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5話

 天正十二年五月二十日 安土城



『徳川家康 挙兵。織田信雄と合流』

 その一報は、徳川家康が織田家を裏切った事を意味していた。謀反……いや、徳川家とは対等な同盟関係を結んでいたから、この言葉は不適切かも知れない。

 だが、誰も竹の言葉を訂正しなかった。織田家の姫君を娶り、織田家の要請に従い兵を出し、織田家に人質を出す。両家のパワーバランスは、決して対等では無かったから。織田家が天下統一を果たし、幕府を開いた暁には、必ずやいの一番に参列し、臣下の礼を取ると思われていた。長年、織田家と共に歩んできた徳川家が裏切る筈が無い……と。



 されど、家康は裏切った。

「ま、まさか徳川殿が裏切るなんて……っ」

「何かの間違いではないのかっ!? 徳川殿は、上様の竹馬の友ぞ!? 」

「そ、そうだ! 徳川殿が……そんな……」

 混乱。ざわめき。認めたくない事実に耳を塞ぎ、ありもしない幻想へ思いを馳せる。

 されど、聡い奴には分かる。その情報が虚偽か否かを。

「静まれっ! ……今、こうして、逆賊 織田信雄に組みしている以上、徳川家康は織田家に弓を引いたのだ。その事実は、決して消えることは無い。希望的観測は止めよ! 最早、織田家を護るには誰が相手であろうと戦うしか無いのだ!! 」

『…………っ!! 』

 五郎左の一喝に、一同息を呑む。狼狽えていた者は、悪夢から覚めたように正気を取り戻し、事実に目を背けていた者は恥じるように顔を伏せた。

 俺は、そんな五郎左の姿を頼もしく思うも、別に狼狽えていた者達を叱る気も呆れる気も無かった。

 本当は、皆、分かっているのだ。この状況を見れば俺でも悟れる。残念だけど、三介叔父さんはただの捨て駒だ。事が終われば、織田家諸共闇夜に葬られるだろう。アレは、三介叔父さんが扱える程ヤワじゃない。

 俺達は、満足に兵を揃えられない状況で、一万を超す大軍を相手にしなければならない。先陣には、戦国最強とも謳われる本多忠勝がいるのだろう。その奥には、策謀の達人 徳川家康がいる。

 ……あぁ、最悪だ。そのあまりの事態の深刻さに、人間ならば思わず現実逃避をしてしまってもおかしくは無い。しかも、この場に居る多くの者は文官だ。恥じる必要は無い。



 だが、そんな彼らも五郎左の一喝で目が覚めた。

 ならば、次はどのような行動に移るか。

「そ、そうだ! 徳川殿の嫡男と姫君はどうした!? 徳川家は、織田家を裏切ったのだ。ならば、見せしめとして殺してしまおうぞ!! 」

『…………っ!? 』

 そう、血の粛清だ。

「そ、その通りだ。裏切りには報いを。それが、乱世の理である。即刻、首を斬り落として奴らに送り返してやろうぞ! 織田家を裏切ったらどうなるか分からせてくれる!! 」

「そうじゃ、そうじゃ! 幼子だろうと関係無い! 織田家に逆らった愚か者の末路として、見せしめにしてくれようぞ!! さすれば、兵の士気も上がるであろうぞ! 」

「然り然り。人質とは、同盟、又は臣従の証。人質とは、家と家を繋ぐ担保であり鎖。それこそが、人質の存在価値である。……然らば、徳川家が裏切った今、人質は通例通り殺すのが道理である! 」

『然り! 然り! 然り!! 』

 一人がその言葉を口に出してしまえば、自ずと誰も彼もがあの子達に目を向ける。人質とは、そういうこと。彼らが言うように、家と家を繋ぐ契約の楔でもある。もし、その契約を破れば……報復としてその者は問答無用で殺される。

 それが、この乱世を生き抜く為に生まれた処世術であり、この乱世に蔓延る常識なのだ。

「…………っ」

 唇を噛み締める。

 彼らの言い分は正しい。この乱世に人権など有りはしない。人質はモノに過ぎない。利用価値が無くなれば、当然のように切り捨てる。甘い対応をすれば他家に侮られる。此処で厳しい沙汰を下さねば、今後も謀反を起こされかねない。降伏さえすれば許されると、何度も反乱を起こされた上杉謙信のように……。

 例え、その謀反が今回みたいな大規模なモノでは無い小規模なモノだとしても、いつ爆発するかも分からない種が各地に散らばっている状況を泰平の世とは言わない。何百年と続く支配体制を築くには、爺さんのような熾烈さが必要不可欠。

