6話
天正十二年五月二十日 安土城
長丸と振姫の処遇は決定した。
徳川家康が嫡男 長丸並びに娘 振の両名は、父 徳川家康が織田家を裏切った責任を負い、織田家重臣 丹羽長秀によって斬首され、近隣の寺に埋葬された。
表向きはそんな感じだ。
実際は、二人が死ぬことは無い。名を捨て、家を捨て、織田家が管理する寺に入る事になった。事が落ち着くまでは、客人として離れに移される事になる。
これから先、二人は不自由な暮らしを送る事になるだろう。結婚も出来ない。町にも出れない。外を歩く事すら許されない。生涯、あの小さな敷地から出られないのだ。
……こんな酷い話は無い。命が助かっただけ有り難く思えだなんて、口が裂けても言えないよ。二人は、人質ってだけで何も悪くないのに。戦国の世は、本当に残酷だとつくづく思うよ。
だけど、おかげで腹を括れた。
俺の背後には、新たに二つの護り通さなくてはならない大切なモノが出来た。今回の戦いで、俺達が家康に負けたら二人は間違いなく殺される。俺も、家族も、家臣も、みんなみんな殺される。
……それは、断じて許さない。
戦う。勝って護る。護る為に勝つ。
幸い、その想いを抱く者は俺だけじゃない。俺に向けられた全ての眼差しに、同等以上の強い熱を感じる。
先程、俺が皆に真摯な想いをぶつけたからこそ、意識の統一化が出来た。混乱し、バラバラになっていた細い糸が、集い、纏まり、誰にも解けぬ一本の太い線となった。ならば、後はそれを向ける方向を指示するだけ。
棚に置かれていた小太刀を持ち上げると、畳に打ち付け、トンッと音を響かせて皆の視線を集める。
「これより、逆賊 織田信雄並びに徳川家康を討伐する。各地の反乱は、その場に居る者達に対処を任せる。柴田、前田、津田に背中を預け、我らはこれより岐阜を目指す! 新五郎と合流し、逆賊共をこの手で討ち取るのだっ!! 」
『…………っ!! 』
「此度の戦は、余 自ら軍勢を率いる。具足を持て! 皆の者、出陣じゃぁ――「お待ち下さいませ、三法師様っ! 」
俺の言葉に被せるように、五郎左の鋭い声音が響く。出鼻を挫かれた俺は、少しムスッとしながら五郎左へ視線を向けた。
「……何か、言いたい事があるなら聞こう」
「はっ。では、恐れ多くも三法師様へ申し上げまする。私は、一家臣として、三法師様の出陣を断じて許容出来ませぬ。三法師様は、速やかに安土を発ち、安全な場所までお逃げ下さいませ。逆賊討伐は、私が兵を率いて戦いまする」
『…………っ!? 』
強い否定。先程、主君の我儘に妥協した姿はそこには無く、断じて引かぬと鋭い眼光を向けてくる。そんな五郎左の姿に、一同驚愕の眼差しを向けていた。
「……理由を説明して欲しい。此度の戦は、織田家の存亡がかかっているんだ。当主である余が逃げ出すなど、兵の士気に大きく影響してしまうだろう。……正直、分の悪い戦いなのは分かっているよ。敵に先手を打たれ、その兵数は一万を優に超えている。対してこちらは、新五郎と合流出来ても五千程度。今からでは、到底援軍は期待出来ない。……だけど、織田家当主足る余が戦場に出れば、多少なりとも勝率は上がると思う。……それに――」
瞳を閉じて俯く。ギリィと、歯を食いしばる嫌な音が鳴る。
「それに、このままでは新五郎達が危ない。敵の狙いが明白な以上、新五郎は決して岐阜城に籠城する事は無い。それをしてしまえば、岐阜城を囲う兵士だけ残して、敵軍の何割かを安土城まで素通りさせかねんから。……余を護る為に、新五郎は野戦を選ぶだろう。そうなれば、必ず死んでしまう。救援に行く五郎左も……っ」
顔を上げた俺は、掴みかからん勢いで五郎左に迫る。
