7話
天正十二年五月二十日 安土城
未来へ希望を託す為に、家臣達を囮にしてでも生き残る。それが、五郎左の、藤の、皆の願い。
わざわざ敵の罠に突っ込む必要は無い。時は、こちらの味方。今は、各地に配置している家臣達も敵の策略で混乱しているが、時間をかけ、適切に対処していけば自ずと騒動は収まる。その時、俺が号令をかければ全国から援軍が押し寄せてくる。戦うのはその時で良い。今、不利を承知で戦う必要は無い。俺は、時が来るまで安全な場所へ退避すれば良い。
「…………はは」
自虐的に笑う。あぁ、分かってるさ。織田家当主として、その選択を取らねばならないって事は……良く、分かっている。
(だけど、その為に新五郎や五郎左、家臣達を見殺しにしろだなんて……。そんなもん、はいそうですかって納得出来る訳無いだろ……っ)
強く唇を噛む。
扇がミシリと、嫌な音を鳴らす。
人生は選択の連続だって言うけれど、こんなにも心苦しい選択を連続で強いなくても良いじゃないか。長丸や振姫の時だって、悩みに悩んだ末に答えを出したばかりなんだぞ。それなのに、それなのに! 今度は、大切な仲間を見殺しにしろって言うのかよっ!!
顔を伏せ、じっと地図を見る。
考えろ。考えろ。考えろっ。
嫌なら、この五郎左の提案以外に、状況を打開出来る策を考えるんだ!
死なせたくない。死なせたくない。
後じゃ遅いんだ。今、戦わなければ新五郎率いる岐阜勢は家康に蹂躙される。時間稼ぎに出陣する五郎左や赤鬼隊も無事じゃ済まない。彼らを救うには、今しか無いんだ!
(……でもっ、でもっ!! )
視界が滲む。
でも、幾ら考えても策が思い浮かばない。ぐるぐると黒い渦が胸の奥で掻き乱れる。
二人を見捨てたくない。
新五郎は、ずっと俺の傍で支えてくれた。酒に弱いし、奥さんの惚気話で数時間語り明かすし、無駄遣いしたら怒るし、ストレスがマッハになると、ヒャッハーしながら若手を訓練と称して扱きあげる。
……だけど、新五郎は俺の我儘をいつも叶えてくれた。課題を達成出来たら優しく頭を撫でてくれた。口には出さないけど、俺は新五郎を第二の父だと思ってる。
五郎左だってそうだ。織田家当主を継いでからずっと政務を支えてくれた。飴と鞭の割合だと九割鞭だったけど、それは全て俺の為だ。一人前の当主になれるようにと、心を鬼にして鍛えてくれた。……俺は、未だ五郎左に何も返せていない。成長した姿を何も見せられていない。
それに、岐阜城や安土城に居る家臣一人として見殺しにして良い人間はいない。彼らの顔を知っている。彼らの名前を知っている。彼らの家族を知っている。彼らの夢を知っている。彼らの幸せそうな笑顔を知っている。
……もう、赤の他人なんかじゃない。ただの主従関係だと切り捨てられる程浅い関係じゃない。俺は、彼らから夢を託された。子供達が幸せに暮らせる未来を生きたい……と。
(なら! 此処で見捨てるのは筋が通っていないだろうが! )
ドンッ! と、右手を力いっぱい振り下ろす。畳を僅かな振動が伝う。文官達の不安げな視線。松達の気遣うような視線を一身に受けながら、俺は唇を噛み締めて嗚咽を堪えた。
こんな感情論じゃ駄目なんだよ。
何も、五郎左だって意地悪で言っているんじゃない。この策が、最も安全であり確実だと判断したから申し出たんだ。あの五郎左が、もうこれしか無いと苦渋の決断を下したんだ。
それを、どうして死んで欲しくないからと私的な理由で跳ね除けられようか。代案すら思い浮かばないのに……っ。
もう、諦めるしか無いのか。
そう思った――その時、背後に暖かな気配を感じた。誰だ――と、振り向こうとした俺の頬に指先が添えられる。その懐かしい温もりに、喉まで出かかった言葉を引っ込めた。
――大丈夫、未だ打つ手はある。良く考えなさい、三法師。
「父……上……? 」
その声音。その温もり。
あぁ、誰が間違えようか。
その言葉に自然と身を寄せると、先程まで雁字搦めになっていた思考が、嘘のようにきれいさっぱり無くなっていた。
クリアになった視界の中で、視線は自然と岐阜城辺りへ向けられていた。刹那、今まで弾き出せ無かった答えが脳裏に浮かび、自然と口を開いていた。
「……五郎左、それでは駄目だよ。官兵衛の思う壷だ。織田家を滅ぼす為に、ここまで大規模な策謀を凝らした官兵衛ならば、確実に余を討ち逃した場合を想定した罠を仕掛けている筈だよ」
「なんですと? 」