(そんな事は……分かっているっ)

 裾の皺が深まる。

 長丸と振姫を殺す。

 俺が、長丸と……振姫……を。

 首を斬り落とされ、京にて晒し首にされる二人の末路を想像した瞬間、脳裏に二人と過ごした日々が思い浮かんだ。


【三法師しゃま〜、これおいひぃれふ〜】


【伊東殿! 某にも! 某にも! 剣術を御指南して下され! 】


 団子を美味しそうに頬張る振姫。木刀を片手に、子供らしく無邪気な笑顔で指南を求める長丸。そんな二人を見ながら、幸せな時間を過ごしたあの日々を…………。

(出来る……訳が無いだろう! そんなこと……っ)

 血の味が口の中で広がる。

 あぁ、そうだ。そんな残酷な沙汰を下せる訳無いじゃないか! 長丸の歳は六つ、振姫は五つの幼子なんだぞ!? 二人は何も悪くない。悪いのは家康じゃないか! なのに……何故、二人が死なねばならぬのだ!

 強く、強く裾を握り締める。

 二人を助けたい。だが、織田家当主として二人を殺さねばならない。お師匠も言っていただろう。優しさは美点だが、甘さは欠点だ。

 もし、ここで二人の命を救えば、少し考えただけでも嫌な未来が想像出来る。他家に侮られれば、織田家の日ノ本統治に悪影響を及ぼしかねない。仕えるに値しないと思われれば、奴らは織田家の指示を聞かなくなる。

 その果てには、汚職や一揆でボロボロになった日ノ本の姿。そんな状態では、外国からの侵略を防ぐことは出来ないだろう。……考えうる最悪の未来だが、それを妄想だと切って捨てる事は出来ない。

 しかし、逆に二人を殺し、この反乱を起こした首謀者共を皆殺しの上で晒し首にすれば、日ノ本中に俺の熾烈さが轟くだろう。俺が生きている限りは、二度と反乱を起きない。その恐怖の上に、泰平の世を築けるだろうさ。

 迷う必要なんて無い。たった二人の命で未来で起こりうる反乱の種を除けるのであれば、日ノ本の支配体制を磐石に出来るのであれば、迷う事無くその選択を選ぶべきだ。



 だが、だが――

(俺は、俺の心は、このちっぽけな命を見捨てるなと叫んでいるんだっ! )



 答えの無い選択に顔を伏せる。直、皆から問われるだろう。長丸と振姫を殺すか否かを。

(どうすれば良い。迷っている時間は無い。直ぐに動かねばならない。家康と三介叔父さんの軍勢が迫っている。新五郎が危ない。勝蔵は? 権六や又左は? 藤は大丈夫なのか? ……あぁ、背中越しに皆の視線を感じる。もう、数秒後には俺の意見を求められるだろう。どうする。どうする。どうする。どうす――「との」

 その優しげな声音と、手のひらを包む温もりに真っ白になっていた視界が元に戻っていく。指先から腕を辿るように視線を上げれば、そこには暖かな陽射しのような微笑みを浮かべる椿の姿があった。

 椿は、柔らかな指先で、俺の固く閉ざされた手の甲をゆっくりと叩く。

「殿、大丈夫。大丈夫でございます。ゆっくりと、息を吐いて……吸って……」

 椿の声に導かれるように呼吸を繰り返す。すると、自然と落ち着きを取り戻せた。

「……ありがとう、椿」

「ふふっ、勿体なきお言葉ですわ」

 深く息を吐きながら礼を言うと、椿は安堵したように頷く。そして、椿は俺をあやすように言葉を紡ぎ始める。

「殿、今一度思い出して下さいませ。周りの声に振り回されてはなりません。原点を思い出すのです。ただ、その胸の奥に宿る心の声に耳をすませるのです。……貴方様は、どうして天下泰平の世を築きたいと思われたのですか? 」

「それ……は……」


 俺の原点……それは……。


「この日ノ本から戦を無くしたかったから」

「えぇ、そうです」


 もう、戦場で傷付く人も、兵に踏み潰され、無惨に焼け払われた田畑も見たくなかった。


「皆が、当たり前のように明日を迎えれる世にしたかったから」

「えぇ、そうです」


 また明日……そのたった四文字すら気楽に言えないのは、あまりにも悲し過ぎるから。


「民が、何も罪の無い民が、理不尽に虐げられる世を変えたかったから」


 雪のような、ただほんの少し人と違うだけで理不尽に虐げられる子を救いたかった。松達のような、ある日突然、故郷を……家族を失ってしまう悲劇なんて二度と起こしたくない。