「それでも! それでも、五郎左は余に逃げよと申すのかっ!! 大切な人達を見殺しにしてでも逃げよ……とっ!! 」
「左様。それが、当主足る貴方様の御役目であり、家臣である私共の役目にございます」
「…………っ!? 」
冷たく言い放つ五郎左の胸ぐらを衝動的に掴む。その手は小刻みに震え、か弱い女の子でも簡単に振り解けそうな程に弱々しい。
その小さな両手を視界に入れた五郎左の瞳が微かに揺れると、ソレに自らの両手を添えた。
「……客人の件は、対象が幼子という事もあり、侍女や従者を遠ざければ幾らでも対処可能。故に、渋々ではございますが許容致しました。……ですが、出陣となれば話が異なりまする。ソレは、あまりにも危険が大きく、万が一にでも三法師様が討たれれば全てが終わります。織田家も……日ノ本の未来も……」
「それ……は……」
「逃げる事は恥ではございませぬ。上様とて、これは勝てぬと分かれば幾らでも逃げ申した。無理に戦う必要はございませぬ。確実に逆賊共を討伐する為に、今はどうかお逃げ下さい。……これは、藤吉郎の最期の願いでもございます故」
『…………』
「…………っ」
その言葉に、自然と指が離れて宙を掻く。それを見守る文官達も、顔を伏せて口を閉ざす。藤も、五郎左も、皆が皆、俺に逃げろと懇願する。俺を生かす為ならばと、自ら望んで死地へ行く。
それが、主君に仕える武士として当然の行動である……と。五郎左の瞳には、そんな覚悟の色がハッキリ見えた。この時代に転生してから、何回も、何十回も見てきた瞳。
――己よりも大切なモノの為に、その命を燃やし尽くす覚悟を決めた者の瞳だ……。
「とぅ……の……っ」
掠れた声で藤の名を口にする。きっと、此処に居るのが五郎左では無く藤だったとしても、同じように俺に逃げろと言っただろう。
『身を呈し、主君を命懸けで護れ』
そんな言葉を、言い聞かせるように家臣達へ諭す人だったから……。それに、五郎左の言うように、三成と清正に託した伝言でも逃げてくれと言っていたようだし……。
(間違っているのは、自分の方かも知れない)
そんな弱音が脳裏を過ぎる。膝を着き、呆然と五郎左を見上げる。すると、五郎左はそんな俺の指先を優しく包んで膝に誘導した。
そして、懐から一枚の地図を取り出すと、俺に見えるように畳の上に広げる。
「私共が岐阜へ出陣すると同時に、三法師様は安土城から舟で京へお向かい下さい。京には、織田家と深い絆で結ばれた近衛様が居られます。事情を話せば、必ずや手を貸して下さる事でしょう。近衛様から早馬をお借りした後は、街道を通って堺に向かって下さいませ」
スルスルと、地図上を指先が伝う。
「堺に着きましたら、今井宗久の元へ向かって下さい。奴は商人ですが義理堅い男。そして、利を嗅ぎとる能力に長けた男です。黒田や徳川に付くよりも、三法師様の味方をした方が貿易によって膨大な利益を得られる事を良く分かっております。そこは、裏切りを心配せずとも大丈夫でしょう。……そして、今井宗久から舟を借りますれば、海を渡って四国へ。その先は、真っ直ぐに伊予国へ向かって下さいませ。そこには、大友征伐における前線基地があります。身分を明かせば、直ぐに豊後国へ渡る舟を出して下さる筈。……その先こそが、三法師様が目指す終着地。三法師様は、豊後国臼杵城に居る三七様との……十数万に及ぶ大友征伐軍との合流を目指すのです」
五郎左の指先が臼杵城辺りで円を書く。
「現在、織田家は黒田と徳川による奇襲と策謀によって窮地に陥っております。されど、それは短期的な話。重要な事は、織田家の勢力は分散されただけであり、未だ各地で健在であること。豊後に居る三七様の征伐軍も、越後に居る権六も、相模の北条家も未だ健在なのです。如何に黒田と徳川が策を練ろうとも、この全ての勢力が集えば勝ち目は無い。奴らもまた、追い詰められておるのです。……時間という、誰にも抗えない存在に」
