り替える福音と言えた。
しかし、それでも一つ疑問に思う事がある。
「でも……。勝蔵は、どうやってこんなにも早く駆け付ける事が出来たんだい? それに、この危機も知っているようだし……。正直、今から勝蔵の元へ遣いを送っても、援軍が到着するまでこれから数日はかかると思ってた。……されど、それでは間に合わない。岐阜城に敵軍が到着してしまう。故に、安土城に居る二千の兵士達だけでも率いて戦おう……とね」
少し戸惑いながら尋ねる。すると、勝蔵は成程と軽く頷き、視線を自身の背後で平伏する家臣達の方へ向けた。
「あぁ、それでしたら彼女が教えてくれたのですよ。北陸にて不穏な動き有り、これは尾張のバカ殿が動き出した予兆では無いのか……と」
「彼女? 」
勝蔵の視線を辿るように顔を動かすと、平伏する森家の家臣達の間を縫うように、一人の女性がおずおずと前に現れた。
予想だにしなかったその人物の登場に、思わず目を見開きながらその名を口にする。
「さくら……桜が勝蔵を呼んでくれたのか? 」
「……はっ、左様にございます」
薄紅色を基調とした着物に、艶のある黒髪に映える桜色の簪。やや疲れが溜まっているのか、少し顔色が悪く見える。
そんな桜は、青白い表情のまま勝蔵の斜め後ろまで来ると、その場で深々と頭を下げる。
「殿、お久しゅうございます。任務にて安土城を長らく留守にしておりましたが、殿のご活躍は風の噂で聞き及んでおりました。御壮健なようで何よりにございます」
「うん。ありがとう。桜も元気そうで良かった」
「ははっ、誠に有り難きお言葉。恐悦至極にございます」
桜は、そこで一旦話を区切ると懐より一枚の文を取り出す。
「数日前、朝顔より伝令が参りました。越後国の一揆。佐々殿の謀反。前田様の出陣。偶然の一致にしては出来過ぎており、一刻も早く殿へお知らせする為に、私はこれより蓮と共に安土城へ向かう。桜も、私達とは違う道を辿って安土城へ向かって欲しい。……それが、朝顔からの伝令の内容にございました」
「……うん。成程ね。朝顔は、安土城へ向かう道中に敵襲を受ける可能性を危惧し、桜にも動いて欲しいと頼んだんだね? 情報を持つ者が増えれば、その分安土城へ辿り着ける者の確率は上がるし、隠密に長けた桜ならばまさに適任である……と」
「ははっ、まさにその通りにございます。事の重要性を考えれば、朝顔の判断は何一つ間違っておりませぬ。最善手と言えましょう。……しかし、私はそれを無視して若狭国へ走りました。そして、恐れ多くも森様へ進言し、殿の許可を得る事も無く独断で兵の派遣を要請致しました。……申し訳ございません。私のような下賎の身が、殿に無断で兵を動かすなどあってはならぬ狼藉。この場で首を切り落とされても何一つ文句は言えませぬ」
「……であるか」
スっと髪を前に下ろしてうなじを顕にする桜。そうか、どうも顔色が悪いと思っていたけれど、そういうことだったのか。
(さて、どうしたものか)
どう沙汰を下すか迷う。まぁ、桜の行為を罪か否かで問うなら罪だ。俺に無断で兵を動かすなんて絶対に駄目。状況も状況だし、これを身内だからと許すのは悪手。
ただ、桜のおかげで状況が好転したのも事実だ。
そうこう迷っている内に、背中越しに声をかけられる。
「殿、それは! 」
「……朝顔、口を慎みなさい。これは、既に貴女が口を挟んで良い問題では無いのよ」
「……っ! しかし、松様っ! 」
視線を向ければ、こちらへ向かおうとする朝顔を松が制しているのが見える。松は、こちらへ小さくお辞儀をすると、朝顔を連れてその場を下がった。どうやら、全てこちらに任せるらしい。
俺は、桜から受け取った文を丁寧に畳んで懐に仕舞い、未だに平伏し続ける桜へ向き直った。
「白百合 桜。そなたが、意味も無く勝手な行動をするような娘では無いことは分かってる。実際、桜の行動が無ければ勝蔵達は間に合わなかった。……だけど、桜には軍を動かす権限は与えていないし、勝蔵達を呼び寄せる指示も出していない。独断専行を行った責は、己自身で償わなければならない」
「ははっ、承知しております」
「であるか。ならば、ここで沙汰を下す」
「はっ」
僅かに肩を震わす桜。俺は、その様子に苦笑すると、膝を着いて桜の頬に手を添えた。
「これより岐阜へ向かう。桜も一緒に来なさい。そして、その身を呈して余を護りなさい。此度の戦は、今までに経験した事の無い大戦になる。激しい戦いになるだろう。兵数もこちらが劣ってる。苦しい戦いになるだろう。……それでも、余を敵兵から護り通しなさい。無論、桜も五体満足であること! それが条件! 」
「と、との? 」
桜の瞳が揺れる。その瞳に映る俺は、ニッシッシと悪戯げに笑うと桜の頭を乱暴に撫でた。
「これは、非常に難しくて危険な任務です。だけど、これは罰なので決して辞退は許しません。きっちり任務を遂行して貰います! ……そして、戦が終わったらまた皆で一緒にご飯を食べよう? 約束だからね? 」
「…………っ!! はいっ、はい……っ。承知……致しました。必ずや……っ、必ずや、殿のご期待に応えてみせます……っ」
桜の小指に自身の小指を絡ませて指切りげんまんをすると、桜は感極まったのか、子供のように声を上げて泣き出した。
俺は、それを咎めずにあやす様に髪を梳く。この時代に指切りげんまんがあるか分からなかったけど、どうやら意味は伝わったみたいで良かった。
「ありがとう、桜。また、君に救われたね」