 それが、俺の原点。


 ……あぁ、そうだ。

 ここで長丸と振姫を殺すのは、そんな俺が無くしたいと思った理不尽そのものでは無いか。

 ……馬鹿な話だ。誰もが平和を謳歌出来る世の中を作りたかったのに、万を救う為に百を見捨てるような事をしたくなかった筈なのに、いつからか、俺は多少の犠牲を許容していた。最初から、この程度の犠牲ならば良いって思っていた。大義の為ならば致し方ない……と。

(それは、俺の望んだ道じゃない)

 ならば、俺と取るべき選択はただ一つだ。

 そんな俺の心境の変化を悟ったのか、椿は左手を俺の頬に添えた。

「えぇ、それで良いのです。殿は、何も間違っておりません。……ただ、天下人という強大な権力と、それに伴う責務に少しだけ戸惑ってしまっていただけ。貴方様の御心は、あの日から何も変わっておりませんよ。人の幸せを心から祝福し、共に祝う事が出来る優しい御方。人の不幸を、我がことのように嘆く事が出来る優しい御方。そんな殿だからこそ、私共は力になりたいと心から思ったのです。だからどうか、殿は己の信じる道をお進み下さいませ」

「……うん。ありがとう、椿」

 椿に礼を告げると、俺はゆっくりと立ち上がり、皆の意識を集めるように胸の前で手を叩いた。



 ――パンッ!



 乾いた音は皆の意識に空白を作り、騒然としていた広間に静かに響き渡る。目論見通り皆の視線が一身に集まった事を確認すると、俺は長丸と振姫の沙汰を下す。

「徳川家康が織田家を裏切った以上、当家に預けられた二人の処遇は、通例通り処刑にするべきだろうね」

『おぉ、では! 』

「だけど、二人は殺さない。徳川家の嫡男と姫君は斬首した事にして、二人には名も家も棄てて仏門に入ってもらうつもりだよ」

『…………っ!? 』

「そうだね……二人の生存は知られたく無いし、人里離れた寺に預けようか。誰か、義昭に……否、覚慶に渡りをつけて欲しい。余の名を出せば、邪険にはされないだろう。松、文を用意して」

「はっ」

 俺の命を受けて動き出す松。その様子を見て、正気に戻った一人の文官から声が上がる。

「お、お待ちくださいませ! それでは、示しがつきませぬ! 」

「駄目。二人は、余の大切な友だ。害する事は許さないよ。……勿論、そなたが心配するように、この事が知られれば他家から侮られる可能性はある。普通ならば、二人は殺すべきだろう」

「では! 」

「それでも、二人は殺させない。織田家は大切だよ。そなたも大切だ。……だけどね。長丸や振姫も大切なんだ。あのような幼子を殺さねば地盤が揺らいでしまうのならば、余はそんなモノはいらない。それは、余が進む王道では無いよ」

『…………っ』

 一同息を呑む。

 とんでもない事を言っているのは百も承知。だけど、俺にも譲れない一線がある。

「これは、余の私的な我儘だ。嫌ならば反論してくれて構わない。ただ、もし許してくれるのであれば……皆には、二人の事を秘密にして欲しいな」

 俺は、皆を見渡すように視線を動かし嘆願する。すると、五郎左は呆れたように溜め息をこぼした。まるで、懐かしいモノを見たかのように。

「では、お客人はこれよりどうなさいますか? 」

「……っ! そうだね、離れに移して欲しい。世話役として白百合の者を付けて……ね」

「御意」

『……御意』

 五郎左に続くように、渋々ながらも文官達は承知してくれた。今は困惑の方が大きくとも、きっと分かってくれる筈だ。

「皆、ありがとう……っ」

 軽く頭を下げて礼を告げる。

 きっと、どの結末を迎えても家康の手のひらの上だったんだろう。本当に悪趣味な奴だ。……ならば、俺もとことんやり合ってやる。何があろうとも、俺は進む道を逸れる事は無い。

 そう、固く決意した。



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― 新着の感想 ―
[一言] 家康を倒したあと徳川を継がせるのにも使えますものね。
[良い点] 長秀さん、やっぱり頼りになる。 [一言] 三法師様、人質を殺さず仏門にとは。まさしく王道ですね。趙匡胤も柴氏の一族を保護しましたし、その後の子孫は崖山の戦いまで付き従ったくらいですね。 家…
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