五郎左が策の全貌を語ると共に、パチリパチリと碁石が地図上に並べられていく。備後国と尾張国に二つの黒石。安土、越後国、豊後国、相模国にそれぞれ白石が置かれる。白が味方、黒が敵といったところか。
そして、安土の白石がスルスルと地図上を滑り、豊後国に置かれた白石と合流する。
「敵の狙いは御身の首にございますれば、それを遠方へ逃がしてしまえば宜しい。さすれば、敵の思惑は外れ、のこのこ安土へ集まった所を逆にこちらが包囲してしまうのです。これならば、敵を余すこと無く一網打尽に出来ましょう」
『おぉ! 』
安土に集まった二つの黒石を囲う四つの白石。五郎左が語るこの状況を打開する策に、成り行きを見守っていた文官達から感嘆の声が上がる。
すると、五郎左は苦笑しながら頬をかく。
「欲を言えば、堺で九鬼水軍と合流出来れば良いのですがね。大友征伐完遂の一報が入った以上、彼らは帰還の準備を整えている筈。水軍ならば、海を渡って本軍よりも先に堺に着いていても可笑しくありませぬから。……されど、それは希望的観測に過ぎませぬ。期待はせぬ方が良いでしょう。それに、淡路の三好家を頼っても良いのですが、誰が味方か分からぬ以上、三法師様の正体は必要最低限の者にだけ教えるのが良い。最短距離を少人数で強行するのです。……それ故に、三法師様には道中にて野宿を強いられる可能性がございますが、どうかご了承下さいませ。これも、御身を護る為に必要なことにございます」
「……その策を成立させる為に、五郎左と新五郎達を囮に安土を出よ……と? 」
「ははっ、各勢力を動かせるのは三法師様ただ一人にございます。貴方様が討たれれば、織田家は瓦解し、北条家は離れ、各地の臣従していた大名家も息を吹き返す事でしょう。……また、次の天下人が現れるまで乱世は続くのです。あの地獄が……また……っ」
「それは……」
悲痛な表情を浮かべる五郎左。振り出しに戻る。それは、乱世を終わらせんと邁進してきた五郎左からすれば到底耐えられない事なんだろう。今まで流れてきた血が、全て水の泡になってしまうのだから。
……確かに、時間をかければこちらに有利の戦況が作れる。不利な戦を仕掛けるよりも、味方を集めて戦う方が良いのは当たり前だ。
(だけど、それでは――)「三法師様」
五郎左の声音に深みへ沈もうとしていた意識が浮き上がる。それと同時に、顔を上げて視線を合わせると、そこには儚げな笑みを浮かべる五郎左の姿があった。
「どうか、ご命令下さいませ。死ねと。織田家の為に、主君の為にその命を燃やせ……と。さすれば、私共はありとあらゆる手段を用いて敵軍の足止めを致します。……貴方様が、無事に豊後国に着くまで。だから、どうかご決断を。三法師様」
「…………っ」
言葉に詰まる。
死んで欲しく無い。
五郎左や新五郎を犠牲にしてまで逃げたくない。
だけど、それは俺の我儘なのかもしれない。五郎左の語った策には、この状況を打開出来ると思わせる説得力があった。俺が死ねば終わりってのも理解出来た。
だが、それでも二人を見捨てたくない。
それが、嘘偽りの無い本心。
しかし、そんな感情論を振りかざした所で、命を賭す覚悟を決めた者にそんなモノは通じない。納得させられるだけの根拠が足りない。
(もう、これしか……無いのかよ……っ)
堪らず俯くも名案は浮かばない。
時間が無い。
二人の死を許容する。
そんな耐え難い選択を選びかけた――その時、不意に頬を暖かな風が撫でた。
――大丈夫、未だ打つ手はある。良く考えなさい、三法師。