その困惑した声音に顔を上げると、眉を細ませ、僅かな動揺を見せる五郎左が、口元に右手を添えながら地図へ視線を下ろしていた。それに合わせるように、俺は指先を琵琶湖の先端。瀬田川付近に置く。
「確か、二日前に唐橋に異常有りとの報告を受けていたよね? 」
「はっ。僅かに支柱に亀裂が見られ、現在修繕作業中にございます。……まさか、三法師様はこれが黒田によるものだと? 」
「うん。この橋は、明智光秀謀反の折に一度焼け落ち、二年程前に修繕したばかり。劣化にしては違和感を覚える。これは、余の逃走経路を絞らせる官兵衛の策謀だと思う」
「……成程。確かに、私も三法師様には京へ舟を使っていただく予定でございました。ごく自然に。……されど、それこそが黒田の仕掛けた罠。だった……と。……失念しておりました。今一度考えてみれば、三法師様の仰る通り、智力に長けた黒田ならば、考え得る全ての逃走経路は用意周到に断っておりましょう」
「であるか」
五郎左が賛同した事で、より一層自分の考えに確信を抱く。どうしたものかと思考を張り巡らせる五郎左の意識を、こちらに向けるように扇を鳴らす。パチりと、乾いた音に釣られて鳴る鈴の音。自然とこちらへ顔を向けた五郎左と視線を合わせた。
「北も、東も、西も、南も全て罠が仕掛けられている。であれば、戦って活路を切り開くしかない。爺様も、そうやって何度も危機を乗り越えてきた。……次は、余の番だ。岐阜へ向かおう」
「…………っ!? しかし、それはっ! 」
慌てて立ち上がる五郎左を右手で制する。
「待って。余も、岐阜へ向かう危険性は百も承知だよ。……しかし、逃げ出そうと少数で行動すれば伏兵の襲撃に耐えられない可能性があり、かといってこの安土城は籠城に向かない。ならば、向かうしか無いと思うよ。大軍でも、そう易々と落とせない難攻不落の名城に」
「……まさか、三法師様はわざわざ危険を冒してまで岐阜城へ向かい。そこで、徳川相手に籠城するおつもりですか!? 」
「うん。その通りだよ。……そもそも、新五郎ならば例え一万を超す軍勢に攻められても数ヶ月は持ち堪えられた。しかし、それでは安土城に居る余の身が危ない。それ故に、新五郎は野戦を強いられ、五郎左は救援に向かわねばならなかった。しかし、その前提は余が岐阜城に移れば一気に覆る! 」
「…………っ! 確かに、それならば岐阜勢と我らの軍勢と合わせ、計五千の兵で籠城を行う事が出来る。敵も、標的がそこにあるならば攻めざるを得ない。籠城戦における課題である兵の士気も、織田家当主自ら救援に駆けつけたとなれば間違いなく最高潮に達することでしょう!! 」
「兵糧はどうか? 援軍が来るまで持ち堪えられそうかな? 」
「はっ。岐阜城にも備蓄はございますし、この安土城から幾らか持ち込めば半年は持たせてみせましょう。それ程の時間があれば、間違いなく援軍が駆けつけて下さいます! 」
「であるか!! 」
膝を叩いて立ち上がる。皆の視線を一身に集めながら、俺は大きく手を広げた。
「皆、聞いて欲しい! 今、岐阜城に居る仲間達は最大の窮地に陥っている。一万を超す逆賊共が岐阜城を落とさんと進軍しているのだ。……余は、仲間を見捨てる事は出来ない! 危険だと分かっていようとも、仲間を見殺しには出来ないっ! 故に、これより岐阜城を目指す! きっと、過酷な試練が待ち構えていよう。無事に辿り着けぬ者も出よう。……されど! されど、余は助けたいのだ。……どうか、皆の力を貸して欲しい。頼む……っ」
膝に手を置き、深々と頭を下げて懇願する。
今、この時ばかりは当主の威厳なんて関係無かった。ただ、自分の真っ直ぐな気持ちを皆に伝えようと心から叫んだ。
答えは、皆同じだった。
『御意。我が身、我が魂。全ては、御身に捧げしモノ。貴方様が進むと決めた道ならば、我ら一同喜んでお供いたしましょう』
「……っ、であるか! ならば、共に往こう!! 」
『ははっ!! 』
一糸乱れぬ宣誓。不変の忠義。
それを目の当たりにした俺は、思わず緩みかけた涙腺を必死に抑えた。
未だ、戦はこれからだと言うのに、何故だか勝てる気がしてくる。根拠は無い。強いて言えば皆の顔か。相次ぐ謀反に動揺していた彼らはもういない。いるのは、瞳に焔を宿した武士のみ。
そして、吉報はこれだけでは無かった。
突如として襖が勢い良く開かれ、外から一人の小姓が転がり込んで来た。
「殿、失礼致します! 現在、数隻の船がこちらへ接近中。掲げる旗には鶴丸の印。森様の援軍と思われますっ!! 」
「…………っ!? 」
流れが変わる。
それを肌で感じながら湊へ急いだ。